天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史41

勝本浦郷土史41

 

イカの生(いき)かけ
生イカを使用したブリの流し釣りは、およそ次の通りである。
1、幹糸はナイロン三分を五尋
2、枝糸は二分二厘を三尋~五尋
3、重りは三七匁、三八匁ぐらいにする。
4、上釣はイカ止め兼用とする。イカの生きをよくするために、皮だけにかける。また上釣は自由に動くようにして、イカの大小により調節できるようにする。
5、下釣は、ママコ(耳)にかくれるように皮一枚にかける。
6、現在手持ちのヨマに応じて作るのがいい。それでヨマの強度に合せてナイロン(サガリ)の太さを決める。
7、無風の場合(凪)は、重りが強ければイカが泳ぐのに抵抗が大きくなりイカが長もちしない。そこで重りを二〇匁ぐらいに軽くする。
8、風の強い時は、なるべく早目によく入替えること。人替の時にもブリが食いつくことがある。
9、釣具の餌はいつまでも同じ水深(タッド)に置かないで、ちょうどよい水深をさぐる。しかしあまり動かすのもよくない。
10、ブリがグイグイと引く時は二尋ぐらいのばしてやること。早あわせは禁物で、重くなってブリがあちら向きになったと思う時分にあわせる。
11、生き餌(イカ)の手持ちが多量にある時は、生きのいいのと何回も取り替える。新しいイカほど食いがよい。

カレイ釣り
「左ヒラメの右カレイ」のたとえで知られるとおり、両眼が身体の左側についているのが特徴である。冬は四〇―五〇㍍の深海の砂泥質にすみ、春四、五月頃になるとやや浅場に突きかけて産卵する。
俗に「ヒラメ四〇」といわれるくらい、おそアワセの代表的な釣りものである。つまり、アタリがあってから四〇数えてから合せろというたとえである。これは、生きたイワシ、アジ、あるいはカマスなどをエサにするためである。つまりヒラメはこれらのナマエサを一挙にのみ込まず、一度パクリと口にくわえてから、徐々に食いついていく性質を持っているからに他ならない。
勝本でカレーといっているのが、ヒラメである。戦時中、一本釣り用タコエバ(えらかし)が普及してから、和船や何艘かの着火船によって平瀬の出入り(仲江の沖)で、タコエバをおびきカレーを釣っていた。ヤズがよくあたるときもあった。戦後も四、五月になると、ブリ釣りの往復にちょっとやって油代や小遣い稼ぎをした。ドンブリもタバコのパイプみたいに作り、先をまげたりして使った。
昭和三六年頃から、アジやイカの生き掛けを試みる船もあった。三九年頃には潜行板も使用されるようになった。
ヒラメはタイに次ぐ高級魚であり、値もよく、日々損のないかたい漁法である。しかしブリのようにみんなが操業というわけにいかず、ごく一部の熱心な人が操業を続けている。

ヤズ釣り
勝本ではヤズと呼ぶ「ブリ子」は、行動が敏捷で活動性の強い魚であるため、この漁獲には曳き釣りが用いられ、またこの方法しかないとされていた。
島根県では水産普及員を中心としサバ釣りと同じ方法で大きな効果をあげたので、県水産試験場ではこの漁法の有望性に目をつけ、県下全域への普及にのり出すことになった。昭和三〇年ごろのことである。
この漁法は、六、七〇尺のナイロンテグスの下部に二五〇匁から三〇〇匁のおもりをつけ、幹糸の端からおもりまでの間に五寸から一尺間隔に夜光塗料をぬる。そして一寸三分―一寸五分の赤の毛糸を三〇本取りつけ、魚群のいるところに船をとめて糸をたらし上下にうごかすという簡単な方法である。
島根県益田の漁民のやった結果を見ると四月一一日は一隻で九〇匹、一五日には一隻で二二〇匹も水揚げしている。(『すなどり』掲載、昭和三一年八月)

シャックリ
昭和三四、五年ごろであろうか、小さなボンボン(寸二)が出回ってきた。それを利用して、主に春のヤズ釣りを行うようになった。従来ヤズが回遊して来ると、ホロ、または小さな曳繩用のゴムエバを曳いで釣っていた。またタイ釣り用のタコエバをおびいたり、たぐったりして釣っていた年もあった(地の辺(へ)り周辺で)。しかしいずれも一本ずつの釣りあげである。
はじめは、一〇号―一二号の合成テグス二五㍍に一〇本―一五本の短い枝をつけ、一〇〇匁ぐらいのおもりをつけて、ヤズの湧くところまたはケイキのところに船を停めて道具を底にとどかせる。そして上下に動かすと何本か食いつき、やがて釣針全部に食うときもあり、この道具のよさがわかってきたのであった。道具を持って手を上下することから「シャックリ」と呼ぶようになった。はじめは試しにやってみる程度で、鉄砲をたぐる方が確実と思われていた。しかし食いのよいときは一度に多数のヤズが釣れるので全船がこれになり、やがて釣数も多くした方が成績もよく、二〇本から三〇本、やがて五〇本もつけるようになった。そしてシャクらなくても食うことから一人で二つぐらい入れ、ヤズが回遊してくるとよい漁ができるようになった。
しかし、ヤズの少ないときや食いの悪いときは、鉄砲やボンボンたぐりの方が確実のようである。

カナギのたたき釣り
ヤズの群れに擬似餌ではなく、生きた餌を使用すると潮時に関係なく、一日中でも釣れると言われている。カナギの生きたのを釣針にかけ、同時に撒餌しながら釣る漁法である。カナギを生かしタボで少しずつすくいあげて、ふなばたに少したたきつけて(このたたき具合いが要領のいるところで、強くたたくと死ぬし弱いとすぐに逃げてしまう)海中に撒くと、カナギは驚き右往左往しながら逃げるのでヤズに大変食欲をおこさせる。従って、これを近くでやられると、ビニール製の餌は食わなくなるのである。
勝本海(うみ)では、全船が擬似餌で操業(シャックリ、ボンクリ、鉄砲など)しているから、他浦のカナギ釣船から見るとまさに垂涎(すいぜん)の好漁場であった。昭和四四年はヤズの多い年であった。特に勝本周辺の地(じ)の漁場に多かった。殆ど壱岐全体の小型漁船が集ってきて連日擬似餌でよい漁を続けていた。ところが数隻の玄界船が現れ、カナギ釣りをはじめたのである。そして必ずこの船たちにヤズは飼い付けられてしまうのであった。わずか数隻の玄界船のために、数百隻の漁船が釣れなくなるのである。彼らに対抗しようにも残念ながら勝本ではカナギは全く入手できない。また福岡方面から買い込むにしても数百隻の漁船ではいろいろとむずかしい問題があって、到底できない相談であった。このまま何の規制も加えずに野放し状態にして置くことはできない。勝本海でのカナギ釣りは、絶対にしてはいけない漁法なのである。だから他所船にも勝本海では、勝本漁民と同じ擬似餌の道具を使用するようたのんだのであるが、彼らは全くとり合わず自由にカナギ漁を続けるのであった。その上隻数も次第に増加して、四月一八日には約六〇隻の玄界方面の船が操業をはじめたのであった。背に腹は変えられず、沖世話人を先頭に全船一致協力して、これらの無法船を排斥したのである。これも自衛の手段であり、やむを得ぬことであった。
以後、四五年、四六年と郡内でも無法な船がいるために、この問題は尾を引いたのであるが、全漁民協力して自分達の海と生活を守ったのであった。

サンマたぐり
昭和三〇年ごろは、秋の夜釣(曾根)が終り、サンマが出回りはじめると、小型船は底繩を、それ以外の船はそれぞれハジキ竹を出してサンマあるいはエバによるブリ上繩曳ぎをおこなっていた。機械も人手のいる焼玉機関から、一人ででも操船できるディーゼル機関にかわりつつあった(四―八馬力の小型から順次大型化した)。このようなことから地元船も増加しつつあったし、他浦船も大勢七里ヶ曾根へ来るようになった。漁場はますます狭くなり、多数の漁船が長い上繩(うわのう)を曳ぎ回るのはむずかしくなりつつあった。
このような状態にあるとき、大分船によって始められたサンマたぐり漁法はたちまち勝本の浦中に広がった。船を停めて操業するため大勢であっても釣ることができる漁法であった。

食わなかったブリ
昭和三〇年ごろから、数隻の保戸島船が塩谷にきていた。やがて勝本の人とも顔なじみになった。昼間タイ釣りをしているとブリがよく湧く。保戸島では、サンマたぐりに良く釣れていたので親しい人にこれを話して道具の作り方も教えた。教えを受けた数隻の船が、早速ブリの湧くときたぐってみたところが一本も食わないのである。曳繩はどんどん釣る。あてにならないたぐりより、釣れる曳繩をやった方がより確実である。何回やってみても同じことであった。釣れないという報告を聞いて「勝本のブリは保戸島の沖にいるブリとは違うのか」保戸島の人も不思議がった。教えを受けた勝本の者も保戸島の人も、この漁法は駄目であるとあきらめ数年が過ぎたのであった。
やがてサンマたぐりが全盛となり正月前によい収入をあげることができるにつけ、習いはじめのころなぜ釣れなかったのかが問題になった。このことについて、きく丸の古田氏と話し合ったことがあった。その結論として、「ブリの湧くときばかりたぐって食わないからとすぐ止めていた。また場所をすぐかえてしまっていた。ブリの湧き沈みまで同じところに頑張ってたぐっていたら釣れていたであろう」ということであった。

さかんになったサンマたぐり
昭和三五年一二月二二日(旧一一月五日)、保戸船(古田船長と梅田和義君の二人乗り)が組合に大ブリ一六本もあげたと大評判になった。朝の引き潮にサンマで釣ったとのことであり、この時から俄然サンマたぐりが見直され、全船が操業するようになった(この年は曾根の夜釣りにおそくまで漁があり、赤瀬割り、平曾根などでも小ブリが夜釣りに釣れていたし、ブトイカやマメイカも取れていた。ただし昼の曳繩はあまり漁はなかった)。
「サンマたぐり」は、衆知のように生餌を使用するために、サンマの鮮度の良否がブリの食いに影響することは論をまたない。したがって冷凍サンマ、網抜きサンマ等よりも出漁前夜のすくいサンマが適している。なお二番イカの少ない今日、夜釣りにも兼用されるし、また握似餌のように、懸命にたぐらずとも釣れる利点もある。
道具は簡単で、打込みドンブリ二〇匁―三〇匁ぐらいにサンマを小さい紡績糸か合成糸でくくりつけてたぐる。下釣を腹の中通しにするか、横掛けにするかの違いだけである。後には手さばきがよいことから、横掛け式となった。ドンブリもはじめ手打ちで作っていたが間もなく鋳込みで作り、後年は特別に注文してメッキしたものなどを使った。現在では、ほとんど船具店から購入(メッキドンブリ)して使用している。

サンマ冷蔵箱
保戸船が伝えたものに、船に積むサンマ冷蔵箱があった。板を二重にして間にノコクズを詰めたもので、氷もとけず、サンマも弱らず、長持ちするものであった。
従来、勝本では三八(サンパチ)箱などに氷とサンマを入れ唐米袋などをかぶせただけで使っていた。早速、アイスキャンデー用の箱(電気冷蔵庫の普及により不用となりつつあった)の入手できる者はそれを使用し、新しく作る者は内側をブリキで張り間に鋸(のこ)くずを詰めた。後年発泡スチロールの板を張ったりしたが、発泡スチロール製の箱が出回りこれに替った。

パール
昭和三〇年はじめ、漁具研究家の木村金太郎氏(洋釣具、キンキラボンボン、ボン曳(こ)ぎ用のヒッパリゴムなどを流行させた人)が伝えた道具である。数年間だれも見向きもしなかったが、ある町内で対馬の厳原から取寄せて使ったところ成績がよく、以後広く使用されるようになった。ヤズ用に最適であり、ブリ釣り、晩のカツオ釣りに使用されている。

鉄砲
一本釣りのタコドンブリに、メッキしたようなものである。いつの頃からか船具店に現れるようになった。ボンボン用のタコを結びつけてたぐるもので、ブリやヤズがよく釣れ地回りのたぐりが主であるが、春先に曾根でも使用する。重さ二〇匁―四〇匁ぐらいである。ボンボン用のタコができてからであるから昭和三〇年代中頃からであろうか。シモの方から使いはじめたらしく郷ノ浦、渡良方面が早かったようである。その形が鉄砲のタマに似ているところから「鉄砲」と呼ばれている。

ボンクリ
ボンボン曳ぎが盛んな頃、たぐり用としてもボンボンが使われるようになった。ボンボンたぐりを略して、ボンクリと呼ぶ。
現在では海の澄んだ春先などごく小さい道具(一二号ぐらい)で、にごった時には二六号、二八号ぐらいで使われている。しかしはじめの頃は、比較的大きな道具が使われていたようである。
釣数はだいたい一〇本ぐらいで、枝の長さは約一尺、二尋半ぐらいの間にして本樹(ほんき)につける。枝と幹糸はだいたい同じ太さで(枝の最大は二二号)、五〇㍍もので作る。使用するボンボンはだいたい三寸から三寸五分で、色は桃、赤、アメ色と思い思いである。おもりは二〇〇分ぐらいで、底にとどかせてソロソロとたぐる。入れるとき、たぐるとき、どちらでも食うが、ときとして大ブリが釣針全部に食いついて切れることがある。
ベタ凪より少し風があって釣糸がなびくときの方がよいようである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社