勝本浦郷土史114
このような動力船の急増にともない、勝本漁業協同組合は、共同販売事業を開始したが、引き続き十三年三月、石油類の共同販売事業を企て、仲折の弁天の近くに営業されていた、原田元右衛門氏の、重油二五トンタンク一基と、石油倉庫一棟を譲り受け、事業を開始した。石油の仕入れは、対馬厳原町の新出光石油株式会社と契約し、取り引きをする事にした。同じく十三年に、長崎県漁連が、その西側に重油五〇トンタンク一基と、石油取扱所一棟を建設して、漁協に経営を委託した。それ以後は、燃油の仕入れも、新出光と県漁連の二カ所と取り引きをする事になった。昭和十四年六月には、石油部事務所と、当直室を建設し、事業も軌道に乗った。その後、年々漁船も増加、大型化したことにより、取扱高も倍増して、昭和四〇年には、県漁連と交渉して、現在の仲折の埋立地に、九〇トンタンク一基を増設した。
和四七年に敷地面積八、七六三平方米、約一億八〇〇〇万円にて、あれだけの広い突堤が完成したのである。
当時、鹿の下の旧事務所、荷捌所は狭隘で、混雑して、車が入口にあると、リヤカーも出入りできない、出入口は一カ所あるだけである。鰤が大量にとれると、浜から揚げきらず、沖中取り、又は陸から篭に入れて、道路まで並んで溢れる事は再三であった。船は際限なく殖え、湯田の製氷所に棚を造って集荷所にしたり、旧棧橋の青天井にひるいかを揚げる事も再三であり、鰤も翌日まで船積みにして、持ち越される事態もあり、従って魚は弱り、安く叩かれるという事もあり、当事者の当時の苦労も大変なものであったと思われる。組合事務所と荷捌所を適当な場所への移転は、組合の最大の関心事であり、急務とされていたにもかかわらず、東部に偏しても、西部に偏し過ぎても、不便と不平があって、適当な場所はなかった。
斯くした事から、中央突堤築堤するにしても、突堤の北側に汽船を接岸する事にして、南側の一面は、漁業組合の荷捌所として、当初は設計されていた。汽船が接岸されない事が決定されるや、漁業組合側としても、東部西部の利不便を、兎や角言っていた人も一部あったが、降って湧いたような場所である。漁業組合としても、漁民としても、汽船の接岸の事よりも、忽ち困っている組合の現状を考える事は当然である。町と相談して、県に使用変更許可願を提出、町も漁協も強引
強引に陳情、要望した。公共埠頭用地を、組合の施設用地として、全面的に変更する事は、容易でなかったが、国県の理解によって、組合用地として転用する事が、許可されたのである。認可後、組合は直ちに、事務所、荷捌所の建設を計画、五二年三月に完成した。事務所五一八平方米、荷捌所一、二七〇平方米、漁村センター五三五平方米。総事業費二億四、九〇七万円、内訳国庫補助金三、三三三万円、県補助金二、二二三万円、町費補助金三、〇六一万円、組合自己負担金九、三七七万円である。但し、漁村センターは、勝本町の事業主体で、総事業費六、九一三万円である。大会議室の漁村センターは、勝本町所管として、漁業組合に貸与移管している。それ以前、組合は、五〇年三月、第二製水所を中央突堤先端に完成している。漁網倉庫を五二年に、青年部の資材倉庫、製品倉庫等、又、東側空地には、第三製氷所(第一製氷所の製氷を廃止したため、第二氷製水所が第一となり、第三製氷所が第二製氷所となる)等、広範な敷地を利用して建設し、一局に集中して組合の拠点として利用している事は、二〇数年前の事を考えると、驚異的な発展である。
勝本セリ市場の開設
勝本漁協の荷捌方法は、入札浜売りから、その後は集荷した魚を、関東関西に直送、販売に移行していった。組合としては、長年組合への全面集荷を目標に努力し、又、組合員も、組合員のための組合という認識が高まり、徐々にではあったが、一元集荷に近づいていった。しかし時代の趨勢は、郷の浦漁協は早くより一元集荷を実施して、せり市を開始していた。為に、勝本の漁業者も勝本漁協に水揚げせずに、郷の浦市場に託送する者も多くあった。このような事から、組合としても競り市を考えられていたが、鹿の下の荷捌所では、狭隘のため、車の出入りにも困難なため、できなかったのである。
突堤に広範な荷捌所が完備した事によって、競り市も具体化していったが、果して競り市が成功するか、組合役員の中にも、組合員の中にも、せり市か組合直送がよいか、判断に迷い危惧する者も多かったようであった。競り仲買人が何人いるかも大きな問題であった。我等するめ加工業者にも不安があった。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】