天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史117

勝本浦郷土史117

第十二節 延縄
ブリ及びタイ漁業
 明治、大正時代の勝本の主要水産物であるブリは、延縄によって、多く水揚げされていた。しかし、ブリの延縄も、潮が小さくなると、魚の食いが悪くなる。そこで延縄船は潮時によって、タイの延縄に切り替えたりして、合理的な操業をしていた。昔は無動力船であっただけに、厳しい天候の支配を受けながら、船頭の優れた経験と勘によって、操業されたのである。
 タイの延縄は、ブリの延縄の船頭方が、同じ船、同じ乗組員によって、ほとんど操業していた。その頃、乗組員の事を、ワツカシと呼んでいた。今日では、皆自分で船を持っているが、昔は長男でも船を持たない人も多く、そうした人はワッカシで働く人も多くいたが、それぞれに小さい和船で、イカ釣りその他魚釣りをしていたので、延縄の乗組員は、町内外の出稼ぎ漁師も、案外多かったようである。当時、帆が頼りの和船時代である。七里ヶ曽根附近まで出漁できる日は数少なかったのである。戦後、漁船の装備も年毎によくなり、七里ヶ曽根周辺で連日のように、タイの豊漁が続いたが、明治、大正時代は、

一網打尽の乱獲もなく魚も多かったのである。往時和船時代の漁労が、どれ位苦難に満ちた事であったか、それでも十分な生活ができない人が多かったのであるが、反面又、嬉しい事、楽しい事も多くあった。最も嬉しい事は、縄針に次々に大きなタイがかかって、水面に浮上してくる時である。又夜中から出港して、櫓で始まって櫓で帰る日が多かったが、偶には、操業を終えて帰途につく最も疲労した頃、追手風が吹き始め、船頭の声で櫓を引いて、帆を揚げて港にむけて走る時のうれしさ、これ以上の有り難さを感じる時はないという。如何に櫓で漕いで遠くまで行く事が、辛い労働であったかわかる。
 大正も末頃となり、焼玉エンジンを据えた船を、港内に見るようになり、沖の漁場には、底曳き船が操業するようになり、当時勝本では動力船も少なく、延縄船が漁具の被害をうける事も少なかったが、明治三五年頃から始まった羽魚網操業は、沖は対馬近海より、平曽根まで、羽魚の回遊状況に応じて、約数十隻の船が網を流していた。そのために、延縄船は浮標を切られ、操業も年毎に窮地に追いやられ、加えて漁民間の道義も退廃して、漁場秩序も乱れて、大正末期に六〇隻いた勝本の延縄船も、減船の一途をたどり、昭和に入って暫くして、皆無に等しい状態となり、鯛一本釣り、プリ一本釣り操業に移行して行くのである。

第十三節 一本釣り漁業
鰤一本釣り漁業
 勝本は、優れた漁場に恵まれて、多種多様な魚が獲れるが、その中でも、昭和五〇年頃までは、鰤の漁獲が他の魚種よりも、数量的にも金額的にも、他を圧して最も多く、明治時代の事はよく判らないが、大正から昭和にかけて、鰤に依存するところが多かった。昭和五年、勝本の鰤飼付以来、ほとんど鰤漁業によって、生計を支えて来たといっても過言ではないだけに、ブリ漁法については、多くの研究改良がなされている。
 勝本町漁業史等に詳しく記されてあり、釈迦に説法みたいに茲に詳しく記す必要もないので省略した。

タイ一本釣り
 勝本の漁業は古くより、塩谷部落の網漁法と、本浦部落のタイ一本釣りを主体として、鰤漁業の盛漁期には、鰤漁に切り替えていた。
 西部の方では鰤釣りを主体として、夏はイカ取り、タイの一本釣りも稀にあるに過ぎなかった為に、タイ一本釣りは、本浦部落が熱心であった。そのために東部が主にタイ一本釣り組合を組織して、鮮度の保持、漁場の拡大、漁礁の設置、購買部の設置、餌の共同購入等、積極的に取り組み、成果を挙げた。

第十四節 イカ漁
 イカ漁もかなり古くから行われていた。イカの種類は魚の中でも最も多いようである。勝本の漁民が漁の対象とするのは、夏にとれる剣先イカ、九月頃よりのプトイカ、例年十月頃より対馬附近でよく獲れる松いか、別名つしまめ又は、まめイカとも呼ばれるが、近年までは一年中このイカを追って、北海道から日本海を股にかけて、多くの船によって操業されて、実績を挙げている。
 各魚族の漁獲法其の他についても、詳しく記していたが、紙面の都合上、又すべて承知の事でもあるので削稿した。

イカ漁と集魚灯
 集魚灯の変遷は、総ての漁業と重要な関係がある。特にイカ漁と集魚灯との関係は深いものがある。明治の時代は、薪を焚いたかがり火であったものが、薪から石炭に変わり、勝本に石油ランプを使用したのは、明治の終わり頃であろう。石油ランプの時代は、僅かな期間であった。瓦斯ランプになった時は、なんと明るいものであろうかと、皆驚きの目で眺めた事であろう。瓦斯ランブの時代は、かなり長く続いた。戦後間もなく、昭和二二年に、瓦斯ランプに代わって、バッテリー(充電灯)が普及したが、昭和二九年頃から、煮干しの原料のイワシの抄い網が始まると共に、発電機を使用するようになり、灯光は一段と強くなった。当初は、三、〇〇〇燭光より以上は点灯できないように制限されたが、勝本船以外の船との対抗上、これも長続きせず、暫くは燭光自由の時代も続いた。
 
発電機によって、イカは獲れるようになったが、機械の音は高く、発電機は故障が少なくて、回転が安定した機械でなければということもあって、折りからのデイーゼル化に拍車をかけることとなった。この頃から次第に増灯競争が始まったのである。表に二個、船尾に一個の、勝本船で制限された方式で、何処に行っても勝本船と判る如くよく守られ、対馬に行っても制限された方式で、イカもよくとれていたが、対馬船その他の船が、大燭光になるに従い、その明るさは三個位では、近くの大きな燭光に寄せられて、イカは移動してしまうのである。こうした事から、制限された燭光も問題となり、段々増灯されるようになった。他に負けてはならないと思う、人間としての根性は当然のことである。又近年、昭和六〇年頃から、猶一層強力な放電灯が流行し、この放電灯を取り付けないと、人並みの道はできないとして、多額の金を工夫して据えつけている。結果的に漁民の生活は、こうした機械化によって、増収になっていったが、無理して借金して設備して、返済期日がくると、多くの漁家が返済に苦労しているようである。瓦斯ランプやバッテリー時代より、生活はたしかに向上している。世のすべてがこうして機械化されてきたのである。勝本の漁民だけが、旧態然とする事は許されない事であるが、しかしこれでよいのであろうかと、第三者的に考えることがある。それは自動操舵機の普及である。人間のかわりに、機械が舵を取ってくれるという、便利なものが登場し、多くの船に装備された。しかし、この自動操舵機は、目的場所に一直線に進むだけで、障害物が前面にあっても、これを避けることはできない。かえって機械を頼り過ぎて、油断すると、大事故になりかねない。すでに勝本漁船にも、残念ながら、大小この操舵機による事故が、多く発生している。全国的にも、海難事故発生の原因として、自動操舵機が挙げられている。機械に頼り過ぎる事も心配しなければならない。

特殊船団
 昭和四〇年代は、スルメイカ漁の最も盛んな時季であった。それは漁法の著しい進歩と、漁船の大型化等によるものである。当時日本全国、イカの資源は無尽蔵であると考えられた程で、イカは多かった。イカの価格も他の魚に比べて安定していた。長い年月ブリ釣りを得意としてきた勝本漁民であったが、逐次イカ漁に転換せざるを得ない状況となって来たのである。しかし、五トンから十トン位の船で、郡外船と一緒に操業して見ると、集魚灯の違いは大きく、太刀打ち出来ない状態であった。従来イカ運搬船組合では、日和見をして安全操業につとめていた。しかし荒天時、勝本では沖止めしている時に、郡外船はイカを大漁して、勝本漁協に水揚げするのであった。同じ漁民として、これ程口惜しい思いをする事は耐えられない事である。大型船を造り、沖止めされない、自由に操業したいと考える人達が多くなった。このように考えを持った人達が集まって、大型船による、イカ漁の自由操業を訴えた。しかしこのような少数の意見に、耳を傾ける人は少なく、日和見による安全操業という意見が強く、長い伝統の壁を破るのはむずかしい事であった。しかしそうした少数の人の熱意は昭和四二年、二月の総代会において、十五トン以上を特殊船制度として、認める事となった。そして五月の総会で、条件付きながら承認された。この時は該当船はいなかった。其の後十五トン以上の船であれば、イカ運搬船組合の一員であっても、定期沖止め以外は、自由に出漁出来るようになった。昭和四三年、勝本の特殊船第一号の末吉丸が進水した。第二号に日の出金比羅丸、次に島本清勝丸が進水して、三隻の特殊船は、冬期はイカ漁、夏季は撒落し操業をして、成績もよく、水揚げも増大した。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社