勝本浦郷土史75
七里ヶ曽根にブリ飼付漁許可されブリ飼付組合設立
県としては勝本漁業者も七里ヶ曽根を免許するので、飼付事業を組合事業としてやらないかというすすめを受けて、それに気付いた如く、各部落協議の結果時勢に順応するのが得策であるという事に意見が一致し、各部落よりブリ詞付組合設立委員を選出して、昭和五年九月香椎村漁業組合とは別に、純漁業者のみによる七里ヶ曽根ブリ側付漁業組合が発足したのである。
後日県水産課よりの話では、七里ヶ曽根は当時欧州航路の汽船の需要航路であり、国としては免許に難色を示したが、勝本漁民の実情を県としても国に強く訴え、許可されたものだという事である。組合が発足し組合長に大久保平三郎を推して、特別飼付業権免許を申請し、昭和五年九月大久保平三郎外二六一名に対し、ブリ飼付特別業権免許証が交付された。この免許証は昭和九年大月県の指令により、勝本漁業組合に譲渡する、以後は勝本漁業組合より免許を借り操業して、毎年の借入料五〇〇円を支払って操業する。
(註)これは昭和七年四月香椎村漁業組合を分離して、別に長島俊光を組合長として、勝本漁業組合を設立したためである。ブリ飼付組合とは異なるものである。飼付漁業組合の組織の大要としては、組合員は勝本浦に存住している純漁業者を以て組織し、年齢は尋常高等小学校を卒業した者より、満六〇歳までの漁業者を以て組織する、組合員数四五九名(昭和五年設立当時)漁船は動力船全部を雇い入れるものとする、飼付の釣り船には焼玉エンジン発動船六馬力以上を使用し、発動船五馬力以下モーター船は、釣船には使用しない。(昭和五年当時の動力船六七隻内運搬船四隻含む)五馬力以下は組合員の八合の割で支結する。(次年度より変更する)
配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。
勝本漁業共同組合設立
時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。
昭和十年、香椎村は勝本町と改称した為に、香椎村漁業組合も、勝本町漁業組合と改称した。昭和十六年県の指令により、勝本漁業協同組合は、勝本町漁業組合を吸収合併する事になった。その折の条件として、今後在部農家、その他の人でも漁業に従事し、漁業協同組合に入会の希望者は、いつでも入会できるという条件を付して、合併が成立し、以前の香椎村を改称した、勝本町漁業組合は、正式に解散したのである。
斯くして、勝本漁業協同組合が設立されるや共同販売事業のための、荷捌所及び、組合事務所の建設、
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】