天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史

勝本浦郷土史121

勝本浦郷土史120漁協婦人部 終戦後の昭和二二年、婦人会が結成され、支部会においては、会合の度に、戦争にて疲弊した、漁村の生活の立て直しを如何にすべきか、真剣な話題として討議されていた。婦人の地位向上と共に、生活改善は、いつの時代といえども、婦人会の話題の中心であった。特に浦部に於いては、過去においては不漁に備えての、貯蓄の観念に乏しく、漁師の一把捌きと、今日でも語り伝えられるように、漁があると贅...

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勝本浦郷土史120

勝本浦郷土史120従来の漁村の実態を顧みる時、島国根性とでもいうのであろうか、漁村にありがちな封建的因習が根深く残存して、当時はこれが漁村の発展向上を阻害している原因と見ても過言ではない程である。幾例かを挙げるならば、自分の漁具漁法が他より優れていた場合には、できるだけその秘法を他に教えない。又若い者が時代の移行に沿って新しい道を進出しようとする場合、長老達は若(じゃく)輩(はい)何をいうか、何が...

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勝本浦郷土史119

勝本浦郷土史119アサリ貝も以前は至るところの浜に、アサリ取りをした事を憶えているが、港湾が整備されて、アサリを取る所はほとんどなくなった。海草類の採取 海草類としては、ワカメ、カジメ、ヒジキ、モズク、テングサ、フノリ、アオサ等品種も多い。カジメは明治から大正年間には、薬用として利用され、沃度製造工場も、坂本触の田口沃度工場、馬場崎に中上沃度工場があって、採取する人も多く、原料も海底に多く繁茂して...

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勝本浦郷土史118

勝本浦郷土史118このような事から、次第に特殊船は増えたのである。ところが冬期のイカ漁はよいが、夏季には漁を他に切替えねばならなかった。この頃対馬では、大型船は夏季には山陰方面に出漁して、境港や、能登半島付近の漁場で、イカ漁をしている事が判り、昭和四五年調査研究して、方々に出漁許可を依頼したが、県外入漁は当時容易な事ではなかったが、四五年に試験操業の名目で金沢の大野港に入港が認められた。これが認め...

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勝本浦郷土史117

勝本浦郷土史117第十二節 延縄 ブリ及びタイ漁業 明治、大正時代の勝本の主要水産物であるブリは、延縄によって、多く水揚げされていた。しかし、ブリの延縄も、潮が小さくなると、魚の食いが悪くなる。そこで延縄船は潮時によって、タイの延縄に切り替えたりして、合理的な操業をしていた。昔は無動力船であっただけに、厳しい天候の支配を受けながら、船頭の優れた経験と勘によって、操業されたのである。 タイの延縄は、...

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勝本浦郷土史116

勝本浦郷土史116漁業には大きく分けて網漁法と、釣漁法に分類されようが、勝本漁民によって、昔より行われている網漁業には、羽魚網、イワシ網、サンマ網、アゴ網、磯立網等がある。羽魚漁は、明治の中頃まで、銛突法が行われていたが、明治三〇年、勝本の中上長平翁が、羽魚網を考案してより、各地に羽魚網が普及し、勝本でも盛漁年は、地元船二五隻、三見船二二隻を数えるに至った。勝本の二五隻の中、塩谷が十隻位で、他は漁...

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勝本浦郷土史115

勝本浦郷土史115第十節 漁業協同組合事務所・荷捌所漁村センター中央突堤に完成 勝本漁協創立以来、最も画期的又有効的な建設事業は、九郵の接岸施設として築造された、築出の中央突堤に、幸か不幸は別として、九郵が汽船を接岸出来ないと拒絶された為に、全面的に漁協の使用が可能となった。棚からボタ餅とは、この事であろう。定期船が寄港するかしないかは、勝本町民挙げての活性化の素因でもあった為に、町理事者も議会と...

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勝本浦郷土史114

勝本浦郷土史114このような動力船の急増にともない、勝本漁業協同組合は、共同販売事業を開始したが、引き続き十三年三月、石油類の共同販売事業を企て、仲折の弁天の近くに営業されていた、原田元右衛門氏の、重油二五トンタンク一基と、石油倉庫一棟を譲り受け、事業を開始した。石油の仕入れは、対馬厳原町の新出光石油株式会社と契約し、取り引きをする事にした。同じく十三年に、長崎県漁連が、その西側に重油五〇トンタン...

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勝本浦郷土史113

勝本浦郷土史113漁具船具の購買事業の開始第九節 製氷事業 勝本漁業組合が設立されるや、事業計画に基づいて、製氷所の建設を計画したが、港湾内には適当な場所がなかったので、湯田の浜に大きな浅い瀬があった。長四郎碑がその瀬の上に建ててあった。干潮時にはかなり海上に表出する瀬であった。その碑を他に移して、その瀬一帯を埋め、敷地約四〇〇坪を造成し、一日十トンの製氷所と、三〇〇トンの貯氷庫を、昭和十一年四月...

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勝本浦郷土史112

勝本浦郷土史112昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く...

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勝本浦郷土史111

勝本浦郷土史111第七節 信用部事業 昭和二四年、勝本漁業会が、指令によって解散せられ、直ちに漁業協同組合が再出発したが、昭和二五年、朝鮮動乱起こるや、一時的には軍需景気でよい時もあったが、動乱が終わるや、我が国においても、金融凍結の引き締め政策を行い、全国的に急激な不景気が押し寄せた。組合としても、鮮魚外の販売代金である購買代金、充電料立替金、その他の回収が遅れて、決算期には多額の未収入金を出し...

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勝本浦郷土史110

勝本浦郷土史110 配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、...

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勝本浦郷土史109

勝本浦郷土史109イカ等の水揚げが増加し、氷の需要が多くなった為、構造改善事業により、製氷所を建設する事になった。場所は以前の湯田の浜の埋立地とし、昭和四三年九月に着工して、翌四四年三月三一日完成した。 製氷能力は、日産十五トン製氷、貯氷能力四五〇トン、面積四一六平方米、総事業費三、八八〇万円、内国庫補助金六三二万円、県補助金四二一万円、町費補助金五一〇万円、自己負担金二、三一七万円である。第二製...

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勝本浦郷土史108

勝本浦郷土史108昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く...

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勝本浦郷土史107

勝本浦郷土史107配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿...

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