天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史120

勝本浦郷土史120

従来の漁村の実態を顧みる時、島国根性とでもいうのであろうか、漁村にありがちな封建的因習が根深く残存して、当時はこれが漁村の発展向上を阻害している原因と見ても過言ではない程である。幾例かを挙げるならば、自分の漁具漁法が他より優れていた場合には、できるだけその秘法を他に教えない。又若い者が時代の移行に沿って新しい道を進出しようとする場合、長老達は若(じゃく)輩(はい)何をいうか、何ができるかと古い権力を以て、圧迫しようとするところもあった。
 このような例を挙ぐれば枚挙にいとまない。何とかしてこの値深い古い因習を打破して、生産向上を計り組合に協力して、組合の推進力たらん事を念願した。又それが自己の福利増進につながる事でもある。特に勝本の漁業は、他の水産業に比較して原始的である。昔より一貫して一本釣り漁業に徹していることは、他方面から見ると勝本漁民の社会的地位の低下、特に進取的青年層における、そのレベルの如何は、自他共に認めるところであった。それにしても昔より一本釣りに徹する事は、乱獲を防止するという、大きな狙いもあったのであるが、そのため勝本に小魚の加工の発展しない原因も生している。こうした事から青年の資質の向上を計らんため、先ず手近な問題から研究発表会等を実施して、部員が自由に自分の意見を発表できるレベルに到達する事を念願とした。当初の部活動はどのように実施して来たのか、部活動の方向等を示した規約もあるが、省略し部活動の大要を記す。

事業班
 貯蓄の奨励、瀬戸の藻切り作業は当時海藻が多く、船の航行に支障が多かっただけに、当時の船主に大変喜ばれたものである。
 又春のワカメ漁も専門漁士の大きな収入源であった。ワカメ増養殖のための投石作業も、青年部なればこそ出来たのである。其他港内清掃等も、以前は時に応じて行われ美化されていた。

教養班
 町政懇談会、組合役員との懇談会等、今まで考えてもなかった話し合いの場を設け、部員の町政や組合への関心を高めたりした。
 又娯楽の少ない当地に、映画を安く請けて、その僅かな差益を運営費の足しにした。現在の保育園に、旧小学校の校舎が残されていた頃、第一回青年学級が開講され、二五歳以下の部員が熱心に聴講した。

研究班
 直接漁獲増につながる、漁具漁法等の研究改良を使命とする研究班は部活動の目玉であり中心的な活動である。漁具漁法の研究故書、研究体験の発表展示は、これまでの秘密主義排他性等に代表される、いわゆる漁士根性を叩き直して公開され、共同研究の有利な事を実証した。どんな漁法でも短時日のうちに、研修会等に出席して、自分の漁法として消化していった。部活動は大きな成果を挙げた。毎年の県主催全国主催の研究発表会には、毎回出席して漁連会長賞、知事賞を受賞している。
 するめ加工に関する発表は、全国一位の水産庁長官賞を受賞し又ブリのボンボン曳き漁法は、ボンボンたぐりと共に、大きな成果を挙げた。
又抄い網漁法は、煮干しの原料となる、小イワシを集魚灯で焚き寄せて、抄いとる小規模漁法であるが、これも青年部が三見漁協で習得した漁法である。その漁法の操業の成果は、予想外の豊漁で、昭和三〇年には、四トン以上の船は、ほとんど抄い網に切り替え、勝本の加工業者、十数軒で、今までかつてなかった煮干し製造で、浦中は賑わいを呈した。
 抄い網は、四、五年で、煮干しいりこの値下がりと、乱獲のため不渡となり、又他の漁民の不平もあって、終わり告げ、その後は抄い網はない。

編集班
 昭和二九年二月、青年部機関誌「漁青の友」が発刊された。大した学歴もない、文学的素養もない青年が、新聞を編集する。文章にして機関誌として、世に出すという事が、如何に至難な事であるか、只使命と責任だけを痛感して、「すなどり」の火を消さないために、ひたむきに前進してゆく、ぶっつかって始めて、如何に編集というものが、容易な事ではないかを知らされる。そうでないとやれない仕事である。大勢の編集員が来て、原稿を依頼される。忙しくて書く暇もない

と思っても、若者の熱情にひかされて、つい安請けする事もあって、書けずに迷惑をかけた事もあった。しかし、「すなどり」の内容を読んで、勝本にも文の達者な人が、多くおられる事に驚いた。内容的に立派な記事を多く見る。勝本町の将来の事を考え、漁民の将来を憂いて、たまにはユーモラスに巧みに表現されている。他の大新聞は、見出しをみて、重要な記事だけ読んでも、「すなどり」は隅から隅までよく読む。記者名のないのが残念に思う事が多い。新聞は社会の目であり鏡である。それだけに新聞の持つ使命は尊いものである。それ故に、編集にも苦労が伴うのである。「すなどり」は将来の組合に対する、町政に対する、過民の声をよく反映して、研究の結果等もよく伝え、漁民の声をよく紙上に反映して、機関誌としての役目を、十分に果たしてきた。しかし近年の「すなどり」は、記事が低下したようである。広告と役員の就退任の挨拶だけが目立っている。原因を挙ぐれば、特殊船に乗って、幹部クラスが少なくなった、又、会員も少なくなって、以前のような行事も、実行でき難い状況にある。今後「すなどり」を一層育てて行くには、心ある投稿者が殖え、愛郷心を以て「すなどり」を見守り育てる事が、最も大切な事と思うのである。

漁協青年部活動の評価
 漁協青年部の結成は、時代の要求によって、必然的に組織されたものである。漁業者にとっては、一大革命であったといえる。従来の排他的、封建的な、島国根性から脱却して、島外、県外への雄飛は、青年部の活動の成果ともいえる。今日では新潟、北海道まで、何百トンの漁船に並んで、特殊な船といわれる程の小型船で出漁して、勝本漁民としての声価を高くしている。こうした県外出漁がなかったら、勝本の組合も、勝本の漁業も、ジリ貧状態に陥っていた事が考えられる。部活動に於いても、創立当初の原点にかえれ、という事は無理であろうが、先輩の偉業が大であっただけに、青年部の伝統の灯を消しては、先輩に済まないと、打ち上げ花火に完らせまいと懸命であるが、幹部の県外出漁と部員の減少は、焦るばかりで実績は伴ってゆかない事は、詮方ない事であろう。然し漁業の実態は、益々楽観を許されない事態である。時代は常に激しく変遷して行くといえども、いつの時代においても、青年はその時代の原
動力である事には変わりはない。吾等は勝本にいる限り、故郷と共に生き、故郷と共に死すのである。
 青年に明日は無い、今が青年である。変革は常に青年によって築き上げられている。勝本の漁協の前途を憂い、奮い立ち、青年部を創設した愛郷の人、松尾政太郎氏の再現を心から希う者である。この項を完るに当たり、初代会長松尾政太郎氏の御冥福を祈り、歴代部長、幹部の努力に対して敬意を表する。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社