勝本浦郷土史70
の耕作がかえってうるさく、藩主に返納した事が記されている。藩主としては浦民の怠惰を戒め、時化の時は畑に芋を作ったり、野菜を作ったりして、生活を助けるための特別配慮がなされたのであったが、風のない時は漁に出て、しけの時は身体を養い遊ぶ漁民の慣習は、土いじりにはなじめなかったのである。こうしたところに農業をする人が、農事の閑散期は日傭い人夫として働いたり、磯時に海山に行き働く勤勉さが美しく見えるのである。自分の若い頃海の魚は無尽蔵で、無限であると聞かされていた。
昔は今日のように底引き網等もなく小さい木造船で沿岸を漁するだけであったから、陸地の何倍もある海の資源は海洋汚染も濫獲もない事から資源は豊富で無限であった。
第三節 明治時代の勝本の漁業
明治時代の勝本の漁業の実態については、残された資料も少ないので、詳しく記す事は残念ながらできないが、明治前後の勝本における漁民の生活も、容易でなかったようである。明治初年頃には不漁のため、民家十四、五軒を湯の本木落しに移住せしめんと企てたが果たされなかった。その後、鰤、鯛、烏賊の大漁があり、復活したと記されている。
明治の初期は漁船も和船ではあるが、八〇隻内外で漁船数も少なく、ブリ、タイを主とする一本釣り延縄曳縄が盛んであった。明治の中頃より各網漁法が導入されている。マグロのような魚も明治三〇年頃には盛況であったが、今日においては僅かにその名をとどめるのみである。又、湯の本沖の手長島三つ瀬においては、ブリの刺し網が瀬戸浦の人々によって、明治時代に操業されていた。網漁法については本章の二節に詳記しているので略する。こうした網事業は塩谷部落と、漁民以外の勝本の一部の資本家と、山口県の三見船等によって操業され、他の漁民は延縄曳縄一本釣り中心に操業していた。鰤の夜釣りも明治の初年に鰤の手ぐりと共に、家室船から伝えられたといわれている。
明治三八年、日露戦争後は、壱岐対馬近海に不法漁船が横行して、漁場がひどく荒らされ、漁獲も激減した。原田卯八郎翁は不法漁船の取締りを国、県に陳情した記録もある。そのために明治三五、六、七年の一カ年平均漁獲高は、一五〇万斤であったが、三八年より減し四〇年には四〇万斤となった。それより大正年間まで不漁は続いたが、海草による沃度製造によって、漸く活気を呈した。特に大正三年の欧州大戦中は、沃度の売れゆきが良好であった、欧州大戦終了後も経済不況は本島にも及び、殊に鰤漁獲高の激減は、勝本漁民生活に極度の不安を与えた。
本島は好漁場に恵まれて、魚類の種類及び漁獲高も多いが、時に豊凶あり一盛一衰を免れ得ないばかりでなく、古来盛んに漁獲されたが今日極めて僅かなものもある。又古来勝本イワシと称せられる程に、秋冬盛んに漁獲されたが、近年刺網も一隻もなく、羽魚網及び鱶漁もその姿を消した。このようにして明治時代の漁業も現在と同じく、時に豊漁あるも漁民の生活は決して楽なものではなかった。
明治二六年頃の漁業と題して、壱岐郡、石田郡要覧に、当時の郡長三富道臣は次の如く記している。
「本郡は洋上一孤島なるを以て、自ら漁業に富めり、その漁法の如き概ね旧慣により、いまだ著しく改良したるものを見ず、然れ共他県外の漁民四時渡来するを以て、漁法の如きも多少改良する風あり、先に通業組合の設けありしより、漁法及び水産製品の改良等で講るところあるも、いまだ著しく進捗を見ず、且つ漁業者においては専ら近海の漁業に従事し、団体をなして他地方に向かって出する事なく、漁業の規模少なりというべし」と。明治の中頃の沿岸の一本釣りのみに終始し、発展性のない事を指摘している。
明治時代の資料は乏しいが、明治三三年より大正六年までの原田卯八郎翁の調査による、勝本沿岸の漁獲高を下に揚げて参考とする。
貴重な資料であるが、魚の種類が記してない事は惜しい。(斤数を㎏に換算する)
当時の金の価値を知るため当時の米一斗代金を参考の為に記す。明治三〇年には米一斗一〇四銭、三六年には一円九銭、四〇年は一円一八銭
大正元年二円〇八銭、五年一円五〇銭、大正十年は三円五五銭であった。
前記のように、明治三八年頃は、かなりの漁獲があっていたものが、明治の終わり頃から、大正の初年にかけて、水揚量が二〇分の一以下にまで、落ちこむ不漁振りである。漁業は常に漁不漁はあるが、漁獲高が十数年で十分の一以下に、おちこんだ当時の漁業者の、不安と貧苦の程が思われる。
斯くも年々不通に傾いたのは、魚族の宝庫ともいわれる荒曽根、壱州曽根を中心にして、爆発物使用の不正漁船の影響をうけて、魚群が遠く漁場外に逃避した結果であると、当時の事を記している。
又、明治時代は海面特有の、海面利用の複雑性と、漁業秩序の混乱を避けるために、政府は漁場利用の矛盾と問題点を承知しながらも、その利用については、従来の慣行による漁業形態を、そのまま容認したいきさつがあったが、明治三五年幾多の曲折を得て、明治漁業法が制定されたが、漁場利用については、その後に於ても、なお特権的階級による、漁場支配の可能な制度が、そのまま温存されていったのであ
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】