天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史

勝本浦郷土史76

勝本浦郷土史76十三年には船具漁具類の購買事業、石油類の共同販売事業、スルメの共同加工事業、十四年には、石油類購買部事務所の建設、水産倉庫の建設等、次々と組合員の要望に応えて、設備を充実していった。 又、昭和十三年には、運搬船の建造を計画した、その頃は夏いか釣りの、無動力船も数多くいた、その和船を魚場まで曳航したり、ときには救助船としての必要があり、共同曳船及び、救助船という名目で、県に申請して補...

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勝本浦郷土史75

勝本浦郷土史75七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。 ...

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勝本浦郷土史74

勝本浦郷土史74七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立 県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。 ...

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勝本浦郷土史74

勝本浦郷土史74結して、七里ヶ曽根に、ブリの飼付をやるというような、智恵というか、対抗手段は考えられなかったのであろうか、只実力行動によって、飼付全廃を叫んで、児童の登校拒否、税の不納や、町内をゼネスト等の、示威行動をした。 反面実力者に頼り、支庁、県庁、飼付会社に、勝本の漁民の窮状を強く訴えたが、県としては一度許可した事業である、勝本漁民の苦しみは十分察知しながらも、簡単に全廃するのは不可能とし...

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勝本浦郷土史73

勝本浦郷土史73終戦後においても漁不漁は多くあったが、勝本の漁民は苦境を乗り切って今日まで来た。近年漁業離れする青年が多くなった、漁業という職業はそんなにつまらない職業であるのか、人それぞれに考え方も異なるであろうが、サラリーマンになっても常に上司に気を使い、頭の上ることは滅多にない、中堅になっても責任という重圧に悩まされる。 漸く羽を伸ばす頃となると、停年になる、生活の保護はされるがサラリーマン...

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勝本浦郷土史72

勝本浦郷土史72にkの変遷、漁獲の豊凶に伴い、漁具漁法も漸次改良され、殊に漁船の如きはその構造堅牢にして、かつ大型となり、遂に今日のように、ほとんどの漁民が、中型小型のディゼルエンジンを取り付けるようになった。之によって従来より海上不安も少なくなり、従来の出漁日数及び、漁場を延長するようになったのである。第五節 近年における勝本の漁業 過去における勝本漁業の一端を記したが、昭和四十年代から漁法もす...

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勝本浦郷土史71

勝本浦郷土史71る。第四節 大正より昭和初期の漁業の変革 すべてのものは時代と共にあり、時代と共に変わってゆくが、勝本の漁業も、明治、大正、昭和へと一大変革の時代であった。明治から大正の初期は、ほとんど和船にて七里ヶ曽根、時には対馬まで櫓と帆により、風を頼りに肉体と心を消耗し尽くしての就労であった。風のない日よりも、少し風があった方が肉体的には楽であった。勝本に動力船が導入されたのは、大正九年であ...

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勝本浦郷土史70

勝本浦郷土史70の耕作がかえってうるさく、藩主に返納した事が記されている。藩主としては浦民の怠惰を戒め、時化の時は畑に芋を作ったり、野菜を作ったりして、生活を助けるための特別配慮がなされたのであったが、風のない時は漁に出て、しけの時は身体を養い遊ぶ漁民の慣習は、土いじりにはなじめなかったのである。こうしたところに農業をする人が、農事の閑散期は日傭い人夫として働いたり、磯時に海山に行き働く勤勉さが美...

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勝本浦郷土史69

勝本浦郷土史69本の引揚者会も四〇年頃まであったと思うが、その後お互いに自立するに及んで引揚者と意識するのも、遠い昔のものとなった感がして、最近では引揚者という声も聞かれなくなった。従って引揚者会も今日では、自然解散して会の組織はない。消防後援会 消防後援会は、昭和三〇年前後、西部の有志の間から発起者によって、創始せられた。目的とするところは、消防団の消防防火等に対する支援であった。当時の町当局も...

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勝本浦郷土史68

勝本浦郷土史68本の引揚者会も四〇年頃まであったと思うが、その後お互いに自立するに及んで引揚者と意識するのも、遠い昔のものとなった感がして、最近では引揚者という声も聞かれなくなった。従って引揚者会も今日では、自然解散して会の組織はない。消防後援会 消防後援会は、昭和三〇年前後、西部の有志の間から発起者によって、創始せられた。目的とするところは、消防団の消防防火等に対する支援であった。当時の町当局も...

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勝本浦郷土史67

勝本浦郷土史67について、政治的に活動している、又軍恩妻の会も結成され、親睦をはかり、会の運営に、側面的に効果上げているが、終戦後四〇数年経た今日、会員も大きく減少している。勝本町母子会 昭和三四年五月二四日、母子寡婦家庭の、相互の親睦を深め、連帯意識の強化と複利増進を目指して、勝本町母子会が組織され、活動資金は物品販売によって得た益金を充てる等して、自らの力と勇気で生き抜くための精一杯の努力がな...

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勝本浦郷土史66

勝本浦郷土史66子は、男子青年団と時に演芸会其の他の行事に、特別参加して協力している程度である。勝本観光協会 勝本観光協会は、昭和二四年十一月三日、北星クラブを主宰していた、原田謙造氏を会長として、北星クラブの有志を中心に、勝本観光協会が設立され、本町の観光事業を推進してきたが、昭和二七年二月常任理事に、尼子福松氏を起用して、更に観光地域の整備と宣伝につとめ、観光の誘致に一層の力を尽くしてきた。こ...

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勝本浦郷土史65

勝本浦郷土史65がりません、勝つまでは」の合言葉で、銃後の守りに専念した。昭和二〇年八月終戦の詔書によって、八年に及ぶ長い戦は終わりを告げた。 戦時中の婦人団体は、強制的に戦争協力の一翼を担う、大日本婦人会に加入させられたが終戦によって解散、その後自主的な婦人団体の結成が奨励され、新日本の建設をスローガンに、婦人の地位の向上、教養の向上、地域社会の福祉増進等を目的とした婦人会が結成された。昭和二一...

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勝本浦郷土史64

勝本浦郷土史64子は、男子青年団と時に演芸会其の他の行事に、特別参加して協力している程度である。勝本観光協会 勝本観光協会は、昭和二四年十一月三日、北星クラブを主宰していた、原田謙造氏を会長として、北星クラブの有志を中心に、勝本観光協会が設立され、本町の観光事業を推進してきたが、昭和二七年二月常任理事に、尼子福松氏を起用して、更に観光地域の整備と宣伝につとめ、観光の誘致に一層の力を尽くしてきた。こ...

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勝本浦郷土史63

勝本浦郷土史63がりません、勝つまでは」の合言葉で、銃後の守りに専念した。昭和二〇年八月終戦の詔書によって、八年に及ぶ長い戦は終わりを告げた。 戦時中の婦人団体は、強制的に戦争協力の一翼を担う、大日本婦人会に加入させられたが終戦によって解散、その後自主的な婦人団体の結成が奨励され、新日本の建設をスローガンに、婦人の地位の向上、教養の向上、地域社会の福祉増進等を目的とした婦人会が結成された。昭和二一...

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