天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐
どうぞ、食を文化をご堪能ください
勝本浦郷土史
勝本浦郷土史49
勝本浦郷土史49まなかった。只建設資金について意見もあった。こうした建設工事には、国県の補助が多く期待されなかったが、町にはこうした場合の準備資金が蓄積されていた。それを取り崩す事によって、補足する事が出来るとの説明である。建設場所は、管理に便利な点、教育委員会も役場内に有る事が望ましい点等考えられて、庁舎に隣接して、不足分は整地して確保する事に決した。早速、篠崎設計事務所に設計を委託すると共に、...
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勝本浦郷土史48
勝本浦郷土史48 が、その後昭和五六年、六〇歳以上の老人と、身体障害者に、湯の本温泉無料優待券が、年間十二枚(一枚四五〇円)交付される事になり、より多くの老人が、温泉センターを利用する事になり、一時期は盛況な時代もあったが、国民宿舎と温泉センターに限られていた優待券が、湯の本全体の温泉に適用される事になり、温泉センターが勝本へ帰りの時間帯のバスとセンターの閉館の時間帯等、サービス面等にも欠陥があり...
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勝本浦郷土史37
勝本浦郷土史37船と金策 漁師にとって、自分の好みに合せて船を造り、思いのままに漁に行くことができるということは、たとえようもない喜びである。しかし漁に乗り出すまで船具、漁具をそろえるにはかなりの資金が必要であり、特に新規の船頭方では(新仕出し)有合せで間に合せることができないから、よけい負担がかかる。 船は住居に比べて単価が高く、おそらく延繩でもするような五、六人乗りの船であれば、たとえ和船であ...
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勝本浦郷土史36
勝本浦郷土史36 イカ立繩とイカ曳繩 昭和三三年三月一二日山口県外海水産試験場の主催で同県漁業視察団が来勝、組合において説明会および懇談会が開催され、青年部も出席した。その席上において山口県で現在行われている漁法が説明され、そのなかから次の二つが勝本でも参考となるので『すなどり』に掲載された。 ・立繩漁法 この漁法は山口県でも数個所において実施されている。私のところでは山当てをして道具の下に小礎を...
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勝本浦郷土史47
勝本浦郷土史47 が、その後昭和五六年、六〇歳以上の老人と、身体障害者に、湯の本温泉無料優待券が、年間十二枚(一枚四五〇円)交付される事になり、より多くの老人が、温泉センターを利用する事になり、一時期は盛況な時代もあったが、国民宿舎と温泉センターに限られていた優待券が、湯の本全体の温泉に適用される事になり、温泉センターが勝本へ帰りの時間帯のバスとセンターの閉館の時間帯等、サービス面等にも欠陥があり...
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勝本浦郷土史35
勝本浦郷土史35フカ繩フカ延繩も昔やったことがあるらしいが、現在それを知る人は少ない。普通のフカ釣りといえば、立繩形式による白フカ釣りがあった。春先の八十八夜(旧暦で立春から八八日目、現在の五月一日か二日)すぎからやるもので、街は生きブリの一本がけ、釣針は二本であった(この釣針は下条鉄工所で特別に作ってもらった)。フカは歯が強いから、ワイヤーか手作りのクサリをサガリにした。場所は七里ヶ曾根の中の瀬...
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勝本浦郷土史46
勝本浦郷土史46 六三 五 障害児受入れ 平成 二 七 午睡室天井張り替え 二 園児三六人 二クラス編成 三 園児四六人 三クラス編成 四 園児六一人 四五人定員を六〇人定員に復活する四クラス 五 園児六一人 四クラス編成 六 園児六〇人 四クラス編成勝本町産業復興事業所 産業振興事業所の前身は、勝本産業振興組合と称して、昭和三七年に設立され、昭和四三年に、勝本町産業開発協会と改称して、業者に請負...
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勝本浦郷土史34
勝本浦郷土史34ホッケ漁場への押し出し、繩あげ、そして押し込み、帰ってからの「繩クリ」と体を使う仕事ばかりであったから、腹の方もペコペコであった。漁が終った後、繩にかかった瀬モノや赤ものを肴に飯を食う美味さはまさに格別のものがあり、延繩をやった者のみが知る味であろう。その御飯の残りを大きなにぎり飯にして、浜にきた子供達に食べさせた。いうまでもなく米ばかりの銀シャリである。大人が両手一ぱいに丸くにぎ...
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勝本浦郷土史45
勝本浦郷土史45 六三 五 障害児受入れ 平成 二 七 午睡室天井張り替え 二 園児三六人 二クラス編成 三 園児四六人 三クラス編成 四 園児六一人 四五人定員を六〇人定員に復活する四クラス 五 園児六一人 四クラス編成 六 園児六〇人 四クラス編成勝本町産業復興事業所 産業振興事業所の前身は、勝本産業振興組合と称して、昭和三七年に設立され、昭和四三年に、勝本町産業開発協会と改称して、業者に請負...
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勝本浦郷土史33
勝本浦郷土史33五、延繩ブリ ブリは古くからわが国の人々に親しまれてきた由緒ある魚で、文献の上では五〇〇年前(室町時代の明応年間)に飯魚(ハマチ)という名で、すでに現われているという。全長約一・五㍍で、体は紡錘形でやや側扁し、全身を小円鱗がおおっている。背部は暗青色、腹部は白色で、体側中央を不明瞭な黄色の一従帯が走っている。ブリの生息域は、北は北海道から南は台湾近海に至る温帯域で、黒潮及びその分派...
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勝本浦郷土史44
勝本浦郷土史44 が、その後昭和五六年、六〇歳以上の老人と、身体障害者に、湯の本温泉無料優待券が、年間十二枚(一枚四五〇円)交付される事になり、より多くの老人が、温泉センターを利用する事になり、一時期は盛況な時代もあったが、国民宿舎と温泉センターに限られていた優待券が、湯の本全体の温泉に適用される事になり、温泉センターが勝本へ帰りの時間帯のバスとセンターの閉館の時間帯等、サービス面等にも欠陥があり...
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勝本浦郷土史32
勝本浦郷土史35 第四節 田の浦捕鯨納屋 田の浦は昔捕鯨基地として有名であったが、捕鯨がなくなってしてからは、塩谷部落の勢力が伸びて、現在では田の浦としての部落名はなくなった。すべてが塩谷公民館の傘下となっている。田の浦は浜田ともいうとあるが、今日では浜田の地名を知っている者はほとんどいない。田の浦の捕鯨納屋は、箱崎の恵比須の納屋場と共に、西日本でも指折の納屋場として知られ、大村の深沢組、生月の益...
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勝本浦郷土史43
勝本浦郷土史43 国民宿舎(壱岐島荘) 所在地、勝本町立石西触一〇一番地、勝本町営国民宿舎(壱岐島荘)、鉄筋コンクリート三階、地下一階、冷暖房付き。敷地面積二、四二三・一一平方米、建物総面積一、七三〇・四八平方米(五二四・三坪)、収容人員一一九名、部屋数二七、営業開始日昭和四四年三月一日。 湯の本は、温泉源に恵まれ、又、港湾の眺望にも恵まれながら、数軒の温泉旅館はあるが、旧態依然とした一閑村である...
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勝本浦郷土史31
勝本浦郷土史31第十章 勝本の浦づくり 第一節 概要 勝本浦は壱岐郡ではもちろん、県下でも最大の漁業部落である。勝本に初めてきた人は、先ず漁船の多いのに驚くのである。塩谷から仲折を経て外港まで海岸線三・二キロに亘り、見渡す限り漁船でぎっしり埋め尽くして、その数約六五〇隻である。山裾を掘り崩して、又海岸を埋めて、海岸線に沿って浦づくりがなされているため、海岸線完成前まで帯状の一筋の道が蜿蜒と続き、そ...
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勝本浦郷土史30
勝本浦郷土史30第三節 気象 壱岐の気候は概ね海洋性気候であって、北西部を流れる対馬暖流の影響をうけて、冬季も比較的暖かである。夏季は南西風が多く、冬は北西風が多い。春一番と俗にいわれるが、こうした冬から春先の季節の移り変わりの時季に、最初に吹く強い南風の呼称である。壱岐郡郷ノ浦町元居の漁民が、古くより言い伝えて生み出したものとされている。そして春から夏へ移る間に、日本特有の梅雨期がある。これは冷...
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