天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史119

勝本浦郷土史119

アサリ貝も以前は至るところの浜に、アサリ取りをした事を憶えているが、港湾が整備されて、アサリを取る所はほとんどなくなった。

海草類の採取
 海草類としては、ワカメ、カジメ、ヒジキ、モズク、テングサ、フノリ、アオサ等品種も多い。カジメは明治から大正年間には、薬用として利用され、沃度製造工場も、坂本触の田口沃度工場、馬場崎に中上沃度工場があって、採取する人も多く、原料も海底に多く繁茂していたが、それでも原料が不足して、島外から買い求めて一時は盛況を極めていた。
 第一次大戦終了と同時に、薬用沃度暴落のため、工場も経営困難となり閉鎖された。その後カジメ採集は、途絶えていたが、昭和二七、八年頃から、琴平町の土肥アンゴラさんが、終戦後のアンゴラ兎の飼育をやめ、スルメの買付を始めると共に、海草類全般に亘り、買付を始められ為に、カジメ、ヒジキ、ワカメ、テングサ、フノリ等、あらゆる海草の採集がさかんになったが、土肥氏の逝去以来、カジメを除いて、組合にて集荷され、競売され、時季になるとワカメ採取も盛んに行われていたが、養殖ワカメが都会に出るようになってからは、自然ワカメも安価となり、採取する人も非常に少なくなり、従って海草すべて採集する人が少なくなった。
 又すべての魚が港内外に少なくなるように、海藻類の繁殖も以前より少なくなり、大風による浮き藻も、海岸に寄せる事も非常に少なくなった。これは農薬等の自然流入、家庭洗剤の湾内流入が、大きな原因ではないかと云われている。海藻のヒジキは、養権物がない事もあって、割合に値もよく売れ、需要も拡張安定している事から、将来希望のもてる海草である。

第十七節 勝本町における漁船の推移

第十八節 漁協青年部と婦人部の活動
漁協青年部の創立
 勝本漁協青年部は、昭和二八年六月八日県下でも最も早く創立された。当時昭和二八年は朝鮮動乱も終結して、日本は朝鮮戦争の軍需景気によって、経済的にも立ち直りを見せていたが、戦争の終結と同時に金融凍結が行われ、引き締め政策が行われたので、全国的に急激な不景気が押し寄せ、漁家としても漁獲物の価格は下落して、生活も困窮した時代であった。漁業組合としても、購買代金や充電料立替代金等の未収金は思うように集金できず、運営も容易でなかった。漁協も運営資金に困り、漁業者の水揚代金の支払いにも支障を生ずる状態であった。心ある者は組合の現状を見て、将来を憂うる者が出る事は当然であった。水揚げの歩合を上げても、二割以上の利息で金を借りては、組合の正常なる運営ができる筈はなかった。それでも組合は必死の思いで、苦しい運営を続けていたのである。丁度その頃県漁連でも指導課を通じて、漁村青年の組織造りに力を入れていた。それに市庁水産課の指導と、町当局漁協の支援もあって、側面から青年部の設立を応接した。
 昭和二八年六月八日当時の勝本劇場において、創立総会が開催されたのである。部長には松尾政太郎、副部長立石平一、熊本万平以下役員を選出して、規約等を承認して三五〇名の漁村青年が、青年部活動への力強い第一歩を踏みだしたのである。設立するまでは県漁連及び市庁水産課等の指導によるものであったが、発起者である初代松尾部長の熱意の然らしむるところであると共に、各部落の青年会長等の各部落を取り纏めた努力もあった。
 青年部が青年会と異なっているのは、年齢は同じであっても、直接自分達の生活に職業に結びつく自主的団体である。当時の県漁連の指導者、支庁水産課の幹部がどんな思いで、青年部の創設を指導したか、当時発起した青年層が、組合運営に対する不満に若い情熱を燃やしたかが判る。漁村発展の向上の基盤をなすのは、漁業協同組合である。又組合員の組合でもある。組合の運営が放漫である。従って組合の運営が、組合員の真の意志を反映したものとは考えられないのである。時の流れを素早く察知して移行しようとする青年、生産面においても真理を求めて、近代科学による漁法を、逸早く察知して実践に移すのも青年である。時代の移行は当然青年の双肩にあるものと自負して、青年はその責任の遂行の事態に直面していたのである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社