勝本浦郷土史68
本の引揚者会も四〇年頃まであったと思うが、その後お互いに自立するに及んで引揚者と意識するのも、遠い昔のものとなった感がして、最近では引揚者という声も聞かれなくなった。従って引揚者会も今日では、自然解散して会の組織はない。
消防後援会
消防後援会は、昭和三〇年前後、西部の有志の間から発起者によって、創始せられた。目的とするところは、消防団の消防防火等に対する支援であった。当時の町当局も、財政的に豊かでなかった為に、消防団の年末等その他、防火週間における徹夜の警戒見廻り等も、詰所における炭火の経費又、器材の修繕費も、充分与えられなかった。
当時の浦部における、徹夜の木炭による、いか乾燥作業、又正月前の餅搗き等、浦部は常に危険な状態にあった。そうした危険を見兼ねた西部の有志は、発起して各部落に一名の世話人を配して、後援会を創始した。後援会には会長、副会長、会計等の役員を設け、各戸より僅かな消防後援費を徴集して、必要な経費に充当していた。昭和三五年頃からは、器材の修理その他、消防に必要な分団の経費も、町役場でなされる事となったが、後援会は存続され、消防の出初式、有事の出動の場合における、団員の慰労会等を行っていた。後援会はその後、東部の分団にも波及して、後援会が組織され、後援会長は、消防出初式にも案内をうけて、出席する公認の後援会となって、昭和六〇年頃まで存続されたが、時代の変遷によって、すべてが機械化され、又壱岐郡立消防署が開設され、団員も半減しいつまでも公設消防が、民間人に消防の経費を負担させる事は、心よしとせず、自然解散となり、今日では消防後援会は解体されている。
老人クラブ
家庭のため社会のため働き尽くして老いゆく淋しい老人に、老人の生き甲斐と老人自身の自覚に基づく努力を引き出すことを前提として当局の指導により、又老人も自分の老後をより豊かにするために、各地区に老人が自主的に集まり五〇人を単位とする老人クラブが各地域に組織された。これは五〇人を単位とするために部落の一町を一単位とするものでなく、大きな町では一地域、小さい部落では二部落三部落が単位老人クラブを結成した。浦部においては公民館は二一分館あるが、老人クラブは九単位に分かれて結成されている。浦部の老人クラブは昭和四〇年前後、ほとんど結成された。地域老人クラブの活動は五六年四月より支給されている温泉の無料優待券による入湯慰安親睦会が主であり、浦部においては年に五、六回より月一回平均入湯親睦会が行われている。又町より島外観光研修費として補助される二〇万で隔年毎に二泊三日の島外研修旅行がほとんどのクラブで行われている島外観光研修のない年は島内観光巡りその他がある。連合会主催の老人運動会参加等もある。特に全員ではないが、ゲートボールは何処のチームも盛んで、最近各種競技が多く政治的に利用される面も多くなり過熱気味である。従って熱心である。
勝本町老人クラブ連合会
在部鯨伏地区も十三のクラブが結成され勝本町で計二二クラブがある。昭和三九年十一月、これら単位クラブ会長の話合いにより勝本町老人クラブ連合会が結成された。
勝本町老人クラブ連合会の事業としては、勝本町老人スポーツ大会も昭和五〇年開催以来毎年継続実施されている。島外観光研修旅行、老人ホーム慰問、町老連主催ゲートボール大会、県老人スポーツ大会の参加、老人大学の開講、文化展における老人作品展示等老いて益々かんに余生を豊かに楽しむ事は慶ばしい事である。
第十八章 勝本の水産業
第一節 古来の漁業
壱岐の古来の漁業については、詳しく記されたものは多く見られないが、壱岐の多くの遺跡から発掘された採集品その他によって、大体を推定する外にない。壱岐島は周囲が海であるだけに、漁業に恵まれている事は自他共に認められる事である。
歴史的に記すと日本にまだ文字のなかった頃、日本の事を記した最古の記録とされている、今より約一七五〇年前頃の、西暦二四〇年頃の三国志の中の魏志倭人伝の中に、朝鮮より対馬、壱岐を経て、「一海を渡る末盧国(松浦)に至る四〇余戸あり、山海に沿いて居す、草木繁茂して行くに前人を見ず、好(○)く(○)魚(○)腹(○)を(○)捕(○)ら(○)え(○)て(○)水(○)に(○)深(○)浅(○)な(○)く(○)皆(○)沈(○)没(○)し(○)て(○)こ(○)れ(○)を(○)取(○)る(○)」と記されてある。これは唐津付近の日本で最も古い漁
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】