勝本浦郷土史40
シメ切り
釣糸が底にかかった時、船をねらえながら鉛で作った「シメ切り」を利用した(チュウジャクであるため、現在のようにサガリから切れない)。底にかかったからと、船上から引っ張ってみたり、のばしてみたりする。しかしどうしてもはずれない時、無理に引っ張るとたいてい親ビシから二、三丁の所から切れた。
それでシメ切りにヨマを通して底に着け、引っ張るとたいていヨマの一番下から切れた。
ガタ
これは春のたぐり(主にかかり)に使うと、ヒラスがよく食うので使用した。子供の頃、父から一匹五銭で買うからといわれ喜び勇んで釣りに行ったものである。
先ず小竹の先に穴をあけ、釣糸を通す。これは釣針が下にかかった時、竿(長さ四、五〇㌢)を突込んでその先ではずして取るためである。このように工夫した道具を持って聖母神社の裏の磯辺に行き、附近の穴にかくれているのを、ヒザぐらいまでつかり釣ったものであった。エサはムシ(ゴカイ)だった。クサビを細長くしたようなもので、クネクネしたものが何匹か釣れた。主に戦前であった。
ゴムエバ
だいたい昔の漁師は秘密主義だったため、よい釣具を考えだしても一般に広まるには時間がかかった。ゴムでブリを釣る新しい試みも誰が考案したものか不明であるが、勝本で使い初めたのは昭和一八年頃からである。
昭和一八年の旧正月すぎ、七里ヶ曾根に「アミ」の大群が流れて来た。その日から毎日毎日ブリは湧けどもさっぱり釣れず欠損続きであった。当時七里ヶ曾根で操業する船は普通四、五〇隻であったから、曳繩、たぐり、かかりと思いのままであった。しかし、いくらドジョウを引っ張っても、「アミ追いのブリ」は一本も釣れなかった。
モリで数十本突いて来る船はあったが、勝本浦は不景気であった。そこで地廻り、ワカメ切り等をするようになった。この時、ハナゲの下に小舟でかかり、ブリを釣るのが流行した。これにゴムエバを使用したのである。
誰が発明したのか不明であるが、子供の海水浴用の浮き袋を魚の形に切って使用した。今までのドンブリに釣を半分ぐらい埋め込み、ハンダで止める(「打ち込み」といった)。ゴムの頭はドンブリにななめの包丁目を入れて差し込み、たたいてしめた。現在のように糸で止めるようになったのは、後のことである。
ゴムは「フウラ」を持たせて打込釣に通し、海中で引っ張るとブルブルとふるうように工夫された。シッポの方を二枚重ねにして色をかえたり、今までのドジョウとゴムの折衷形ともいうべきフラセのゴム一枚と一匹のドジョウをつないだり、いろいろと考案された。しかしさすがに中古で薄っぺらの浮袋のゴムは弱く、何本か釣るとすぐ切れた。氷枕、長靴(特にひざまである飼付用の茶色のもの)は割に丈夫で重宝がられた。あらゆるゴム製品を探してゴムエバ作りにはげんだが、まだまだドジョウの方が主であった。ドンブリも片シビリにして、「シャギル」ように(斜にあがるように)シビリ穴を上の方にあけて通すと鉛がさけると考えられた(小モノ釣りなら大丈夫であるが、ブリはかなりこたえる)。それくらいの知識しかなかった。
戦後も数年間、ドジョウやあり合せのゴムで我慢しながらたぐり漁を続けていた。この間、「フラセ」にもよく釣れた。やがてゴムエバ用として良質の板ゴムも潤沢(じゆんたく)に出回りはじめ、一枚ものから二色合せのものになり、赤白、青白、草白と時季により、餌により自由にかえて使えるようになった。ドンブリにも貝ガラを埋め込んだり、亜鉛メッキをしてみたり、いろいろと工夫をこらしたものになった。また一時期、牛の角で帽子を作りドンブリの上にかぶせてよい漁をしたこともあった。四ツ足の話をしてもいけなかった明治時代の人からしてみれば、牛の角を船に積むなどということはもっての外であったにちがいない。
青年部研究班は、たびたび講習会を開いたり、各船よりエバを借り集め展示会を催すなど、あらゆる努力をおしまなかった。しかし最近では、振り出しに戻ってしまい、貝殻など使わず鉛のままで使っているようである。
また打込みには下釣りをつけた。最初の頃は、白エバのかわりといって使ったこともある。この下釣りはあってもなくても同じだと考えられている。
青年部活動のなやみ
勝本漁協青年部創立六年、その名は県下はもちろん全国的にもかなり知られるようになった。しかし部活動を推進しているうちに、かずかずの矛盾する出来事にぶつかり、どうしたらよいかわからなくなるときがある。
その一つに、箱崎漁協青年部に対するたぐり漁具作成問題がある。勝本の現状では、過剰と思われる漁家人口と漁船をかかえ、その分散は新漁場開発と関連して研究しなければならない状態である。
しかるに、漁具漁法を箱崎漁協に伝えれば、七里ヶ曾根は操業隻数の増加を見るし、かと言って全国大会にまで発表したたぐり疑似餌をお隣りの箱崎漁協に教えないわけにはいかないような気もするし……。現在の漁船を半減させれば、一隻あたりの漁獲数は増加すると言われている。
自分で自分の首を締める結果を招くようにも考えられる。
漁船の分散と漁法の研究発表との間には、このような相容れざる二つの要素を含んでいるのである。(昭和三五年、『すなどり』より)
かけひき
小学校を卒業し漁を習いはじめた頃最初に教えられたことは、人の「たより」は熱心に聞いておけ、しかし自分がよい漁をした時は絶対ないしょにして、どこで釣ったかなどは他言するな、ということであった。釣れた場所がみんなに知れれば、翌日は船が多くなり魚を追いとばすからであった。極端な例であるかもしれないが、ワザとウソの場所をおしえたりした。
昭和三〇年頃、紀州のシビ釣り船が来て連日組合に大量のシビをあげた。大勢の勝本漁民が販売所の棚に集まった。場所を聞くとウエス(西に)二時間走りとのことであった。この時に聞かれたささやきは「他所から来た船が本当のことをいうものか」ということであった。ウソではなかったが、自分のすることは人もするとの考えであった。これは見ず知らずの者に本当のことは教えないといった昔の漁民気質とでもいうのであろうか。
現在では時代もかわり、無線グループでこのような「かけひき」をすれば、みんなの信用を失い、仲間はずれにされかねない。「かけひき」は遠い昔のことになったのである。
銭湯と情報
船数も少なく何の通信設備もなかった時代、出港してから入港するまで一般の漁模様など全くわからず、それこそ出たとこ勝負であった。「ブリとしらみは食うたところにいる」といわれている。そのため今日の状況を知ることは、明日の参考資料として大切なことであった。
勝本浦の大部分の人が利用していた風呂屋、のんびりとつかりながらあれこれと世間話に花が咲いたものである。だがこの風呂屋こそ、漁師にとってかけがえのない情報交換の場であった。自宅に風呂がありながらわざわざ入りに行く人もあったぐらいである。ともかく得るところが多かったし、また人々の楽しみの場でもあったのである。
しかし時代の変化にともない家族風呂が普及してきたため、風呂屋が次々と廃業の止むなきに至ったのである。高度成長は、この風呂屋での楽しみをも消したのである。
分けくち
和船時代、たぐりの乗組みは五人であった。その後次第に減少し、昭和初期から動力船時代に入ると二、三人になり、ときには一人ででも出漁することがあった。動力船の時代になるとブリが減少して、多人数乗りでは分が悪く小人数の方が分け前が多くなってきたのである。
分けくち(配分)は、五人乗りで船が一口乗組員は平等で一口ずつであった。その後、船頭方が増え乗組員が減少し、それとともに船のロも七―八合となり、半口の時代もあったといわれる。漁具代として別に半口ぐらいとったこともあったが、これも船頭方が多くなったのが原因で船の口に含めるようになった。戦前、戦後の動力船の乗組みは、大型船で冬期はだいたい四人、夏期は二人ぐらいに減らした。小型船でも三人乗りはザラであった。分け口は冬期は二口(漁具は船頭方仕出しで、切れたりしたときは損失分を引く)が通り相場であった。船頭方は、この船の口から二合―三合の歩合を機関士に出した(延繩サンニュウの項参照)。
県外延繩船との粉争問題
世の中も変り、漁業の状態も多人数の乗り合いから親子または一人乗りとなった関係で一戸一隻となりつつあった。そしてその隻数は戦前では予想もできないほどの増加ぶりである。この中に十数隻の県外船が、延繩をやっていたのである。
延繩船は、潮の流れと漁場を横切る形ではえるために、潮に流して操業するタグリ船の漁具が繩にかかりやすい。初めの頃は遠慮しながら操業していたようであるが、次第にタグリ釣りの一番いい場所でやるようになった。タグリの漁具が繩にかかった時、近くに延繩船が繩をあげていれば船をねらいながら待っておれば漁具は捨てずに済む。しかしブリが釣れている時など、待つ余裕などなく、漁具を切って場所をかえた方が得である。だから、ここならと思う場所でも、他のないのをたしかめそれからでないとタグラれない。
このように、延繩船は多数の小型船の操業を妨害しはじめたのである。しかしそれよりもまだ悪いことをまきおこした。日の出回りとともに湧きあがらんとする魚群の上に、遠慮会釈もなくホースビー(全速力)で多数の餌を投げ込むのである。しかも十数隻が、である。魚の少ない時ほどこの漁具に飼い付けられて魚が散らず、繩の生き餌にばかり食いついて、大勢の小型船は待ちぼうけの状態となる。
祖先伝来の自分達の漁場と信じている七里ヶ曾根で、しかも他所船から操業のじゃまはされる、魚は釣られてしまう、ふんだりけったりである。勝本浦民ならずとも、頭にこようというものである。そしてついにはこれの排斥につとめることになった。
生(いき)バエ
生きたイカ(アカイカ、ササイカ、マメ)を泳がせてブリを釣る漁法である。
共漁丸船主に聞いたことを記してみよう。熊本県天草郡五和町二江港には八〇隻の漁船がいて、生バエ漁をしている。以前は枝を長くして使っていたが最近では漁具も改善され、釣糸も素よまか合成で、枝は一尺、下釣は上釣にくくりつけて下釣は潮吹きにかける。釣るとき、おもりはほとんど底からあげない。枝からおもりまで一尋半にしたところ成績がよく、現在では全船この方法で漁をしている。ただしねらえ釣りである。勝本では、幸い「トモ帆」を使いつけているから、「帆まき」でやればよいだろう。(編集班、昭和三一年五月『すなどり』)
勝本の生バエ
勝本でも、三一年春に生きがけ漁法が大流行した。いつもの年ならこの頃は、ドジョウ曳繩でたいした漁もなく、休漁も働きのうち(油損をしないから)であった。
しかしその年はイカの生餌を使うため、ブリ、タイ、アカバナ、ヒラス、アラ、それに近年珍しい「カラス」まで揚がるという好成績であった。
生バエをやるためには早朝出漁し、夜明にイカ取り(平ゾネの沖で、昼イカ取りの道具)をしなければならぬといった苦労があった。エサとしてはアカイカよりトンキュー(ササイカ)の方が、イカリもよくブリのあたりもよいようであった。
また、春の生きがけ(アカイカ)によい漁があると、秋の生きがけ(マメイカ)立繩漁にも期待してよいのではないだろうかといった希望がもてるのであった。これで艱難(かんなん)の春とも、おさらばしたかにみえる好漁の日が続いた。そして将来も有望かと見えたが、その後ボンボン漁法などが盛んになり、生バエは片手間仕事としてやるだけになった。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】