勝本浦郷土史56
〇年、松尾文吉一〇年、原田保一五年間の就任は、その任にある者は容易な事ではなかった。その勲しは永く残さればならないが、民間人で何等公職もない人が、長い間防火思想につとめた人に正路鶴一氏がある。正路氏は、春雨と言う食堂を経営し、勝本浦の初代公民館運営協議会の会長もしていた。非常に真面目な人で、多くの人から尊敬される人であった。
氏は寒い日も厭わず、毎夜夜中に拍子木を叩いて、火の用心を叫びながら、浦中を廻り、長い年月、防火思想の徹底に尽力された。所管関係官庁からの表彰、感謝状も多くあるが、そうした氏の美徳を今に残すものはない。茲に改めて氏の生前の美徳を讃えて残さんとするものである。
第十六章 壱岐広域圈町村組合事業
概要
壱岐広域圏町村組合事業と、お互いの日常生活とは無関係ではない。町村組合事業としては、壱岐公立病院事業、老人ホーム、特別養護老人ホーム及びデイサービス、し尿処理、火葬場経営、救急業務、常備消防(壱岐消防署)、視聴覚ライブラリー、電子計算業務、図書館、歴史民俗資料館、不燃物ゴミ処理、准看養成所等あるが、前記の准看護婦養成については、昭和二五年より五四年まで行われたが、入所者激減のため閉所された。
し尿処理場も、四町共同で、組合事業として計画されていたが、郷ノ浦町の処理施設設置により、広域圏構想は崩れ、その後残る三町にて各町より委員を選出して委員会が発足し、場所選定に努力したが、これも成立に至らず止むなく解散した。その後芦辺町は新しい構想のもとに処理施設を建設、勝本町は現在五〇哩以遠の海上に投棄されている。救急業務は救急病院を指定して、消防署の救急車によって、迅速に有効に処理され、多くに恩恵を与え群民によろこばれている。
視聴覚ライブラリーは、壱岐郡視聴覚協議会より移管、機械はフイルム三二六本、映写機二台ビデオ一台、郡民センターに備えつけられている。電子計算業務も、郡民センター内に設置され、各町役場も便利となり機能している。歴史民俗資料館は当面急ぐべきであるが、場所の選定に問題があり実現されていない。不燃物処理については、広域圏町村組合事業の中に策定されているが、各町にて処理場を造り処理されている。
現在壱岐広域町村組合事業として、処理運営されている壱岐公立病院事業、壱岐老人ホーム並びに、特別養護老人ホーム、並びに公立デイサービス事業、壱岐広域圏消防署、壱岐火葬場事業等は、本書としても避ける訳にはゆかないので、以上六件について簡略に記す。
壱岐公立病院の概要
壱岐公立病院事業は、壱岐広域圈町村組合事業の中でも、最も核となる事業である。特に総合病院、専門病院に恵まれない勝本町民にとっては、町村組合公立病院に頼る率は大きい。公立病院は明治二八年一月、当時の壱岐郡、石田郡の両郡立病院として発足した。当時勝本には分院が設置されたが、明治三二年勝本分院は廃止されている。
大正十一年郡制廃止により、郡立病院の存続も重要問題として、検討されたが存続する事に決し、壱岐総町村組合を設立して、壱岐公立病院として、運営管理される事になった。第二次大戦のため、日本医療団壱岐病院となり、接収される形となった。終戦後日本医療団からの返還も、容易でなかったが、昭和二四年一月に、紆余曲折の末、以前の十二力町村による、壱岐公立病院として、復活したのである。
昭和三一年には、伝染病棟(三〇床)昭和三五年には精神病棟(三〇床)が増築され、昭和三九年十二月、公立病院増改築工事完成。(昭和三七年二月から、三カ年継続事業として完成。)鉄筋三階建本館及び病室、延二、九九三・一平方米一〇〇床、昭和三九年十二月精神病
棟増床五五床となる。
斯くして漸次総合病院として整備がなされたが、こうした公営事業には経営面にも財政面においても、至難な問題が多くある、公営事業は公益事業である為、大きな利益をあげる必要はないとしても、収支の不均衡は各町村の負担となり、町財政を圧迫する。公立病院の運営も順調ではなかった。それは郷ノ浦町における、個人専門病院、又総合病院の出現である。病院が多くなれば当然ながら病院間の競争意識が出てくる、こうした競争意識は、個人病院の利益は、新しい医療機器の公益的購入に繋がり、思い切った経営努力がなされて来た。
今迄の壱岐公立病院の運営にも、管理者、副管理者、病院側も、努力がなされた割合に実効があがらなかった。
病院の経営は優れた設備と、優れた医師の確保と、親切な看護体制が必要であるが、公立病院が優れた
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】