勝本浦郷土史112
昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く見られた。
漁協婦人部の活躍
そこで漁協婦人部の活動を利用して、月給制が実施されたのである。その内容は、漁業者の水揚げ代金を、一応全額信用部の預金に振り替え、それを毎月金額を定め月給として、生活費に支払う制度であった。これこそ漁民の生活改善の一大変革であると、自分も当時思った程である。しかし、急速なる景気の上昇と、漁民に月給制はなじめず、収入のあった時は消費し、収入の少ない時は質素な生活に我慢する、昔からの培われた慣習は根深く残り、直すことはむずかしく、月給制も一時はよろこばれた時代もあったが、自然消滅という結果に終わってしまったが、月給制の折の婦人部の日記帳の方法、月給制の頃の無駄な金は使えない、始末しなければならないという、月給制の頃の婦人部の教育は実を結び、貯蓄心を涵養し、預金は年毎に高くなり、僅かに二〇年足らずにして、県下でも優秀な漁協信用部となったのである。
昭和四六年には、勝本町も地元に信頼される信用部が誕生した事により、勝本町も十八銀行指定金融機関を廃して、勝本漁協信用部本町の指定金融機関として指定し、名実共に勝本町の金融機関としての使命と責任を持つようになった。昭和四七年には、寿楽荘(長島邸)二二〇坪を買収して、四九年現在の漁協信用部と、漁民センターと駐車場を、勝本中央部に建設したのである。内部の近代化に於いては、昭和四八年に電算機の必要に迫られ、高度な電算機を導入した。しかし、六年後には多様に複雑化する金融状勢に対応するため、昭和五五年に単協独立の、コンピューターの導入を実施した。昭和四七、八年頃から、日本海のイカ漁が盛んになり、益々漁船は大型化され、平成元年には漁船数も七〇〇隻を越え、信用事業も貯金高は七四億円を
越え、貸付金は四九億円とそれぞれ急速な伸長を遂げている。斯うした発展は、役職員のたゆまぬ努力は勿論であるが、漁協婦人部、青年部の協力も大きな力となっている。しかし反面、昭和五六年頃まで、盛況を続けていたブリ漁も近年とみに少なくなり、漁民を失望させている。このように漁民を取り巻く諸条件は憂慮され、漁業の盛衰と一体不可分の関係にある、信用部事業も貯金の伸びも次第に鈍化の傾向にある。こうした諸状勢の中に信用部は、使命を再認識して、今後経営の合理化につとめてゆかねばならないであろう。
第八節 共同販売事業
組合設立と同時に、漁協の主幹事業である、共同販売事業を始めるべく、計画に着手したが、その事業開始には、幾多の支障があって難航した。
問題は何よりも、今迄の間屋対船主の関係である。昔から勝本の漁業者は、各自に自分の問屋があり、水揚げした魚はすべて問屋に渡していた。又、船主は漁船の建造資金、運転資金まで、問屋から借りて事業をする者が多かった。こうした情実がからんで、漁協の共同販売事業の開始には、同意を渋る者が多く、なかなか妥協してもらえなかったが、いろいろ話し合いの結果、問屋から借りた金は漁協の方で保証して返済する事とし、又現在の問屋は、組合の入札には無条件にて参加させる等が決められて、漁業者対問屋の問題は解決した。
昭和十二年一月、県の認可も受け、鹿の下仲の、大久保本店の二階を事務所として、又裏の棚を荷捌所として借りうけ、共同販売事業は開始された。続いて、共同販売所の建設を計画、以前の仮事務所の敷地を、川崎、立石両家より、九六・二坪の土地を譲りうけて、事務所、荷捌所の建設に、十二年三月着工した。木造二階建て、建坪四二坪、一階を事務所として、二階は会議場とした。荷捌所五四・二坪、海上に木造の棚を架設した。同年十月に、工事は完成した。こうして新荷捌所において、事業を開始、鮮魚その他全部の漁獲物を集荷して入札した。入札者は、下関の大洋漁業、戸畑の日本水産、唐津の大成市場で、これ等の業者は勝本の問屋を通じて入札していた。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】