天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史

勝本浦郷土史29

勝本浦郷土史29第三節 気象 壱岐の気候は概ね海洋性気候であって、北西部を流れる対馬暖流の影響をうけて、冬季も比較的暖かである。夏季は南西風が多く、冬は北西風が多い。春一番と俗にいわれるが、こうした冬から春先の季節の移り変わりの時季に、最初に吹く強い南風の呼称である。壱岐郡郷ノ浦町元居の漁民が、古くより言い伝えて生み出したものとされている。そして春から夏へ移る間に、日本特有の梅雨期がある。これは冷...

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勝本浦郷土史28

勝本浦郷土史28第二節 地形 地形 勝本町壱岐の北端に位置し、北韓三三度五一分、東経一二九度四一分のところに在り、面積は三〇四平方キロである。勝本浦は勝本町の最北端に位置して、東部は東触仲触に接し、中部は西戸触に接し、西部は坂本触に接続している。塩谷は仲触になっているが、漁業専業であるために、平素の諸行事は浦部と共にし、生活圏は浦部に属している。 勝本浦は仲折馬場崎を除いて、山側の家は背後の丘陵を...

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勝本浦郷土史27

勝本浦郷土史27第九章 地誌と人口 風本頌※1詩 ※1頌の公の上に「一」がある。 神功の后は、東風の吹かん事を、 ひたすらに神に祈りて、祈願成就し、 この地を風本と名付けたりと。 長安の都に、危険を冒して、使したる遣唐使も、 大陸の高く優れし文化を学ばんと、 幾度かこの地を経て、唐国に渡りたる。 遥かに東国より来たる若き防人達も、 秀いでたるまなざし深く、故郷を望み、 見る目にありて、届かぬ文を風...

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勝本浦郷土史26

勝本浦郷土史26地命寺 印鑰神社の前の石段登りつめた所に、地命寺という寺がある。香椎村郷土誌に、仏閣名妙峰山地命寺、宗派真言宗、位置地命寺坂、本尊地蔵菩薩、本寺は神岳山末寺である。神岳帳にいう、本浦地命寺開基は知らず、一にいう寺本尊地蔵、家敷畑一舛、隆信公の御判あり、一にいう地命寺神岳附法相続、第一世、橋件師快善、二世、快教、この間真言中絶、而禅宗、二代王岩天岩という者住み、三世真言中興、権大僧都...

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勝本浦郷土史25

勝本浦郷土史25志賀山能満寺 風土記に記す、当寺は本来比丘尼所、筑前博多より比丘尼来て始めて寺を造立す。開山昌牧尼、その弟子昌廓比丘尼以上二代にして比丘尼相終所也。其後比丘尼所空所にして、これある故、神岳山十八世頼辨法印、前肥州隆信公の御時、彼寺申請、真言宗開起、始めて寺屋敷の御判申請者也。其前判寺にあらざる所也、右の通り其前比丘尼寺の時より、我等一代中事紛れなき、此能満寺の由来の所、後代のため神...

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勝本浦郷土史24

勝本浦郷土史24第二節 寺堂神皇寺 明治初年まで正村には神皇寺という、かなり知られた寺があった事を今日知っている人は少ない。神皇寺は龍宮寺の名で呼ばれた時代もあったが、実際の仏閣名は聖母山神皇寺である。 お寺は寺名の上に山号がある、たとえば勝本町にある寺の名を挙げると、能満寺は以前志賀山にあった頃は、志賀山能満寺といい、現在のところに遷って勝本山能満寺と称する。その他神岳山金蔵寺、醫王山報恩寺、安...

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勝本浦郷土史23

勝本浦郷土史23皇大神宮(川尻) 川尻の毘沙門堂の右道路を隔てて、皇天神宮が昭和の中頃まであった。 由緒等については、文久元年(一八六一)刊行の壱岐名勝図誌にも社名がないところから、今より一三〇年以後に建立された神社である。二間に二間の小社であったが、石の鳥居もあったし、毎年の例祭には境内に相撲等も催され、出店等もあって賑わっていたが、終戦後宮司も本宮の人で亡くなられ、留守番がおられたが、台風のた...

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勝本浦郷土史22

勝本浦郷土史22図誌に志賀大明神在志賀山、祭神三少童神、御殿辰向、去本社南三町、拝殿梁九尺、桁二間、瓦葺、境内従三一間、横二六間、周囲四百二四間、当社は始め社なし、(始めは社なしとあるから、御殿造立前は祠があったものと考えられる)万治二年(一六五九)巳亥三月八日造立する所なりと記されてある。今より約三三五年前頃である。延宝七年(一六七九)再建の記録あり、周囲四百二四間とは、志賀山全体の周囲の事であ...

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勝本浦郷土史21

勝本浦郷土史21勝本に神職を置く(壱岐郷土史) 壱岐郷土史には次の如く記してある。勝本に神職を置くとして、寛永四年(一六二七)国主命じて、「壱岐神社頭梁吉野氏をして勝本に居らしむ。」勝本は対馬朝鮮及び九州中国地方との交通の要津たれば、兹に神職を居らしむるの必要なる当時の状態としては免れざりし所ならん。吉野氏の事歴由来古く累葉祭祀の事に任じ、殊に文禄慶長の役に従軍者を出して、ますますその家名を掲げた...

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勝本浦郷土史20

勝本浦郷土史20英国船勝本に入港測量する 文久一年(一八一八)八月一日、英国船が測量のため、勝本港に入港しているが、これに対する記録が、壱岐国史に記されているが、当時浦民も驚いたであろう。 「神奈県より長崎、箱館への海路は暗礁等多く、是迄度々破船有之、難儀に候由にて、今度英国より測量の儀申立、人命にも拘り候儀に付、御差許に相成り且つ、御国に於いても追々大船出来、航海致候故、巨細測量不行届候、而は差...

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勝本浦郷土史19

勝本浦郷土史19第七章 徳川時代の壱岐及び勝本の警備押役所を置く 壱岐郷土史に延宝八年(一六八〇)勝本に押役所を置くとあり、松浦藩は領内各地に押役所を設けた。壱岐北部の勝本港にも、外地の朝鮮及び対馬に対する警備のため、延宝八年(一六八〇)六月坂本触六二番地、現在川尻の裏山に位置するところの、現長峰氏宅の所に、押役所が置かれた。今より三一〇年前である。当初は二〇数名の武士と次に記す武具に守られていた...

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勝本浦郷土史18

勝本浦郷土史18 永取家の蔵書 水取家には鯨に関する書画陶器等あるが、その中から次の書を記す。 永取家の苗字目錄、紙本墨一六・〇㎝×四六㎝。 元治元年 子甲 永取 五月吉日 白文方印 元治元年(一八六四)平戸藩主松浦家が、原田家に鯨が永く取れるようにと「永取」の苗字を与えた。それを記念して書き記したものである。七四翁乾斉の白文方印は、前記平戸松浦家第三五代藩主、松浦熈公である。 永取家...

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勝本浦郷土史17

勝本浦郷土史16 勝本館(やかた)について 通信使の館については、製述官の記録を記しているが館の構造等については原田元右衛翁の研究による、勝本館の記録を、翁の病没直前拙宅まで届けていただいて、参考にするところが多かった。 翁は勝本町文化財発掘に貢献され、勝本鯨組、朝鮮通信使の記録、松浦藩主来岐の記録、勝本押役所、鹿の下対馬屋敷の記録等を残しておられる。通信使館については、又構造の一部分について製述...

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勝本浦郷土史16

勝本浦郷土史16 勝本における迎接 朝鮮通信使は慶長十二年(一六〇七)より、明和元年(一七六四)まで一五七年の間に、十一回勝本に寄宿している。香椎村郷土史、勝本郷土史、壱岐郷土史、勝本漁業史共に、四回の通信使の来島を記しているが、壱岐国史には七回、勝本町史にはその後の研究によって欠落を補い、十一回の来島が詳しく記されている。対馬島史には対馬における、易地聘礼と共に十二回が記されている。勝本港は往時...

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勝本浦郷土史15

勝本浦郷土史15勝本朝鮮出兵の兵站地となる 第一陣の主将小西行長は、天正二〇年(文禄元年一五九二)三月上旬、名護屋を出発して、壱岐風本(勝本)に向かった。行長は松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前等の諸氏と、風本で落ち合い、船揃を完了、三月十二日風本を出港して、対馬の府中(厳原)に向かった。同日府中へ上陸して、宗義智軍と合流した。ついで三月二三日、行長は船団を対馬の東海岸にそって、木浦港に回航させ、行長自...

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