勝本浦郷土史21
勝本に神職を置く(壱岐郷土史)
壱岐郷土史には次の如く記してある。勝本に神職を置くとして、寛永四年(一六二七)国主命じて、「壱岐神社頭梁吉野氏をして勝本に居らしむ。」勝本は対馬朝鮮及び九州中国地方との交通の要津たれば、兹に神職を居らしむるの必要なる当時の状態としては免れざりし所ならん。吉野氏の事歴由来古く累葉祭祀の事に任じ、殊に文禄慶長の役に従軍者を出して、ますますその家名を掲げたれば、事の兹に及べるものなるべしとある。又神職棟梁吉野末秋この役(秀吉の朝鮮侵攻)七年間、松浦氏に属して従軍し、武運長久勝利の祈念に従う、文禄二年記述の従軍日記は、その全文を三光語録考鑑巻五に収録せり、凱旋の後百石の賞賜あらんとせしを、辞して子孫永く壱岐国惣大宮司業社家支配たらんことを請いて、之を許されりとある。
聖母宮の宝物と文化財
宝物は多くあるが、県の文化財に指定されている茶壷が有名である、壱岐名勝図誌には、朝鮮焼壷と記載されているが、古唐津飯洞甕窯焼系ともいわれている、その他聖母宮の文化財については、文化財の項に記しているので省略する。
伝説(聖母宮神輿)
聖母宮の神輿は昔より二墓あり、一の神輿は毎年可須村から四人の擔ぎ人が出され、二の神輿は半域村百次郎、中道物部、鯨状の三村から四人の擔ぎ人を出したという。そして次の年は初山村から四人、三年目は中の郷(志原村)国分諸吉の三村から四人、四年目は長嶺村から三人と、布気立石から一人計四人を出して擔いだという。このように二の神輿は壱岐国中の村から擔がれるのが習慣だったので、国輿(壱岐国)郡輿(壱岐郡)とも呼ばれていたという。
(勝本口頭伝承より)
聖母宮の神領
江戸時代の聖母宮の神領は、可須新城、芦辺町では中の郷、郷ノ浦町では初山有安長嶺坪百次郎等、壱岐全島にあったと記されている事から、聖母宮の例祭に船競争がなかった頃は、神輿味擔ぎの配分が神領との関係でなされていた事も考えられる。壱岐郷土史にも香椎聖母大明神神領が、初山村方面にあるは一見方角違いの感あるも、現今武生水初山両村の堺に、字聖母田(あざしようもでん)あり、これ当時の称号残れるものなりというに徴すれば、その事実なるを推想するに足らんと、初山の一部が聖母神社の神領であった事も裏付けされている。(壱岐郷土史)
豊坂忠作の献納牛像(勝本町口頭伝承より)
豊坂忠作という人は背丈もあまり高くなかったが、がっちりした体格の人で無類な力持ちだった。忠作は聖母神社に対する信仰心が厚く、安政四年(一八五七)石の牛を寄進しようと思い、志原の山内利兵衛という石工に注文した。やがて完成するや、一人で石の牛を聖母神社に背負って運んだという、この道中で一番辛かったのは、谷江新田を通る時であった、谷江新田は見渡す限りの田で休む場所がなかった、背負った石の牛を一度地におろすと、一人の力では立ち上がる事はできない、谷江川を死ぬような思いで歩みきった忠作は、崖の上に背をもたせ、一息入れて聖母神社に着いたという。牛の石像は重量は四八〇キロといわれている、牛像は豊坂忠作が献納した事は真実であるが。
常識を越えて運搬中の事を、面白く記されているので、伝説となっている。両方共に伝説の中に真実があるので記した。
神功皇后にまつわる伝説
神功皇后は又の名を気長足姫尊と呼ばれる。神の御告げによって武内宿弥と共に、筑紫から壱岐対馬を経て新羅の遠征を成就され、応仁天皇の聖母として、その勇名と勲しは壱岐対馬だけでなく、福岡方面九州各地に神功皇后を祭祀する神社と伝説は、書き尽くす事はできない程である。
壱岐に於いても神功皇后を主神と祀る神社は多い。聖母宮、本浦の印鑰神社、若宮島の若宮神社、本宮八幡、箱崎八幡宮、元居の八幡神社、渡良の国津神社、筒城の白砂八幡神社、柳田の長井長男神社、沼津の爾目神社等がある。対馬の史家永富久恵氏も次のように述べられている。
対馬には神功皇后を祭神とする神社と、それに付随する伝説がずい分多い。ほとんど津々浦々ある。その中にはいろいろの古事や由緒が神功皇后に附合して語られたものが多々ある(後略)ともいわれている。
又福岡各地方にも神功皇后にまつわる由緒が多い。
こうして神功皇后、仲衰天皇、応仁天皇を祀る神社が、筑紫、壱岐、対馬に非常に多い事を考えると、気長足姫尊が筑紫から壱岐対馬を経て、新羅を遠征された事と一致する点がある。
日本の古事記や日本書記が、神話や伝説が多く、科学的に学者間に論評されて、その中に登場してくる神功皇后にまで、伝説であるとか、歴史上の人物であるとか、論及されているが、筆者の如き無学の徒の多く論ずるところではない。こうして神社の多い事を併せて、伝説も頗る多く、伝説の由緒等については、多くの伝説が作為的で、常識的に結びつかないものが多いのは、伝説であるので、兎に角いうべきではない。
現代の人は理論的に、常識的、知的に物事を判断する人が多くなってきている。非常によい事であるが、昔は常識的理論的に結びつかないものが、かえって神格化されて、残されたものであろう。兹では伝説とうい事に従って、筆者の知るところを記すが、伝説の由来等については他に記しているので省略する。
我々の生活の中にも、常識で考えられない不可思議な事も多くある事も事実である。伝説も伝説の中に真実なものもある、伝説のすべてを伝説として片付けられないものが多くある、正しい歴史観と伝説の定義に一線を引くことは非常に危険であり、むずかしい事である。
聖母宮にまつわる伝説としては、勝本の地名の呼称の伝説、馬諦石、朝鮮捕虜の石棺の伝説、本宮海岸柱石、(六一年八月十三日の台風にて倒壊)御手洗の伝説、他町に於いても多くあるが、特に石田筒城の錦浜、印通寺の地名の伝説、諸津の赤瀬鼻、片原の馬立の伝説等がある。
こうしたものをすべて迷信であり、伝説とは言い難いが、史実と伝説とは飽くまで異にすべきであろうと思うが、普通いう紙一重のものも多くあろう。
むずかしい事であるが、要は伝説は伝説として柔らかく受けとめ、史実か伝説か判然としないものに対しては、史家が論証できるまで、掘り起こさねばならないが、この種の伝説を掘り起こす事はむずかしい事である。
我々はわれ等の住む世の中に、真実を追い求めて生きて行く事は最も大切な事であるが、豊かに生きるためには、人間の常識を越えた未来像や、伝説漫画、小説にしても読む人の関心を得るためには、面白く又感動するように書くのも、喜怒哀楽を好む人間性の表れである。
人の世に真面目な歴史書ばかりあって、推理小説も漫画伝説伝承もないとしたら、世の中は余りにも殺風景であろう。
いずこの土地にも伝説や迷信は多い。信仰とは弱い人間性の神仏に対する信頼である、その対象物である神仏に、人間以上の力を持った何かがある事を認識しようとしている、溺れる者は藁でもの思いで絶対的のものである。その願いが偶然でも成就すれば、そこには常識を越えた迷信や伝説が生まれてくる事は当然である。現代では史家が史実のロマンを追い求める以上に、漫画や推理小説伝承も、大衆から愛読される時代である。
印鑰神社
壱岐名勝図誌に、「印鑰神社在本浦、祭神仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇、御殿亥向、梁一丈一尺、桁二間、境内東西十五間半、南北七間半余、去本社東可五町、石鳥居建造。
当社は聖母宮と同時に勧請かといえり」とある。壱岐神社明細帳には、「可須西戸触鎮座、印鑰神社但式外、無氏子、社殿桁二間、梁一丈一尺、祭神足仲彦尊、(仲寒天皇)息長姫尊、(神功皇后)誉田別尊、(応仁天皇)石体、但勧請年月不詳、社地二九歩、但無税、宸翰勅額無之、造営民費とある。勧請年月は定かにしないが、印鑰の印は官印の事で、鑰とは官庁の倉庫の鍵(かぎ)の事である。つまり印鑰神社は、壱岐国の公印と庁の倉庫の鍵をお祀りする神社であるという。
又は兵庫の鍵を祭った神社であるとされている、又祭神の足仲彦尊とは仲哀天皇、息長姫尊とは神功皇后、誉田別尊とは応神天皇の事である。御逝去後に天皇となり、皇后となられた。(壱岐名勝図誌と壱岐神社明細帳と祭神の名称の疑義のため註す)
壱岐神社誌には、延暦七年(七八六)この年、壱岐島五社、(本宮、箱崎、筒城、印鑰、聖母を勧請すとあり。)聖母宮の創建の時期は不明であるが、神功績皇后の三韓出兵の時を勧請の時とされ、養老元年(七一七)に勅によりて聖母神社と興立するとあり、壱岐神社帳には印鑰神社勧請年月を定かにしないが、兵庫の鍵を祭った神社であるとされているところから考えると、律令時代といえば、大宝律令が制定されたのは、大宝元年(七一O)であるところから考えると、前者の養老元年(七一七)に聖母宮を興立した年代と、大体において一致するところがある。
律令時代の神社であるとするなら、今より一千二百数十年前に建立された事になり、壱岐でも古い神社であるといえると共に、当時の壱岐国が北の玄関にとして、勝本港が壱岐でも最も重要視されていた事がわかる。貞観十三年(八七一)正月十五日太宰府言、壱岐島兵庫の鼓鳴るとある。
異賊の襲来に備えて当然ながら、壱岐にも兵庫があったのである。
壱岐の史家山口麻太郎翁は言う、私は勝本の本浦にある本浦城址といわれるところに、防人司兵庫等がおかれたところであろうと思っている。それはその下の印鑰神社があるからである。印鑰神社はそれら官庁の鍵を保管するところであって、他の神社のように信仰だけで設けられたものではないからであると記されている。印鑰神社の存在は勝本だけでなく、壱岐の古代史を解明する上でも重要なものである。現在の神社の再建については、調査したが不明であるが、現在の鳥居は弘化四年(一八四七)末蔵正月本浦町中の刻字がある。今より一四六年前に建立されたものである。
印鑰神社の例祭は新暦十二月十四日に行われているが、現在三年に一回は大神楽を行い、三年に二回は宮司による、お蔵いが行われている。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】