天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史115

勝本浦郷土史115

第十節 漁業協同組合事務所・荷捌所漁村センター中央突堤に完成
 勝本漁協創立以来、最も画期的又有効的な建設事業は、九郵の接岸施設として築造された、築出の中央突堤に、幸か不幸は別として、九郵が汽船を接岸出来ないと拒絶された為に、全面的に漁協の使用が可能となった。棚からボタ餅とは、この事であろう。定期船が寄港するかしないかは、勝本町民挙げての活性化の素因でもあった為に、町理事者も議会としても、又商工会、公民館連合会も、定期船の接岸に懸命の努力が続けられたが、結局は八〇年の歴史に終局を告げて、事実上閉港となった。これは今後町民の損失を余儀なくされる結果となったが、勝本の基幹産業である漁業者の為には、大きな福音ともなったのである。当時としては、町の一大事業であり、町理事者、議会のこの中央突堤に対する期待は大きく、県及び国に対して、度重なる要望、陳情して、認められたものである。九郵にも接岸を強く要望する間に、昭
 昭和十一年、勝本漁業協同組合結成されるや、昭和十二年一月、魚類の共同販売事業を開始すると共に、漁船の漁具船具の購買事業を希望する声が大きく、昭和十三年一月開始したが、この時代すでに、勝本浦にも漁船漁具店が三軒あり、新しい優秀品が次々とできてくる割に、組合の漁具船具は、個人の専門店には、価格の競争は出来ても、次々に改良されてゆく改良品には、組合員の要望には添ってゆく事が出来ず、仕入れた商品は、年々改良品に押されて売れなくなり、在庫品として残っていた。その上に売掛金も出来る等、順調な経営は出来なかった。そのために、組合員より以前に注文を受け、予約のみを取り扱う共同購入の形式をとり入れたが、間もなく戦いも激しくなり、中止のやむなきに至ったが、終戦後二八年、青年部が結成され、購買品を取り扱うようになったので、組合の漁具船具の購買事業は、閉鎖されたのである。

石油類の共同販売事業
 大正九年に始めて、勝本浦に動力漁船が建造されて以来、漁船の動力化は進んで、昭和十三年には、一四〇隻余となり、その中十二馬力以上十隻は、鮮魚運搬並びに商品輸送にして、漁船は一三〇隻余である。このような動力船の急増にともない、勝本漁業協同組合は、共同販売事業を開始したが、引き続き十三年三月、石油類の共同販売事業を企て、仲折の弁天の近くに営業されていた、原田元右衛門氏の、重油二五トンタンク一基と、石油倉庫一棟を譲り受け、事業を開始した。石油の仕入れは、対馬厳原町の新出光石油株式会社と契約し、取り引きをする事にした。同じく十三年に、長崎県漁連が、その西側に重油五〇トンタンク一基と、石油取扱所一棟を建設して、漁協に経営を委託した。それ以後は、燃油の仕入れも、新出光と県漁連の二カ所と取り引きをする事になった。昭和十四年六月には、石油部事務所と、当直室を建設し、事業も軌道に乗った。その後、年々漁船も増加、大型化したことにより、取扱高も倍増して、昭和四〇年には、県漁連と交渉して、現在の仲折の埋立地に、九〇トンタンク一基を増設した。

和四七年に敷地面積八、七六三平方米、約一億八〇〇〇万円にて、あれだけの広い突堤が完成したのである。
 当時、鹿の下の旧事務所、荷捌所は狭隘で、混雑して、車が入口にあると、リヤカーも出入りできない、出入口は一カ所あるだけである。鰤が大量にとれると、浜から揚げきらず、沖中取り、又は陸から篭に入れて、道路まで並んで溢れる事は再三であった。船は際限なく殖え、湯田の製氷所に棚を造って集荷所にしたり、旧棧橋の青天井にひるいかを揚げる事も再三であり、鰤も翌日まで船積みにして、持ち越される事態もあり、従って魚は弱り、安く叩かれるという事もあり、当事者の当時の苦労も大変なものであったと思われる。組合事務所と荷捌所を適当な場所への移転は、組合の最大の関心事であり、急務とされていたにもかかわらず、東部に偏しても、西部に偏し過ぎても、不便と不平があって、適当な場所はなかった。
 斯くした事から、中央突堤築堤するにしても、突堤の北側に汽船を接岸する事にして、南側の一面は、漁業組合の荷捌所として、当初は設計されていた。汽船が接岸されない事が決定されるや、漁業組合側としても、東部西部の利不便を、兎や角言っていた人も一部あったが、降って湧いたような場所である。漁業組合としても、漁民としても、汽船の接岸の事よりも、忽ち困っている組合の現状を考える事は




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社