天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史

勝本浦郷土史62

勝本浦郷土史62二月二七日創立され、勝本霞翆新城に各分団を組織した。 昭和十年町制施行により、勝本町青年団と改称された。団員は小学校卒業後満二五歳までとして、体育会、講演会、弁論大会、見学旅行その他社会奉仕事業を主なる事業として、団員の親睦を計ることを目的とした。勝本分団の創立も目的も組織事業内容も、香椎村青年団と変わるところはない。昭和六年頃は吉野功祐が、勝本町青年団長と勝本分団長を兼任しておら...

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勝本浦郷土史61

勝本浦郷土史61化の行事を先取りしたものであった。その意気と行動力には、威圧を感ずる程で、現在勝本を背負う人々の学ぶべきところが多い。斯くして大正十一年十月、勝本保護団が結成された事によって、保護団行事は教育本位となり、校友会で行われた勝本いちは、北星クラブが大正十二年創立された事によって、北星倶楽部の手に移り、そして商工会に引き継がれて今日に至っているが、敬老会はその後久しく中断されていたが、昭...

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勝本浦郷土史60

勝本浦郷土史60ある。 田間青年会 創立年月日は不明、会員は満十五歳より満三五歳までとし、但し二男は十七歳、三男は十九歳より入会、当時の会員数二九名、入退営軍人の歓送迎、年に一回の七社神社参拝、町内の溝の清掃を年二回行い、又毎月一回の質門協議会を開催して、智徳の啓発に精進する。 川尻青年会 以前は若者中と称して、創立年月日は不詳。満十五歳より満三五歳までを会員として、町内事務の率先履行、社会公共事...

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勝本浦郷土史42

勝本浦郷土史42 凧あげ 最近では、子供の凧あげ(凧とばし)姿もあまり見かけなくなった。みかけるとしてもナイロン製の洋凧とかいうもので、以前都会あたりの子供が正月にあげた奴(やつこ)凧(だこ)と同じで、ただあげるだけである。 昔から勝本では漁家に男の子が生まれるとヨウキュウ(鬼凧)を必ず作り祝ったとのことで、大正時代まで続いたと伝え聞く。種類としては鬼凧、金時凧、とんび凧、みな凧などであるが、それ...

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勝本浦郷土史59

勝本浦郷土史59二部と二部制にした部落もある。要するに、私達の入会した頃の会長、乃ち若手頭は、怖い程威厳があって、部落の権力者で傍にも寄れなかった感がした。 昔の各部落の年中行事を調べて見ると、多彩であり、種々記されているが、実際には大きく変わったものではなかったのではなかろうか。 年中行事として一般化されていたものに、七社参拝がある。これは壱岐の主な七社を歩いて参拝していた。それに三月の節句の野...

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勝本浦郷土史58

勝本浦郷土史58二部と二部制にした部落もある。要するに、私達の入会した頃の会長、乃ち若手頭は、怖い程威厳があって、部落の権力者で傍にも寄れなかった感がした。 昔の各部落の年中行事を調べて見ると、多彩であり、種々記されているが、実際には大きく変わったものではなかったのではなかろうか。 年中行事として一般化されていたものに、七社参拝がある。これは壱岐の主な七社を歩いて参拝していた。それに三月の節句の野...

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勝本浦郷土史41

勝本浦郷土史41 イカの生(いき)かけ 生イカを使用したブリの流し釣りは、およそ次の通りである。 1、幹糸はナイロン三分を五尋 2、枝糸は二分二厘を三尋~五尋 3、重りは三七匁、三八匁ぐらいにする。 4、上釣はイカ止め兼用とする。イカの生きをよくするために、皮だけにかける。また上釣は自由に動くようにして、イカの大小により調節できるようにする。 5、下釣は、ママコ(耳)にかくれるように皮一枚にかける...

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勝本浦郷土史57

勝本浦郷土史57公立壱岐デイサービスセンター 従来我が国に於ける老人福祉については、施設(養護老人ホーム、特別養護老人ホーム)に収容して世話する施設福祉の方法がとられてきたが、近年の老齢人口の急速な増加に対応する方策として、両福祉施設と並行して、在宅福祉が国の重要施設として取りあげられるようになった。 政府は昭和五一年より、在宅老人福祉対策事業を推進する事として、取り組んできたが、昭和六〇年代に及...

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勝本浦郷土史56

勝本浦郷土史56〇年、松尾文吉一〇年、原田保一五年間の就任は、その任にある者は容易な事ではなかった。その勲しは永く残さればならないが、民間人で何等公職もない人が、長い間防火思想につとめた人に正路鶴一氏がある。正路氏は、春雨と言う食堂を経営し、勝本浦の初代公民館運営協議会の会長もしていた。非常に真面目な人で、多くの人から尊敬される人であった。 氏は寒い日も厭わず、毎夜夜中に拍子木を叩いて、火の用心を...

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勝本浦郷土史40

勝本浦郷土史40 シメ切り 釣糸が底にかかった時、船をねらえながら鉛で作った「シメ切り」を利用した(チュウジャクであるため、現在のようにサガリから切れない)。底にかかったからと、船上から引っ張ってみたり、のばしてみたりする。しかしどうしてもはずれない時、無理に引っ張るとたいてい親ビシから二、三丁の所から切れた。 それでシメ切りにヨマを通して底に着け、引っ張るとたいていヨマの一番下から切れた。ガタ ...

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勝本浦郷土史55

勝本浦郷土史55ンボンプ購入されるや、三部制として一部、二部は以前のままとして、ガソリンポンプ部をおき、部長一名、部員二二名が浦中から適格者を選考した。昭和八年頃の三部制による人員は、二二六名であった。消防組より警防団となる 昭和十四年一月、警防団令が公布されるに伴い、陸海空防護のため、地域消防組及び防護団は、同年三月三一日を以て、一応解散し、警防団として統合された。昭和二二年四月三〇日の消防団令...

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勝本浦郷土史39

勝本浦郷土史39六、たぐり タグリ(クリヅリ)エバ(餌)をたぐりながらブリを釣る一本釣漁法で、タテヅリともいうが勝本では普通クリヅリと呼んでいる。明治初期、山口県の家室から漁に来ていた人々が伝えた漁法である。この漁法はその後勝本を本場として、隣村、在部方面にも伝わり盛んに行われた。使用する道具は現在までいろいろ変ったが、手早くたぐってエバの動きを活発にし、ブリを誘って釣るという方法は変わっていない...

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勝本浦郷土史51

勝本浦郷土史51まなかった。只建設資金について意見もあった。こうした建設工事には、国県の補助が多く期待されなかったが、町にはこうした場合の準備資金が蓄積されていた。それを取り崩す事によって、補足する事が出来るとの説明である。建設場所は、管理に便利な点、教育委員会も役場内に有る事が望ましい点等考えられて、庁舎に隣接して、不足分は整地して確保する事に決した。早速、篠崎設計事務所に設計を委託すると共に、...

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勝本浦郷土史38

勝本浦郷土史38タイ延繩操業 明治三九年、タイ延繩操業のため片山永寿氏を団長とする一行一二名は、二隻の船(五尋で六尺型の天トウ舟)に乗り込み、はるばる片道三〇日を費やして、満州の大連まで出漁したのである。七〇余年前、帆だけがたよりの無動力船で、勝本漁民のための新漁場開発をめざしたのである。ここに遠洋漁業の先駆者として、遠く海外に雄飛した先輩諸氏の気概をたたえ、感謝の意を捧げ、その名を記す。 氏名 ...

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勝本浦郷土史50

勝本浦郷土史50 六三 五 障害児受入れ 平成 二 七 午睡室天井張り替え 二 園児三六人 二クラス編成 三 園児四六人 三クラス編成 四 園児六一人 四五人定員を六〇人定員に復活する四クラス 五 園児六一人 四クラス編成 六 園児六〇人 四クラス編成勝本町産業復興事業所 産業振興事業所の前身は、勝本産業振興組合と称して、昭和三七年に設立され、昭和四三年に、勝本町産業開発協会と改称して、業者に請負...

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