勝本浦郷土史61
化の行事を先取りしたものであった。その意気と行動力には、威圧を感ずる程で、現在勝本を背負う人々の学ぶべきところが多い。斯くして大正十一年十月、勝本保護団が結成された事によって、保護団行事は教育本位となり、校友会で行われた勝本いちは、北星クラブが大正十二年創立された事によって、北星倶楽部の手に移り、そして商工会に引き継がれて今日に至っているが、敬老会はその後久しく中断されていたが、昭和の中頃、敬老の日が設けられ、自治体である町が主催して、敬老行事は行われているが、校友会主催のペーロン競争は、八〇余年後の今日まで続いて行われ、当時華々しく開花した校友会の時代の変遷を、暖かく感じることができる。
校友会行事は、学校及び浦部有力者挙げての協力があったために、すべてに計画的に実行され、その内容も校友会報として、綿密に記載されて実に懐かしい記録であるが、紙面の都合で割愛した事は残念であった。
この記録は土肥寛次氏提供の勝本交※3友会報第一号を抜粋して記したものである。
※3交にノ
勝本保護団
勝本小学校区は従来、第一部より第六部落に分かれ、各部落保護者会が組織されていた。当時の校長長島重治校長は、学制頒布五〇年事業の一つとして、従来の保護者会を保護団に改めて、その部落在住の戸主はすべて団員として、更にその部落保護団を統轄する、勝本保護団を組織して、保護団の自治的活動によって、勝本小学区の教育の振興を図りたいという目的で、大正十一年十月三一日、保護団総会を開催して、保護団の目的、団則の草案を発表して、満場の賛成を得て、団長に長島俊光、副団長に表谷柳助、大久保荒次郎が推選され、勝本保護団は発足した。大正十二年一月一日には、基本財産増殖、慶事記念寄附が規定された。昭和三年には保護団の尽力により、辨天崎に海水浴場、城山に林間教場の設置、昭和四年には奉安殿、家事室の建設、原田元右衛門翁の記念碑、校長住宅の移転、昭和七年二月にはサイレン設備、同十月には新運動場が竣工した。又平素夜間の児童の自習奨励、諸種興行物に対する取締り、学校備品設備品の寄附、登校道路の改修、運動選手の出場費等の負担等に活動した為に、昭和五年十月、壱岐郡教育会より表彰をうける。
昭和十六年四月尋常高等小学校も、国民学校と改称され、保護団も戦争のため以前のようには活動も出来なかったが、昭和二二年四月に、国民学校も小学校となり、新学制により、六三三制発足、郡内十二ヵ町村に町村立中学校が設立され、以前の保護団もPTA、又は育友会となって、保護団の名称はなくなったが、PTAは全郡的、又全国的な連合会の組織をつくり、学校と家庭とが話し合いながら、健全な子供を育てるために保護団にも増して、活動を続けているが、設備備品用具の寄附行為は、税外負担として禁止されている。
北星クラブ
大正十二年の創立になり、当時会員は十四名、会長には創立以来原田謙造氏が就任され、年齢には制限はなかったが、満三〇歳より満四六歳の人であった。毎月十五日例会を開き、雑談中に意見交換をなし、又野球具、角力場を設置し、壱岐対馬対抗競技の世話をなし、当浦に野球団を組織する等、体育推奨に意を用い、辰の島海水浴場、城山公園の設置等、社会奉仕をなし、勝本案内図、又船着場には案内板を設け、壱岐来遊者の利便に供し、北白川宮殿下御来島記念碑、松尾万吉氏の記念碑を建設せんとして準備していたが果たせなかった。この頃の北星クラブの活躍は、お互いに自分の仕事を犠牲にしての献身的で今では考えられない活躍ぶりであった。
勝本体育協会
体育協会は、昭和二〇年野球部を中心とした、体育振興会として発足、その後青年を中心として大衆化に努め、昭和三〇年頃は、野球、相撲、底球、卓球、水泳、剣道、陸上の七部があり、体育の振興につくした。その中でも主として常時活動を続けたのは野球チームであり、その名も北星チームとして、郡内野球行事でも強く健闘していた。特に昭和二四年から始められた、壱岐、対馬、平戸の三島による、玄海オリンピック大会に備えて、陸上部もさかんに活躍した。今日では相撲、水泳部は廃せられ、新たにソフト部に柔道、駅伝、庭球、ゲートボール、バスケット、サッカーの事業部が活躍している。
青年団
浦部青年団を記す前に親団体である、香椎村及び勝本町青年団について記す。香椎村青年団は大正七年
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】