天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史73

勝本浦郷土史73

終戦後においても漁不漁は多くあったが、勝本の漁民は苦境を乗り切って今日まで来た。近年漁業離れする青年が多くなった、漁業という職業はそんなにつまらない職業であるのか、人それぞれに考え方も異なるであろうが、サラリーマンになっても常に上司に気を使い、頭の上ることは滅多にない、中堅になっても責任という重圧に悩まされる。
 漸く羽を伸ばす頃となると、停年になる、生活の保護はされるがサラリーマンには自由がない。漁業者は借金はいくらかあるとしても、二十才で船長となって操業範囲であれば、自由自在に広い海を誰の束縛もうけずに操業できる、その人の努力で月に三〇万や四〇万円位の収入になる、時には一晩で何十万円働く事もある。
 その人の考え方生き方である。漁業はつまらないものという程に、つまらないものではない。希望をもって懸命に働けば、道は拓けてくるものである。むろん現代だけを考えると絶望的になる事も当然とは思われるが乱獲汚染稚魚の増養殖に世界中が眼覚めてこの自然の海を愛し守れば海の魚の枯渇することは先づない。又以前の海に戻る事は必定である国県町組合を挙げて離島町村の過疎化を阻止する方策を尚一層真剣に取組んで行かねばならない。

第六節 勝本漁業組合の変遷
香椎村漁業組合及び勝本漁業組合
 明治四〇年、壱岐の有産智識階級を軸に、白川助太郎を組合長として、壱岐漁業組合が発足した。翌年三月県の示達によって、香椎村漁業組合が創立せられ、組合長に土肥勇一郎を推し、組合長宅を事務所として事務を開始した。組合員は村内一円の漁業者はもちろん、商人、その他の人も加入できる、単なる専用漁場の管理、即ち、地先の磯のウニガゼ海藻類の管理のみの組合であった。従って、磯の管理人をおき、磯の管理の取締に当たらせた。昭和元年には、壱岐ブリ飼付漁業株式会社によって、壱岐周辺の漁場の多くが、その許可権内にあって、特に勝本の漁民は、一つ残された七里ヶ曽根も、飼付漁業の撒き散らした餌によって、ブリも飼付けられ、頼りの七里ヶ曽根に出演しても、ブリは全くあがらず、生活は大きな圧迫をうけた。斯うした事が、四、五年続いて、勝本漁民の生活は極度に苦しくなった。こうした事に遭遇して、始めて漁民一人の力では何事も出来ない事を知る。漁民の憤怒の情は、燃えて今まで見られなかった団結心となって、漁民でない、資本家によって、組織されている飼付会社と、これを許した県当局を心から恨んだ事は、当然の事であったが、漁民が団

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【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社