勝本浦郷土史63
がりません、勝つまでは」の合言葉で、銃後の守りに専念した。昭和二〇年八月終戦の詔書によって、八年に及ぶ長い戦は終わりを告げた。
戦時中の婦人団体は、強制的に戦争協力の一翼を担う、大日本婦人会に加入させられたが終戦によって解散、その後自主的な婦人団体の結成が奨励され、新日本の建設をスローガンに、婦人の地位の向上、教養の向上、地域社会の福祉増進等を目的とした婦人会が結成された。昭和二一年三月、勝本婦人会が白石キチを会長として発足した。戦時中本部の婦人団体は、要塞地帯に生活した関係上、他地方の婦人に比べて、より以上に軍に協力したが、戦後は国民全部が独尊的な戦争を反省して、廃墟と化した日本を再建する事に立ち上がった。昭和二二年八月には、壱岐郡連合婦人会が結成された。特に多年の願望であった女性解放が実現して、選挙権を獲得し、あらゆる面に男女同権の立場が与えられたので、その社会的責任の重大さに目覚め、婦人会も総力をあげて自己の教養の向上と、郷土の復興、生産の増強、社会奉仕等に目覚ましい活躍を続けた。その点では、社会的連帯感が強く、町の発展と壱岐の発展に大きく尽くしたといえる。
斯くして星霜も人も移り変わって、今日の婦人会の総会に、役目柄多年出席する機会を得て、今日の婦人会の活動を側面から記して見る。戦後新たに選挙権を獲得し、家庭や社会における重要な構成員である。一日も早く今までの後進性から脱却して、名実共に平等の立場を獲得しようと、団体活動を通して努力した事は、極めて価値の高いものであった。そうした事から、当然の事ながら、今日程婦人の使命が問われ、期待される事もかつてなかった。婦人の果たすべき役割の余りにも大きなものがある事を感じる。家にありては、家庭の太陽として、よき妻で又よき母であると共に、倖せな家庭を創り、よき社会人となるためには学習活動や、社会活動を通じて、会員相互の親睦をはかると共に、婦人としての教養を高めながら、各種実践活動を行い、生活の合理化に取り組み、文化の向上、或いは産業振興の改善等に努力し、明るい住みよい町造りに貢献した功績は、大きなものがあった。筆者も数多くの集会に出席するが、婦人会の総会の如く気持ちのよい集会はない。当日の集会の出席の結果を発表する総会は年一回であるが、婦人会は出席率が常に九〇パーセントを下った事はなく、特別に忙しい人を除いて、皆弁当を持参して閉会までいる事は、会員としての相互自覚によるもので感激する。家庭と社会とを調和的に果しているものといえよう。
しかし又一面には婦人会の盛り沢山な計画に、次々と新しい計画を消化して行く事は至難な事である。四一年五月より始められた子供を見つめる運動が展開された。毎月第一日曜日には、子供のいる家の門口には、子供をみつめる日と書いた、黄色い旗が吊り下げられ、この日だけは、親と子が、楽しい一日を過ごしてやろうという主旨は結構な事であるが、今日では旗を下げる者もなくなったようである。
昭和四二年に始められ、、婦人会の花いっぱい運動は、町全体を、浦部といわず、田舎と云わず、明るいものとして定着したようである。ちょっとした路傍の一隅に、町角に、僅かな空き地に、花壇を造り、四季とりどりの花が咲き、又観葉植物の鉢植えをして、門口の日光に当てる、道行く人を楽しませ、訪れる人々に心からの明るさを花によって知ってもらう。在部でも国道、県道の道路わきに、花を咲かしている。いつまでも続けてもらいたいものである。勝本婦人会は大正九年四月に創立されたが、昭和二一年三月白石キチを会長として再発足したので、終戦直後よりの会長名を記す。(敬称略)
女子青年団
大正十年二月十日、香椎村女子青年団が設立され、義務教育終了後から満二五歳までの未婚の女子を以て団員として、勝本、霞翆、新城の三分団をおいた。役員は団長、副団長、理事二名、分団長、顧問若干名をおき、指導係として、村内三小学校の女教員三名を充てた。春秋二回の定期及び臨時の総会を開催して、智徳の修養、体位の向上を図り、各分団支部に於いても、毎月一回の会を催し、団員相互の親睦と修養につとめ、社会奉仕や、各種の事業遂行に努めた。昭和十年の町制施行に伴って、勝本町女子青年団と改称した、勝本浦部女子青年団は、高等小学校を卒業するや二カ年家政女学校に進学する者、壱岐に就職の場がないために、主に都会に働きに行く者、又早くより嫁に行く者等あって、女子青年団とは名ばかりで、団として活動する事は当時からむずかしく、纏まった事業は余りなされていないのが実情である。特に近年では、女子でも九〇パーセント以上が高校に進学するようになってからは、卒業と同時に、進学する者、高校を出た為に卒業して都会に就職する者が多くなり、故郷に残る者は僅かで、農業者、漁業者の後継者の嫁の問題が大きな問題となるまでに、青年女子が郷里にいなくなった。
こうした事は、女子青年団の存廃というよりも、勝本町の後継者の問題、ひいては農業、漁業者の過疎化にも拍車をかける事となり、重大な問題に発展しつつある事は、憂慮すべき事である。
従って現在では、女子青年団として纏まった事は出来ない状態にある。幸い壱岐に就職している青年女
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】