天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史107

勝本浦郷土史107

配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
 こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
 しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
 幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。

勝本漁業共同組合設立
 時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。
 昭和十年、香椎村は勝本町と改称した為に、香椎村漁業組合も、勝本町漁業組合と改称した。昭和十六年勝本町漁業会となる
 昭和十九年度に、漁業協同組合解散されるや、早速漁業会組織の指令が出された。漁業会結成の計画は、早急に行われ、十九年六月に設立し、総会が開催された。七月に認可され、八月に登記を完了し、国家総動員法に基づいて、大政翼賛政治による、国への協力機関として、勝本漁業会は発足した。役員は全員(官選となり、)会長には勝本町長吉田覺太郎、理事に町助役永元久造、漁民側より立石幸吉、平畑福次郎、松尾常太郎の三氏が任命された。
 昭和二〇年、八月戦争は集結し、召集徴用に出て行った組合員も、徐々に帰郷し、漁業に従事したが、漁船は少なく、中古船等を探し求めての出漁である。その上漁具はもとより、燃料その他の資材も不足し、困難な時代であった。漁業会としても、事業以外に、国の指令によって、物品の配給機関として、漁業用資材はもちろん、其他衣程品、日用品まで配給していたのである。あらゆる物質は欠乏し闇取引が横行した。特に引揚者は住むに家なく、働くに職なく、仕方なくするめいか、ブリ等の魚を、福岡等に警察の目を逃れて、二倍三倍の値に売って闇商売をして、生活する者が多かった。
 ブリ二、三本かくして福岡まで、往復運賃を払っても、どうにか貧しい生活を支えて行くことができた。その位に都会の物質は欠乏したのである。お金はあっても品物が無いのである。
 漁業会としても集荷した魚を、公定価格で売っても、組合員の利益は僅かである、闇値を知っている組合員の不平不満に、漁業会としても仕方なく、横流しして少しでも多くの利益を得ようとした。組合の共販体制も崩れ、船で直接福岡まで持って行く者が、多くなったからでもある。
 仕方なく組合としても、闇値にて仲介業者と取引して、計算方法は一度公定価格で仕切り、闇値の差額は、出荷奨励金の名目で、後で総代を通じて支払ったりした。闇値で売買した事が発覚して、組合長は何度も警察に呼び出され、留置されて取り調べを受けた事もあったという。

あくまで自主的統合を期待していた。しかし県よりは、昭和三三年には合併するように勧奨されていた。それは、昭和三〇年代に入ると、全国的に沿岸漁業の不振が呼ばれるようになった。これは沿岸より沖合にかけての資源の減少によるものであり、回復は困難と考えられた。そこで漁村の不況を打開するためには、経済団体である漁協の合併問題が取り上げられる事になった。
 県においても、水産部の沿岸漁業振興部会で研究の結果、経済基盤の確立した組合を作るべきである、という結論に達した。そこで強力に推進する事になり、壱岐郡でも十二漁協を、五組合にする方針が打ち出された。勝本漁協も昭和三三年頃より、湯の本漁協と合併するように勧奨された。が、種々の事情により、合併は延びたが、昭和三七年一挙に合併の機運が高まった。そこで合併委員会を結成し、三七年十月八日、調印の運びとなり、昭和三八年一月、正式に吸収合併されたのである。そして、湯の本漁協より、正組合員一〇八名、准組合員十名が加入した。昭和三九年には、勝本町当局に要請して、現在の湯の浦を埋め立て、荷捌所、事務所を建設したが、湯の本木落しの道路変更のため、場所を少し変えて、平成四年現在の所に、二階建ての湯の本支所を建設した。

第七節 信用部事業
 昭和二四年、勝本漁業会が、指令によって解散せられ、直ちに漁業協同組合が再出発したが、昭和二五年、朝鮮動乱起こるや、一時的には軍需景気でよい時もあったが、動乱が終わるや、我が国においても、金融凍結の引き締め政策を行い、全国的に急激な不景気が押し寄せた。組合としても、鮮魚外の販売代金である購買代金、充電料立替金、その他の回収が遅れて、決算期には多額の未収入金を出した。こうした事から、組合の運営も行き詰まりを来した。こうした不景気は、全国的なものであり、いずれの漁協も運営に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金

残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのような経営状況の中で、漁協もできない筈もなかったのであると思われるが、何時の時代でも金融機関の争奪は費しかった。十八銀行は、毎日外務員を派遣していた。福岡銀行、九州相互銀行の両出張所も黒瀬の中央にあった。そうした中に漁業協同組合は、創業して日猶浅く、こうした金融機関と対抗して、信用部を創設するまでには、いまだその機が熟していなかった。仕方なく、地元の個人より、月二分又は、二分五厘の高利にて、金を借りて運営する状態であった。その当時の組合の役職員も今日と違って、大変苦労したものである。当時、月二分以上の利息を払って、組合運営をしても僅かの手数料で、堅実な運営ができる筈もなかったが、そこまで追い詰められていたのである。このような時であっただけに、早く信用事業を着手しなければならないのであったが、開始して軌道に乗るまでには、考える以上にむずかしい問題が多くあった。それは、預金するにしても、貸出しするにしても、相手を信ずる事が最も要求されるのが金融業であり、預貯金する人の心理でもあるが、水揚代金の仕切りも心配しなければならない組合に、信用部を開設しても、他の金融機関の預貯金を鞍替えする事は容易に考えられない。

強力な貯蓄運動の展開
 それでも昭和二八年、県信連等の支援もあって、信用部事業は誕生したのである。この事業には、熱心な経験者を必要とした。時の町長斉藤政平は、勝本農協の理事として、農協の貯蓄奨励に活躍していた。岩谷末太郎氏を主任として起用する事を組合にすすめ、その態勢ができたのは、二八年九月であった。昭和三〇年には、前の漁協(今日の郵便局)川崎嘉一郎所有の敷地を譲りうけ、三一年事務所を増築して、信用部を一新して「漁業者の貯金は漁協へ」のスローガンを掲げて戸別訪問、各部落の懇談会等、強力に貯蓄運動を展開した。こうした事から漁業者のための、自分達の信用部であるという組合意識が高まり、貯金も順調に伸びていった。間もなく、福岡銀行も九州相互銀行も支店を閉鎖したため、その影響で急速に、漁協信用部貯金も増加するようになった。これは漁協信用部が急速に伸びたために、九州相互銀行も福岡銀行も、制圧したことを意味するものである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社