天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史66

勝本浦郷土史66

子は、男子青年団と時に演芸会其の他の行事に、特別参加して協力している程度である。

勝本観光協会
 勝本観光協会は、昭和二四年十一月三日、北星クラブを主宰していた、原田謙造氏を会長として、北星クラブの有志を中心に、勝本観光協会が設立され、本町の観光事業を推進してきたが、昭和二七年二月常任理事に、尼子福松氏を起用して、更に観光地域の整備と宣伝につとめ、観光の誘致に一層の力を尽くしてきた。この頃までは町としても、観光に対する関心も薄く、もっぱら観光協会の奉仕的作業に頼り、事業費を必要に応じて補助する程度であった。昭和三〇年四月任意団体として、勝本商工会が設立されるや、観光協会は発展的に解散して、商工会の事業の一部として引き継がれていった。その後日本の景気は鰻のぼりに上昇して、神武景気を謳歌する時代となり、観光も今までの観光としてでなく産業として捉えられるようになった。こうなると町としても、観光を捨て放したれ流しの、厄介ものとばかりには思っていられずに、町自ら観光に目を開かざるを得なくなり、折から農漁村の疲弊をカバーするために、役場内に観光係を設置して、観光を産業と意義づけ、施設の整備に力を入れなければならなくなった。そこで従来の商工会の中の観光部を解散して、勝本の農業、漁業、商工業を一丸として、観光事業に取り組む事になり、昭和五二年十二月二一日、新しく勝本町観光協会が、斉藤千嘉太氏を会長として発足したが、民主団体の奉仕的事業であるため運営に行き詰まり、昭和五九年七月、従来の観光協会を再編成して深山泰氏を会長とした、今日の勝本町観光協会となった。
 今日観光協会で行われていることは、観光事業は町が行うので協会としては、町の観光事業の補助的役割である、観光パンフレットの配付、観光表示板の掲示、海水浴場開き、凧揚げ大会、海中海岸の美化清掃が行われている。特に海岸の清掃は、公民館に呼びかけ度々行われ汚れがなくなり、海岸も美化されて好感が持たれている。

遺族会
 勝本町遺族会は、(合併前)昭和二二年四月一日篠崎清吉氏を会長に推選して発足した。勝本町合併前の戦死者数は三三一名で、うち浦部出身者、戦病死者は一三六名であるが、其の後一五五名となった。
 鯨伏村地区では、昭和二一年十二月、白川興一郎氏を会長に推して発足した。鯨伏地区の戦病死者数は一二六名で、合併後の勝本町では、両地区合わせて四五七名に達する。勝本町ではこうした戦没者を慰霊するため、毎年四月十五日神岳山の境内の靖国の碑の前で、勝本地区追悼慰霊祭を挙行し、鯨伏地区では春分の日に、お寺で慰霊祭を行っている。又郡賀国分寺慰霊碑においては、県奉讃会による慰霊察が厳かに行われているが、終戦五〇年を過ぎて、会員も年々減少して慰霊祭に参拝する遺家族が少なくなってきている。

篠崎清吉
 勝本地区遺族会のため、又遺家族のため忘れてならない人に、初代会長篠崎清吉氏がある。氏は九州郵船の代理店として、泉屋のおんちゃんの名で多くの人に親しまれていた。戦時中は出征軍人遺家族の面倒等をよく世話され、戦時下戦後の勝本の重鎮的存在であった。
 終戦となり昭和二二年勝本の遺族会が結成されるや、自らも長男の戦死による遺族の一員として、推されて初代会長となり、四〇年三月まで十八年間、お互いに肉親や夫を亡くした悲しみを乗り越え、助け合い慰め合って強く生き抜くために、終始親身となって、多くの人々を扶け世話された事は、実に尊いものであった。又戦時戦後にラジオ、テレビのない時、重要なニュースは自分の家の外に、大きな黒板を設けて時々の珍しいニュースを知らせる等、社会のため尽くされた業績は多いが都合により省略する。

勝本町傷痍軍人会
 この会は昭和四八年十二月に結成され、会長に松尾亀三氏を選任して、当初は該当者の掘り出し等に苦労も多かったようである。会の事業としては、総会と戦没者の慰霊祭の参加、傷痍軍人物故者の慰霊等も例年行い、特に会員の親睦に意を注ぎ、年に数回親睦会を行っている。会員は現在十四名と少なくなり、又傷痍軍人妻の会も、昭和四九年十月に結成され、会長に中村淳子を選任し、傷痍軍人の妻として、夫の不自由を扶け、共に親睦をはかる事を目的としている。

軍恩会
 軍恩会は、軍人恩給の支給をうけている受給者の会で、会員相互の親睦をはかり、恩給の適正な受給等




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社