勝本浦郷土史71
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第四節 大正より昭和初期の漁業の変革
すべてのものは時代と共にあり、時代と共に変わってゆくが、勝本の漁業も、明治、大正、昭和へと一大変革の時代であった。明治から大正の初期は、ほとんど和船にて七里ヶ曽根、時には対馬まで櫓と帆により、風を頼りに肉体と心を消耗し尽くしての就労であった。風のない日よりも、少し風があった方が肉体的には楽であった。勝本に動力船が導入されたのは、大正九年であったが、十年後の昭和四年には、六三隻を数え、昭和十七年には一七〇隻となり、時代の趨勢により、大型化、高速化され、焼玉エンジンがディゼルとなり、昭和五七年には七〇〇余隻となり、全国でも有数の漁村部落を形成したが、五七年を、ピークに、漁業不振により、毎年減船している。当時、漁業が隆盛を極めたのは、ぶり漁業からいか漁業の豊漁であった事もその素因でもあるが、漁業制度の改革がその要因であろう。
明治から大正初年の漁業は、特権階級による漁場の支配制度から、昭和の始め頃まで国の資本主義に守られた我が国の漁業形態であった。それは昭和の当初、壱岐郡では純漁業者でない、壱岐の有志家による、壱岐郡ブリ飼付漁業会社が設立されて、勝本の漁民は貧苦のどん底に陥った。漁業者でない資本家が、壱岐の周囲の漁業権を行使した事でも判る、行政機関も漁場利用の矛盾を承知しながら、従来の慣行による、漁業制度をそのまま容認していたのである。その時期には、零細な沿岸漁民を救済するという、政府の施策は、なかったのである。政府のすすめる水産振興策は、資本主義を主体として、沖合漁業から遠洋底曵捲きあげ等が、国の保護をうけて大海に君臨したのである。それは日本の水産業を考える時、沿岸漁獲のしめる割合は僅かであり、日本人の魚の需要供給の面からも、沖合遠洋底曳に頼らざるを得なかった事も、考えなければならないのであるが、零細な沿岸漁民に対し、無政策であってはならないのである。
戦後漁業の民主化を、はかるため、画期的な制度の改革が実施され、勝本においても、昭和三四年八月漁業協同組合が設立され、すべての漁業権が漁業者、即ち漁民の手に帰し、漁業の民主化と漁業生産の発展の為には、極めて有意義な変革であったといえる。斯うした画期的な虚業制度の改革が、実施されたとは言え、従来からの遠洋底曵き漁業捲きあげ漁業が、従来通りに受け継がれて、尚、一層積極的に推進されている事も、国の食料政策上止むを得ない事である。以上のような漁業の形態が、明治、大正、昭和と、約一〇〇年に亘り、我が国漁業の一貫した政策であった。それでもひたむきに壱岐勝本においては一本釣り漁業を守り抜いて、資源の確保につとめて来た事は、勝本漁民の閉鎖的な漁法にも問題はあるとしても、濫獲による魚類の減少が問われている今日、一本釣業者は、大きな犠牲を強いられた事にもなるが、網による濫獲を避けるために、一本釣に徹した事は勝本漁民の誇りとするに足るものである。
ここに昭和八年教職員会で刊行された、香椎村郷土史を参考に、大正、昭和の初期における、勝本水産業を抜粋して参考とする。本村は北方広漠たる大海に面し、且つ対岸の対馬及び朝鮮沿岸には、我が国でも稀有の好漁場を控えている、従って水産物の種類も多く、生産も多量で、斯業に従事する者、戸数に於て見ても全村の約三分の一を占め、勝本は古来漁業地として、その名が高く、勝本浦民の大部分は之に従事して、其他村内沿海の者は、副業として年々相当の収入をあげている。
(昭和六年)水産業者数を示せば、次の通りである。(香椎村内の漁業従事者)
ブリの漁業は、勝本浦における生命であって、漁獲高の八割を占め、之が盛衰は直ちに漁民の死活にかかわるものであって、その漁獲は古来一本釣り、又は、延縄によって漁獲され明治三七、八年頃まで連年盛況を呈していたが、其の後次第に稍衰えて、大正十四、五年頃より、本郡にブリ飼付漁業が行われるに至って、その影響を蒙り漁獲が大いに減退し、昭和初年頃より愈々衰微し、漁民生活に極度の脅威を与えるに至った。
それが故に、漁民は遂に大会を開いて、国救策を講じ、或いは代表者を以て、郡又は県当局に陳述をなす等、幾多の波乱曲折、漸く昭和五年九月、勝本ブリ飼付組合なる、純漁民によりなる団体を組織して、七里ヶ曽根に飼付漁場の許可を得て、次に記している如き、盛況を見るに至ったのである。当時のブリ飼付漁業の盛況については、ブリ飼付漁業のところに詳しく記しているが、昭和三年より六年まで、短年度ブリ漁獲高を次に記す。
右の表を比較対照して見ると、飼付前と飼付中の漁獲高が十数倍になっている事がわかる。尚、後記の昭和五、六年の飼付の金額と相違のあるのは、右表は飼付以外のブリ水揚げを含んだためである。
其他イカ釣り、鰹、鯖、鯵漁も共に勝本における主要なもので、鯛漁業等の一本釣り、又は延縄と共に盛んに漁獲あり、殊にイカ釣りは飛び魚流し網、鯖釣りと共に、対馬近海に出漁する者が多い。近年飛び魚流し網漁を営む者次第に増加して、年追って、その漁獲が増加していったと記されている。前記のよう
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】