天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史111

勝本浦郷土史111

第七節 信用部事業
 昭和二四年、勝本漁業会が、指令によって解散せられ、直ちに漁業協同組合が再出発したが、昭和二五年、朝鮮動乱起こるや、一時的には軍需景気でよい時もあったが、動乱が終わるや、我が国においても、金融凍結の引き締め政策を行い、全国的に急激な不景気が押し寄せた。組合としても、鮮魚外の販売代金である購買代金、充電料立替金、その他の回収が遅れて、決算期には多額の未収入金を出した。こうした事から、組合の運営も行き詰まりを来した。こうした不景気は、全国的なものであり、いずれの漁協も運営に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金

残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのような経営状況の中で、漁協もできない筈もなかったのであると思われるが、何時の時代でも金融機関の争奪は費しかった。十八銀行は、毎日外務員を派遣していた。福岡銀行、九州相互銀行の両出張所も黒瀬の中央にあった。そうした中に漁業協同組合は、創業して日猶浅く、こうした金融機関と対抗して、信用部を創設するまでには、いまだその機が熟していなかった。仕方なく、地元の個人より、月二分又は、二分五厘の高利にて、金を借りて運営する状態であった。その当時の組合の役職員も今日と違って、大変苦労したものである。当時、月二分以上の利息を払って、組合運営をしても僅かの手数料で、堅実な運営ができる筈もなかったが、そこまで追い詰められていたのである。このような時であっただけに、早く信用事業を着手しなければならないのであったが、開始して軌道に乗るまでには、考える以上にむずかしい問題が多くあった。それは、預金するにしても、貸出しするにしても、相手を信ずる事が最も要求されるのが金融業であり、預貯金する人の心理でもあるが、水揚代金の仕切りも心配しなければならない組合に、信用部を開設しても、他の金融機関の預貯金を鞍替えする事は容易に考えられない。

強力な貯蓄運動の展開
 それでも昭和二八年、県信連等の支援もあって、信用部事業は誕生したのである。この事業には、熱心な経験者を必要とした。時の町長斉藤政平は、勝本農協の理事として、農協の貯蓄奨励に活躍していた。岩谷末太郎氏を主任として起用する事を組合にすすめ、その態勢ができたのは、二八年九月であった。昭和三〇年には、前の漁協(今日の郵便局)川崎嘉一郎所有の敷地を譲りうけ、三一年事務所を増築して、信用部を一新して「漁業者の貯金は漁協へ」のスローガンを掲げて戸別訪問、各部落の懇談会等、強力に貯蓄運動を展開した。こうした事から漁業者のための、自分達の信用部であるという組合意識が高まり、貯金も順調に伸びていった。間もなく、福岡銀行も九州相互銀行も支店を閉鎖したため、その影響で急速に、漁協信用部貯金も増加するようになった。これは漁協信用部が急速に伸びたために、九州相互銀行も福岡銀行も、制圧したことを意味するものである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社