勝本浦郷土史55
ンボンプ購入されるや、三部制として一部、二部は以前のままとして、ガソリンポンプ部をおき、部長一名、部員二二名が浦中から適格者を選考した。昭和八年頃の三部制による人員は、二二六名であった。
消防組より警防団となる
昭和十四年一月、警防団令が公布されるに伴い、陸海空防護のため、地域消防組及び防護団は、同年三月三一日を以て、一応解散し、警防団として統合された。昭和二二年四月三〇日の消防団令の施行により、警防団は改組され、各町村消防団となった。昭和二三年三月、消防団に対する、指揮監督権が、警察より町村長に移された。昭和三〇年の町村合併により、旧町村の消防団は、発展的に解消し、統一した一町村の消防団となったのである。勝本町においても、昭和三一年三月二七日勝本町消防団設置条例により、両地区の消防団は合併して、勝本町消防団となった。合併前の鯨伏村の消防の設備は、ガソリンポンプ一基、手押しポンプ四基、詰所格納庫立石布気本宮の二カ所、計四カ所である。
勝本町における平成元年における消防団装備。
指令車一台、ポンプ自動車二台、積載車九台、小型動力ポンプ十三台、詰所格納庫十四棟、防火水槽四八カ所、消防団員、明治四三年約二〇〇余名、昭和九年二二六名、昭和三七年四一〇名、昭和四八年三四一名、昭和四九年二八七名、昭和五九年二五二名、斯くして団員数は、装備が機械化されるに従い、又、郡の常備消防が整備、強化されるに伴い、団員も減員された。
勝本町消防出初式の今昔
勝本浦の消防組は、明治二一年には組織されていた事は、先に記したが、出初式も当然その頃から行われていたものと考えられる。私の知ってからの出初式は、まだ腕用ポンプであった。若い人も多かったので、組員になる事は、誇りとされていた。その時代の装備と現在の装備を比すべきではないが、雲泥の相違である。当村の装備は、脚用ポンプが、東部と西部に一台宛あった。威勢のよいものに纏があった。現在でも都会では、消防に纏はつきものである。今の団旗に代わる象徴的なものであった。火事の場合は、最も危険な所に纏を振って、士気を鼓舞するものだと聞いていた。軍隊の連隊旗のようなものであった。大提灯もあった。三米位の棹の先につけて先頭を飾っていた。その他、鳶口、梯子、のこぎり、斧、水汲み布桶等である。腕用ポンプは、消防用の赤い車力に積んで、堂々と行進した。小頭は皆、細長い三〇糎位の弓張提灯をもっていた。夜間でも判るように、これを掲げて指揮する為のものであろう。出初式は、式後浜辺に竿の先に細長い提灯を二力所に吊るし、一定の距離から放水して射落とすのである。東部と西部に分かれての競争である。突進して一定の所にポンプを据え、並んで布桶の水を天狗取りにして水槽に入れ、それに吸水管を入れて、一定の押手によって、掛け声も勇ましく、ヨイショヨイショと押すが、中々提灯は破れても落ちない。筒先から出る水を上手に提灯に当てる事が、勝敗のわかれるところである。押手の交替も認められていた。提灯が落ちると歓声があがる。東部、西部にわかれての勝負であるから、興味もあった。近年の出初式は、装備も豪華なもので、グランドにて式があり、終わって指令車、消防車、十数台に連ねて、団員は徒歩にて、本年度の無火災を祈念して、聖母神社に参拝後、黒瀬の中央公民館前浜辺を中心に、三、四〇条の色素を混ぜての放水は、絢爛にして勇壮、勝本町の生命財産を守るその存在を、遺憾なく発揮する行事である。近年の出初式は、正月六日、全国一斉に行われているようである。
勝本浦私設婦人消防組
私設勝本浦婦人消防組は、昭和七年十一月三日結成された。婦人消防組は、沖出の時は、男子の消防組が作動出来ない事から、婦人消防がこれに当たり、男のいる時は、給水作業に従事し、男子消防組を補佐する事を目的としていた。
組頭には勝本町消防組頭を推し、副組頭には勝本婦人会長を充て、部長一名、係長八名、部員一三〇名であった。
常備消防署が設置されるに従って、出漁中の消火の心配も少なくなり、当初のように活動はしていない。
その他在部には、私設消防組として、新城に新東自衛消防団があり、大久保坂本触には、大坂自衛消防団が、今日まで存続しているが、内容については省略する。
正路鶴一
消防防火のため尽くした方は多い。初代組頭の土肥甚右衛門は二一年の長い間組頭をされ、土肥恵三一
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】