勝本浦郷土史38
タイ延繩操業
明治三九年、タイ延繩操業のため片山永寿氏を団長とする一行一二名は、二隻の船(五尋で六尺型の天トウ舟)に乗り込み、はるばる片道三〇日を費やして、満州の大連まで出漁したのである。七〇余年前、帆だけがたよりの無動力船で、勝本漁民のための新漁場開発をめざしたのである。ここに遠洋漁業の先駆者として、遠く海外に雄飛した先輩諸氏の気概をたたえ、感謝の意を捧げ、その名を記す。
氏名 町名 続柄 直系又は血縁者
片山永寿氏 鹿仲 曾祖父 片山哲郎
松尾多十氏 仲折 父 松尾竹雄
小島芳太郎氏 坂口 祖父 小島敏夫
平田鶴太郎氏 坂口 伯父 土肥敏
篠崎作太郎氏 坂口 祖父 篠崎進
山口徳太郎氏 元坂口 祖父 山口松雄 芦辺
川村政太郎氏 築出 祖父 川村一郎 現在東京
小西貞吉氏 築出 父 小西雅治
中村重次郎氏 築出 祖父 中村登
山本福市氏 湯田 父 大久保キチ
小西亀太郎氏 塩谷 祖父 小西敦
一名不明
明治、大正時代の勝本の主要水産物ブリは、延繩によって多くが水揚げされた。しかしブリ繩も潮が小さくなると魚食いが悪くなる。小潮の時はタイ延繩に適し漁獲もあがる。従って延繩船は合理的な操業を考えていた。無動力船であるだけに厳しい天候の支配を受けながら、一潮一五日間を有効適切に、そして船頭の優(すぐ)れた経験と頭脳によって操業されたのである。古老の話では明治二八年頃はブリ延繩と共に操業され漁獲もかなりあっていたということである。従ってタイ延繩操業は、ブリ延繩の船頭方が同じ船、同じ乗子(ワッカシ)によって殆どが操業されていたという。
延繩船の乗子
当時の乗子のことをワッカシとよんでいる。その実状は勝本の子弟はもちろんであるが、町外からの出稼ぎ漁師も案外多かった。島内では、渡良、黒崎の人が多く、郡外で中、五島、平戸、諫早、天草、野北(系島半島)などからもきていた。勝本の船のなかでは、乗組員六人中四人が他所からの乗子という船頭方もめずらしくなかったという。
タイ延繩の漁具
明治、大正時代の漁具は麻の利用が多かった。各種元ヨマ、また麻を大量に必要とした羽(は)魚(いお)網(あみ)など、絶対に欠くことのできない資材である。
ここで麻にまつわるエピソードを記してみよう。交通の不便な明治の頃、漁村部落勝本にも遠く広島から麻の商いに商人が訪れていた。宿泊は取引きの関係上、馴じみの家に世話になっていた。たとえば塩谷の富永寅一郎氏の実父、長太郎氏の在世中に広島の人で河内辰次という麻の商人がきていた。この人は勝本に来て商いの途中、ふとした病に倒れ、遂に不帰の客となった。富永家ではこの霊をねんごろにおまつりして、現在当家に残る位牌には次のように記している。
栄心自亮信士位/明治三十四年旧十二月十七日/広島の人当家にて没す/河内辰次
また隣りの家、辻和男氏の祖父豊平氏在世中同じく麻の商人で、博多は対馬小路、手川徳次郎という人が、麻商いのため訪れ宿泊されていた。また黒瀬の和田屋、中上克三郎氏の家には広島安芸郡の人、住繁美寿太郎、又その子、正己という人が麻商いのため宿泊していた。交通の不便な昔、麻を必要とする勝本漁民、そして商人としては熱心な人々、その当時の人と人との暖かい心のふれあい、豊かな人情味をしのぶことができる。
タイ延線の製作法
(イ)延繩は幹糸(ムノウ)と枝糸(メヨマ)の大小の糸によって作られる。ブリ繩に比べタイ繩は小さく、幹系、枝糸両方合せた重さが三斤半(約二・一㌔)また四斤(二・六四㌔)である。当時は重さを秤る単位は斤であった。従って当時の人は三斤半繩とか四斤繩とかいって、その延繩の大きさを表現した。その枝糸と枝糸の間隔は五尋(七・五㍍)が最も多く船によって多少の差はあったようである。枝糸の長さは通常二尋(約三㍍)から二尋半(約三㍍七〇)が用いられ釣針の数は一桶八〇本付が普通であった。
(ロ)釣針は大正の末頃まで各自手製のものであった。時化になると、乗子一同釣針作りに、懸命であったという。釣の突端をヤスリで仕上げる者、型をそろえて曲げる者、錫のメッキをかけ、金あげする人、なかなか大変であったという。当時勝本では釣針作りの材料であるハガネ針金は、村田清三郎という人が現在の漁協信用部前に雑貨商を営んでいた。漁民は皆、この店から針金を仕入れたのである。この村田清三郎という人は現在鹿の下東町の村田英雄氏の祖父に当る人である。当時の人はこの釣針を五平太釣と呼んでいた。釣針の先は今日のように返り(イケ又はメガイ)はなく、突端の曲りが多く内側に曲り込んでいた。明治・大正時代、この五平太釣作りで漁民の間で名人とまでいわれた人に、下条太平という人がいた。釣針の形、錫メッキのかけ方、金あげ、魚のかかり工合等、誰知らぬ者はいない程の技術の持ち主であった。下条太平氏は、正村町に住み後、大久保触に移り住み、現在田村工業勤務の下条繁己氏の祖父に当る人である。
大正も一四、五年頃に都会より釣針が導入され初め、繩針も返りのついた漁民が喜ぶような品が、手に入るようになり、この新型の釣針を当時の人はハイカラ釣と呼んだ。
餌
タイ延繩の餌は、ブリ延繩にくらべ、種類も多い。一月二月はイワシ、二月三月はトンキュー、三月四月はカナギ、五月六月は蛸、一〇月から一二月の間はイカ・サンマ、黒虫、イワシと時期に応じ使用する。トンキューは小さいイカは生ばえにするが、大きいものは輪切りにして使用する。またカナギは生きたものを用い、黒虫は一匹掛けで、切り餌にはしない。イワシ、サンマは四ツ切りにして用いる。蛸は足も頭も切り、足は約四㌢位、頭は丹尺(たんじやく)に切って使用する。黒虫は繩をはえる(投入)前に熱湯をかけて半ゆでにして使用するのが特徴である。
イワシは当時勝本にイワシ刺網船が、十余隻いたため、殆んどこの船より入手した。また時として、芦辺の方に行き、芦辺のイワシ刺網船からも入手したという。トンキューは殆ど、郷ノ浦町の大島の方から入手した。カナギは八幡浦の方に出向き買い求めた。蛸は勝本では根島の地(龍の滝)から波止の根元付近が最も多い。また串山半島の方は、田ノ浦の対岸一帯が多く、八十八夜ともなれば蛸とりが初まり、一潮の中五日二〇日は、日暮れとともに潮が満ちてくるため、俗に五日二〇日の蛸とり潮といって、最もよい潮時とされていた。各自、松明(たいまつ)をたき、明りに寄ってくる蛸(みな蛸)を手づかみにしてとらえ、小さい穴が沢山ある竹の筒(フタがある)に入れ紐をつけて、貯え生かしたものである。
五月ともなれば、麦ワラダイの盛漁期で、冬期にくらべ、出漁する日数も多く、また延繩の数も多く使用して操業するため、ややもすると餌用蛸は不足を生じる。そのため、蛸の最も多いといわれた伊万里、またその方面に蛸買いに出向いていたという。何分櫓こぎ舟からの餌買いで、距離は遠く大変辛い餌求めであったという。黒虫は、灘の浜(天ケ原の向う側)が最も多く、次に三本松の下の浜辺でも多くとれたという。サンマは、各延繩船が自分でも獲り、また勝本にサンマ網船もいたため、勝本で入手することができた。
タイ繩漁場
当時、帆がたよりの和船であればなかなか沖合(七里ヶ曾根付近)まで出漁できる日は数少なかったという。地の方では、下は本宮山沖~平曾根の地のへり、また平曾根オチ(合(あい)の浜)荒曾根地のへり、仲瀬戸沖からハナゲ沖の瀬口一帯(今の動力船なら約一五分から三〇分位)など地回りの好漁場であった。気象状況をよく見定めて、中のコロビ、また荒曾根一帯(四〇分~五〇分位)を好漁場として操業された。
戦後、漁船の装備も年毎によくなり、七里ヶ曾根周辺で連日のように、かなりのタイの漁獲が続いた。明治・大正時代は今のように一網打尽の乱獲もなく、タイは相当にいたもようである。当時船頭の間では正月前、荒曾根オチから七里ヶ曽根の前の浜一帯に三日、タイ繩操業が出きたら、その年はゆとりあるよい正月が迎えられたとされ、漁獲高の程をうかがい知ることができる。
鍛えに鍛えぬいた丈夫な体の若者揃いの延繩船でも天候の支配はきびしく、沖合出漁は容易ではなかった。歯ぎしりして悔しがった日々操もさぞ多かったことであろう。
操業
秋から冬の操業は夜繩が多く(夜中一時、二時出港)普通繩数は一隻で一〇桶から一三桶ぐらい投入して操業していた。しかし、中には天候、餌、漁の状況でそれ以上繩の数を増して操業する船もいたという。
特に一二月の中旬から網おろしが初まり、旧三月まで操業されたイワシ刺網漁はタイ延繩船にとってはありがたい存在だった。それはイワシ刺網船が網を上げる際に落ちる(落ち餌)イワシを分けてもらい、それを餌として操業できたからである。夜中に出港して沖合にいるイワシ網船に漕ぎつけ、イワシ網船のそばからタイ繩をはえると不思議によくタイが釣れたという。たぶんイワシの刺した網の下には餌付きのタイが群をなしていたのであろう。
真冬の冷い夜は並大抵ではなく、中でも若い乗子のめし炊きは、とても辛いものであったという。薪を小さくけずり、ヒヤマ(炊事用カマドのある所)の中のカマド内で、火が燃えつくまでがたいへんであった。風によって消されないように、ドンザ(当時の沖用衣服)を頭からかぶり、煙の中に燻(いぶ)されながらの作業である。ことに風の強い日ほどつらく苦しかった。この辛さは何時までも忘れることができないという。
最も嬉しいことは、繩針に次々と大きなタイがかかって水面に浮き上ってくる時である。しかし夜中から出港して、櫓に初まって櫓に終る。操業終えて帰途につき、ハナゲ沖にさしかかった時(最も疲労した頃)、追手風が吹き初め、船頭の声で櫓を上げ、帆を巻き上げ走り出す時の嬉しさ、これ以上の有難さはなかったという。往時の漁民の肉体労働がどれほど苦難にみちた日々であったかがわかる。
春たけなわ、八十八夜を迎えてムギワラダイの盛漁期となるが餌は殆どミナ蛸で、日和も安定する時季で、船によっては三〇桶もはえる(投入)日があったという。一五日の潮時の中で七日から一二日頃までが、タイ延繩の最も良い潮時とされていた。生きた蛸を生間よりあげ、二人がかりで手早く足を約四㌢ぐらいに切っていく。しかし生きもので蛸はすぐに吸いつくため、なかなか要領が必要で、切られても動くほど、魚喰いがよいとされていた。それだけに二人で蛸を切り片方ではどんどん繩は投入されていくのである。
ムギワラダイは、冬のタイに比べ、価格の点ではおよばないが、漁獲高においては何倍もの水揚げができたという。
延繩漁の衰退期
大正七年から九年といえば、日本国が不況のどん底にあえいだ、それこそ悲惨な時代である。また米が暴騰して、あちこちに米騒動が起きたのもこの時代のできごとである。勝本漁民が漁具の仕出しに困窮したのも無理もないことであった。
大正も末頃となり、有水の焼玉エンジンを据えた船を港内に見るようになり、沖の漁場には底引船が操業するようになった。当時は動力漁船も少なく、底引船の操業規制はゆるく、延繩船が漁具の被害をうけ初めたのもこの頃からである。
また明治三五年から初まった羽魚網操業は沖は対馬近海より、地は平曾根付近まで、羽魚の回游状態に応じて約四〇隻の船が網を流した。そのため、延繩船は浮標を切られ、操業は年毎に窮地に追いやられることになり、加えて漁民間の道義も、ややもすれば退廃しがちとなった。漁場秩序も乱れ、大正の末期、一隻また一隻と延繩船は減船の一途をたどり、昭和に入り皆無に等しい末路を迎えたのである。しかし、大正九年、勝本浦に初めて焼玉発動機動力船和合丸が誕生し、昭和に入り年毎に動力漁船が増えて、同じタイ釣も延繩からタイ一本釣操業へと移り変っていった。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】