天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史27

勝本浦郷土史27

第九章 地誌と人口
風本頌※1詩
※1頌の公の上に「一」がある。
神功の后は、東風の吹かん事を、
 ひたすらに神に祈りて、祈願成就し、
  この地を風本と名付けたりと。
長安の都に、危険を冒して、使したる遣唐使も、
 大陸の高く優れし文化を学ばんと、
  幾度かこの地を経て、唐国に渡りたる。
遥かに東国より来たる若き防人達も、
 秀いでたるまなざし深く、故郷を望み、
  見る目にありて、届かぬ文を風に託したる。
世にも勝れたる多く名僧も、この地を踏みて、
 風に乗りて唐国に渡り、学び修め、
  日の国に、捏槃の道を弘めたり。
近くは朝鮮通信使の往返十幾度、
 この地に宿りて、饗應に心を砕く、
  ひたすらに、順風の早く吹かむを神に祈る。
これすべて風本が、風待ちの港なり、
 しかして唐国の文化と幸をば、日本に運べり、
  故にこの津を、風本の由来とするならんか。
今ひたすらに、過ぎしそをば思い、
 そをば偲び、そをば憶かしむ。
  風本の地よ、港よ、永久に栄えあれ。
            平成二年十一月作詩

第一節 地名と浦の起源
 一般的に風本並びに勝本の地名の起こりとして知られている事は、神功皇后が三韓に兵を進められた時に、この地に寄られ風待ちされた、朝鮮に渡るに都合のよい風が吹いた。皇后はおよろこびになって、この地を風本と名付けられた。戦に勝って帰られる際も、この地に寄られ風本の名を勝本に改められた。それ以来この地を勝本という地名になったと伝えられている。その後長い間、風本の地名も勝本の地名も歴史の上に記されたものは見られないが、大化の改新は律令の制度によって大化元年(六四五)、全国に共通する村落行政を布き、戸籍をつくった。倭名鈔に記されている可須郷も、その時のものとされている。そうした集落も長い間に合併したり、分離したりして、名称も幾度か変遷して今日に至っている。
 承平年間(九三一ー九三八)に撰定された、我が国最初の分類体とされる漢和辞書「倭名類聚鈔」に記録されている地名として、可須郷と風早郷と鯨伏郷が記されている。可須郷とは現在の勝本浦を含む東触、仲触、西戸触、大久保触、坂本触であり、風早郷とは本宮一帯と可須郷の一部とされているようである。
 海東諸国記は、文明二年(一四七一)朝鮮国の中叔舟が、日韓外港の衝に当って自らの見聞するところ記録したものである。
 それには可須郷倭訓間(か)沙(ぎ)毛(も)都(と)干(う)羅(ら)と記し、又同じ頃の老松堂日本行録には干(か)沙(ぎ)毛(も)都(と)とある。風本の発音に漢字をあて嵌めたものである。こうして見ると風本の発音は、海東諸国記以前からあったものであると考えてよい。
 壱岐浦造りについて、壱岐国史に平戸藩では浦制を布くために、壱岐の諸浦を整理統合して八ヶ浦にした。そして壱岐の各地に分散している非農家を各浦に集めた。郷ノ浦、渡良浦、印通寺浦、八幡浦、芦辺浦、瀬戸浦、湯の本浦、勝本浦である。
 勝本は可須浦と本浦を一つにした可(か)須(す)本(もと)浦(うら)としたが、更に好字を以て勝本と改称した。しかし民間では神功皇后の伝説によって風本といったとある。郷ノ浦に浦役所をおき、他の浦には浜使役所をおき、浦行政の機関とした。浜使の事を浦庄屋ともいったと記されている。
 壱岐が平戸藩領になったのは、永禄六年(一五六二)であるが、壱岐国史に平戸藩政を布く時に、壱岐を八ヶ浦としたと記されているが、総合して考えると、船奉行勤法定法、一州浦掛動法定法が慶安三年(一六五〇)、今より約三四〇年前頃となっている事から、その頃であろうと考えられる。それを裏付けるものに、壱岐郷土史に郷ノ浦が承応元年(一六五二)国主鎮信の命により、深江下の浜住民七〇余戸を移して郷ノ浦を開く、町区の長さ三〇〇間、幅八間、これ現今の郷ノ浦の濫腸たりとある。又芦辺浦については、寛永初年(一六二四)頃、長門豊浦郡住吉の社家位崎宮内なる者、諸吉の清滝浜に来たりて、住吉神社を鎮祭して地名を豊浦とす、これより地方の景気一層増進せりという。清滝浜は現今の芦辺浦にして、当時は貧寒の漁村に過ぎざりしが、住吉神社の鎮祭等により、漸次地方の繁栄も増進し、現在の如き連担せる商業地となれりとある。又万治二年(一六五九)筒城の夕部郡の民衆を堂崎に移して、後寛文四年(一六六四)に至り山崎浦に改め、又今里の民家を棚江に移して、後年八幡浦に改むるとあり、壱岐名勝図史には、寛文四年(一六六四)本宮の浦海の住人二〇数戸を移して、湯の本浦を開発、温泉業を経営せしむとある。こうして記して見ると、壱岐の諸浦を八ヶ浦とした事と時期が一致するのである。(参考事例のため記す)
 勝本浦については、八ヶ浦にした当時の事については記されていない事は、他より移動しなくても小なりとも浦としての形造りが已に出来ていたものと思われる。又勝本漁業史には、太宰府の管内誌のある地図に、勝の浦、元の浦に分けている記述があるという。そうした説から考えると、勝本の前身の風本は、可須浦(西部)、本浦(東部)に分かれていた時代もあったことが考えられる。可須浦は、正村湾を中心に鹿の下が含まれていた事は、壱岐名勝図誌に鹿の下東部だけの謂であろう、旧名可須崎の地名があった。又一名寺崎ともいうとある。寺崎の地名は、屋号として今日も残っている。総合して考えると風本が勝本となった事と、可須浦と本浦が一つとなって可須本浦になった事が考えられるが、歷史上には可須本浦の地名は多く見られないようである。
 神功皇后と風本及び勝本の地名については、伝説として大事にしなければならないが、歴史的にいつ頃から勝本と伝称されるようになったのであろう。多くの郷土史を調査したところを記して見る。鹿の下寺崎の比丘尼が対馬藩主義智公が亡くなられた時に、義智公の霊前に焼香した際に白銀を与えられ、それによって一寺を建て義智公の霊牌を安置、供養したため、対馬藩主より扶持米を頂戴したその文に曰く、
 自寛永十三年(一六三六)為扶持方一年米三石達之候間、於博多歲本毎歲右之通被請取者也。
 寛永十二年十月十三日押字 壱岐国勝本能満寺
 茲に初めて歴史書の中で勝本の地名が登場する。正保絵図は、正保年間(一六四四ー一六四八)編纂されたものであるが、香須村三五七石、坂本村二九一石が記され、別に勝本浦の地名が記されている。筆者註「ここに記してある香須村とは、可須村に通しるものであろう。」
 朝鮮通信使の製述官の記録によると、ほとんど風本の地名が記されているが、享保四年(一七一九)九回目の寄港の際に、風本浦一名勝本一岐島の西隅にあり、土地をいう場合壱岐とする所以である、浦をいう場合は風本というとある。又誠信地図は享保年間(一七一六ー一七三六)編纂されたが、勝本浦、田の浦、塩谷の三浦と若宮島を記して、勝本浦、田の浦、塩谷にも僅かであるが田があり、若宮島にも若宮神社の神田があった事が判る。壱岐名勝図誌に吉野秀政いうとして、
 長禄の頃より天正の頃まで(一四五七ー一五一九)、専ら風本の二字を用いる事明らけく、猶長様以前天正以来も風本と称する事察すべし、今の国民も(秀政時代)正德ー宝暦時代(一七一一ー一七六四)風本とのみ云いて勝本とはいわず、字を用いる所は勝本なり
と記している。斯く記して見ると秀政の時代には、勝本の呼称はあったが必要な場合は勝本と記し、平素は多く用いられなかった事が分かる。
 茲※1に吉野秀政について簡単に記す。秀政は箱崎八幡社家吉野秀教の長男として、正徳三年(一七一三)に出生、延享元年(一七四四)壱岐績風土記を編纂して藩主に提出した。宝暦十一年(一七六一)諸事情のため、箱崎八幡宮司を引退した。当時大宮司と尊敬された有名な人である。
※1異字体
 勝本浦の地名が何年からという判然と明記する事はできないが、前記の如く、能満寺の扶持米が今より三六〇年前、正保絵図が三五〇年前、誠心地図が約二八〇年前、朝鮮通信使が約二八〇年前、吉野秀政の代が約二八五年となる。大体において大差はない。総合して考察して、今より三〇〇年より三五〇年前頃、已に勝本の地名があったと考えて大差はないであろう。浦部では明治の中頃まで風本の呼称はあったが、その後はすべて勝本と呼称されたが、在部老人間では終戦後も風本の呼称は残っていたようでる。
 こうして可須郷から間沙毛都干羅、風本浦、可須本市、勝本浦と、長い間のうちに変移して今日に至っているのである。古くより可須という地名は、風本の又勝本の上に記す地名である。例えば明治初年は可須村勝本浦であったが、明治二十二年四月市町村制施行令により従来の可須村と新城村が合併して香椎村可須勝本浦となり昭和十年香椎村が勝本町となり勝本町可須勝本浦となり昭和三〇年鯨伏村と合併してより可須の字は一、三〇〇年余り続いて新しい戸籍の表示から消えて勝本町勝本浦番地となった。
 参考のため明治九年の地券による当時の地名を記す。
 大日本帝国政府
 明治九年改正 地券
 壱岐國壱岐郡可須村勝本浦〇〇〇〇番字〇〇
 同國同郡同村
 持主 〇〇〇〇
 一、宅地壱畝拾壱歩
 地価 四円拾銭 地祖
 此百分の三・・・金搭弐銭三厘
 右検查之上授與之
 明治十三年九月三〇日
 長崎県 印※1 ※1:〇の中に印
 主事
 壱岐石田 郡長鈴田洗七郎

浦の起源
 勝本浦づくりはいつ頃から始められたのであろう。勝本を故郷とする者にとっては関心事である。この事について調査もしたが、資料に乏しく十分に記すことは出来ないが、西暦二四〇年頃、わが国にまだ文字もなかった頃、中国には已に文字があって、魏志倭人伝に漢字にて五〇数字壱岐の事が記されているが、その中に三千許(ばか)りの家ありと記されている。勝本は壱岐で最も大陸に近く、便利な良港として、歴史的にも古くから知られた所であるから、ある程度人が住んでいたのではと思われるが、勝本の地勢は穏やかな丘陵から落ちこんだ窪地である。何千年、何万年の間に海岸も風波に削りとられ、丘陵も断崖となっていたであろう、人の住める平坦なところは海辺では多くなかったであろう、古代に多くの人が住んでいたとは地理的条件からも誇大に考えられない。串山天ヶ原遺跡より、縄文中器土器片、弥生式土器片、陶質土器片、亀卜等が発見されているが、串山は古代見る目関や防人達のおかれたところとされ、古代勝本の集団的住居跡地でないかと注目されているが、現在のところ解明するまでに至っていないとすれば、永い間のうちに我等の先祖は崖を削り、山を開き、海を埋めて今日の勝本を創造したのである。それは平坦なところでないだけに、苦労も多かったであろう事も考えられる。香椎村郷土史は、当初は本浦ばかりで鹿の下も正村も海であったと記されているが、その当初はいつの時代であったか記されていない。古代の不明な事は別として、筆者の知るところを記してみる。唐と新羅の軍が日本に攻めて来る事を警戒して、大和朝廷は壱岐対馬、特に壱岐で勝本を先守防衛の地とした事は、古代壱岐及び勝本の防備の項記したが、海東諸国記には前述の通り、文明二年(一四七一)朝鮮の申叔舟が、身分の見聞するところを記録したもので、それには可須郷倭訓間(か)沙(ぎ)毛(も)都(と)干(う)羅(ら)と記している。ここでいう可須郷とは、可須、新城、箱崎の三村の辺をいうとの説もあるが、この干(う)羅(ら)という字に注目したい。干羅は浦に通じるもので、海辺の生活集団であったと解される。正村の神皇寺の以前の龍宮寺は、大永二年(一四二二)開寺され、神皇寺の開山は天正八年(一五七三)今より四二〇年前である。今より約四〇〇年前豊臣秀吉の朝鮮進攻における勝本浦としての果たした役割も歴史的に有名である。又鹿の下には対馬宗家の対馬屋敷が慶長年間、今より三九〇年頃すでにあった。その頃鹿の下東には博多より比丘尼が二人来て、能満寺の基礎をつくった事も歴史的に明らかである。朝鮮通信使の第一回の勝本接迎は、慶長十二年(一六〇七)今より三八六年前である。当時の勝本浦の状態が端的に記されている。
 志賀山に志賀神社が建立されたのが万治三年(一六五六)三二四年前である。城山山麓にあった三光寺が現在の能満寺のところに遷ったのが寛文年間、今より約三三〇余年前である。壱岐が平戸領となったのは永禄六年、約四三〇年前であるが、平戸藩が壱岐の諸浦を整理統合して八ヶ浦としたのが慶長年間(一五九六ー一六一五)であると思われるが、この以前に勝本はすでに浦造りがなされていたと思われる。今より約四〇〇年前である。川尻の上の方に勝本押役所(接撫使)がおかれたのが延宝八年(一六八〇)約三一三年前である。
 若宮島の若宮神社の創建も不明であるが、宝永十年と慶安四年勝本町は壱岐の北端に位置し、と明治九年に改造されているので、宝永の改造から三六〇年となる。
 本浦の印鑰神社の創建は不明とされているが、湯田の地命寺の第三世法印還栄が、寛永十七年入寂して以来約三五〇年となる。
 田の浦の捕鯨は宝永七年深沢儀太夫が、今より二九〇年前、田の浦を根據地として鯨網を創業した事を嚆矢とする。こうして記してみると古い事は明らかでないとしても、本格的な浦造りは今より五〇〇年以前から始まり、今より三〇〇年前頃までに大体の造りがなされ、今日に至っていると考えられるようである。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社