勝本浦郷土史110
配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。
勝本漁業共同組合設立
時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。
昭和十年、香椎村は勝本町と改称した為に、香椎村漁業組合も、勝本町漁業組合と改称した。昭和十六年
勝本町漁業会となる
昭和十九年度に、漁業協同組合解散されるや、早速漁業会組織の指令が出された。漁業会結成の計画は、早急に行われ、十九年六月に設立し、総会が開催された。七月に認可され、八月に登記を完了し、国家総動員法に基づいて、大政翼賛政治による、国への協力機関として、勝本漁業会は発足した。役員は全員(官選となり、)会長には勝本町長吉田覺太郎、理事に町助役永元久造、漁民側より立石幸吉、平畑福次郎、松尾常太郎の三氏が任命された。
昭和二〇年、八月戦争は集結し、召集徴用に出て行った組合員も、徐々に帰郷し、漁業に従事したが、漁船は少なく、中古船等を探し求めての出漁である。その上漁具はもとより、燃料その他の資材も不足し、困難な時代であった。漁業会としても、事業以外に、国の指令によって、物品の配給機関として、漁業用資材はもちろん、其他衣程品、日用品まで配給していたのである。あらゆる物質は欠乏し闇取引が横行した。特に引揚者は住むに家なく、働くに職なく、仕方なくするめいか、ブリ等の魚を、福岡等に警察の目を逃れて、二倍三倍の値に売って闇商売をして、生活する者が多かった。
ブリ二、三本かくして福岡まで、往復運賃を払っても、どうにか貧しい生活を支えて行くことができた。その位に都会の物質は欠乏したのである。お金はあっても品物が無いのである。
漁業会としても集荷した魚を、公定価格で売っても、組合員の利益は僅かである、闇値を知っている組合員の不平不満に、漁業会としても仕方なく、横流しして少しでも多くの利益を得ようとした。組合の共販体制も崩れ、船で直接福岡まで持って行く者が、多くなったからでもある。
仕方なく組合としても、闇値にて仲介業者と取引して、計算方法は一度公定価格で仕切り、闇値の差額は、出荷奨励金の名目で、後で総代を通じて支払ったりした。闇値で売買した事が発覚して、組合長は何度も警察に呼び出され、留置されて取り調べを受けた事もあったという。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】