勝本浦郷土史24
第二節 寺堂
神皇寺
明治初年まで正村には神皇寺という、かなり知られた寺があった事を今日知っている人は少ない。神皇寺は龍宮寺の名で呼ばれた時代もあったが、実際の仏閣名は聖母山神皇寺である。
お寺は寺名の上に山号がある、たとえば勝本町にある寺の名を挙げると、能満寺は以前志賀山にあった頃は、志賀山能満寺といい、現在のところに遷って勝本山能満寺と称する。その他神岳山金蔵寺、醫王山報恩寺、安養山東光寺、補陀山仙南寺、補陀山観世音寺等がある。
明治三年から五年にかけて、明治維新の廃仏棄釋で、廃寺になった寺も多い。聖母山神皇寺、現在能満寺の所に以前あった、醫王山三光寺、神岳山本宮寺、白花山刈田院覚音寺、立石南妙善山源長寺、上場の白石山慈眠院、立石仲の鶴亀山安楽寺、片山の雲岫山興禅寺等現在の人の全く知らない寺も多くあった。勝本の湯田上にあった妙峰山地命寺のように、堂宇だけ残したところもある。
正村神皇寺の寺領は、坂本触一番地となっている、正村の松本宅より坂本触六番地の、正村の熊本宅までの二五〇坪が寺地であった。勝本浦の戸籍番地は、本浦の築出の北の端から始まっているが、坂本触の一番地は正村の中央から始まっている、それも山手の方だけである。
壱岐名勝図誌には神皇寺について次のように記されている。聖母山神皇密寺本尊阿弥陀如来、秘仏という閉帳なり故に長不知。(中略)
秘仏であり閉帳であるが故に、本尊阿弥陀如来仏の大きさも、知られていないという事であろう。次にいう神岳山末寺なり神岳山記にいう、聖母坊真言最初神岳秀源法印相続、続いて秀光云々その以前は半俗の供僧たり、秀増秀栄等いう名あれ共、真言の行者に非ず、故に過去帳の世にも乗せずとある。神社考にいう神皇寺の来山は、大永二年(一五二二)三月、祝部仏法寄依によって、法体して妙覚と名乗り、鹿の下井川の辺りにて居住して、灯明田を耕作して灯明炷(ともし)役(やく)を勤め、宮掃除等を成せしが、その子孫半俗妻帯して相続し、庵室を西往院と号して、その後龍宮寺と改め、再興の度毎に庵室を聖母社地近くに次第に遷して、世間には宮司聖母坊と称していた。只広線の灯明炷(ともし)役ばかりなりと、以来真言宗を極めながらも、本寺を定めなかった。
寛永五年(一六二八)六月、龍宮寺往憎源覚始めて、神岳山末寺となりて、神皇寺と改め、以後願によって寺領一〇石となり、その後寛保元年(一七四一)七月二八日、始めて聖母宮別当職となれりと記されている。
お寺の住僧が神社の宮司別当職をつとめた事について、現在の人は疑義を感ずる人も多くあるが、当時の神仏に対する庶民の考え方は、今日のように神は神聖なるもの、仏は不浄なるものというような事は考えなかった故に、僧侶が神社を支配しても、当時の人は矛盾を感じていなかったのである。
神皇寺は朝鮮通信使の迎接地として有名であるが、朝鮮通信使の項に記しているので、必要以外は併記する事を避ける。
壱岐国史の通信使の項に、寛永元年(一六二四)到泊一岐島之風本浦、即下館於龍宮寺、寺前一古廟名曰く聖母祠と記されて、当時まで龍宮寺と呼称されていた。又寛永十三年(一六三六)の通信使について、壱岐国史には、二六日食後下陸館宇龍興寺とあるが、これは神皇寺の誤りであろう、寛永五年(一六二八)には巳に神皇寺と改名され、龍興寺という寺名はないからである。神岳山記には神岳山第十二代の時に、神岳山の末寺となった。天正八年(一五八〇)今より四一〇年前の中興開山は、神岳山第二一世代なり、故にこの時は再中興の時なるべしと記され、こうした事から考えると、当初の龍宮寺の開山は、中興の開山よりかなり古い事が考えられる。天正八年再中興後の寺領は、長さ三十間横八間余の二五〇坪である。堂宇本堂は梁行五間、桁行五間、瓦葺き、庫裡、梁行四間、桁行五間、表門、裏門まであった。
宝物としては前記の本尊阿弥陀仏で、この仏像は朝鮮より渡来した仏像とされている。壱岐名勝図誌には汁物として、三六哥仙巻物、天祥庵慶岩徳祐、聖母宮縁起上下二冊、観音経折本、大随仲夏(一七二八)朝鮮焼壷一口茶入、磬和名抄磬僧清国題字詩云、五色雲中嶋王磐等が記してあるが、現今では離散して本尊阿弥陀仏だけである。
松浦藩主と神皇寺
松浦藩主は神岳山に次いで、神皇寺を崇敬しておられた事が判る。
松浦藩主三六代曜公は、弘化二年(一八四五)三月壱岐来島に際し、郷ノ浦亀岡城落成式後、島内を巡視されて三月二二日、神岳山にて御昼食後、神皇寺、聖母神社御参詣、武末城を見学し、神皇寺に止宿されている。三月二三日においても、若宮島に渡神され御遠見、海松目浦に渡海、田の浦納屋場、沖にての捕鯨を御覧になり、お茶屋屋敷及土肥甚右衛門(現勝本プール場所にあった)宅に小休、そして古城にお立寄り、当日も神皇寺に止宿されている。
三七代松浦詮公も文久二年(一八六二)三月に来島され、神皇寺に両日止宿されている。おもうに当時の藩主の島は滅多にない事で、壱岐島あげての歓迎の盛事であった、特に神皇寺における重なる宿泊は、勝本浦中大変な事であったであろう事は、想像に難くない事である。
何故に神皇寺を選ばれたかについては、神皇寺が朝鮮通信使の迎接の地として、建物が藩主の迎接に適していた事が考えられる。
第二に考えられる事は、松浦藩主が特に神皇寺を崇敬しておられた事であろう。常に神岳山に次ぐ献納されている事でもわかる。
宝永二年(一六二五)十二月、松浦隆信公は神皇寺(当時龍宮寺)に寺産十石、神岳山本宮寺に寺領二〇石を寄附するとある。
一六四二年松浦鎮信公は、神岳山本宮寺に(寺領二〇石)聖母山神皇寺に十石、元禄九年(一六九六)八月松浦藩主棟公は、神皇寺に十石、神岳山に十石、聖母神社に二石等の記事あり。享保七年(一七二二)四月と、寛延二年(一七四九)十一月に、各十石献納されている。常に神岳山に次ぐ献納高である。以上のように松浦藩主からも、特別に崇敬された神皇寺が、何故に廃寺になったのであろうか。
すべての物は時代によって左右され変遷する、明治初年神仏混淆を禁止した神仏分離令が制定されてより、全国的に俳仏毀釋の運動が起こり、壱岐でも一村の同宗派の寺又は、末寺はその本寺に吸収されたのが、明治三年から四年頃である、勝本浦でも正村の神皇寺、現在の能満寺のところにあった三光寺、湯田の地命寺が廃寺になった。
その外本宮の神岳山、湯の本の覚音寺、其の他多くの寺が廃寺されたのである。過去の神仏混合時代の揺り返しでもあった。
斯くして今日では神皇寺跡には、人家が建ち並び、神皇寺跡地付近に阿弥陀堂として、寺としての格もなく、僅かに年輩者の信仰の対象として、時折念仏の声が聞こえる。
現在の阿弥陀堂の前面の、船付場に至る道路は、神皇寺の渡頭と一般に呼ばれているが、それは神皇寺というお寺が昔あった事を意識しないで、通称神皇寺の渡頭と呼んでいる人が多い。
渡頭とは海岸道路の無い時代、船に乗ったり浜に出る便利のため、昔から浦部に百米位間隔に、幅員二、三米位の小路があった、これを渡頭と呼んでいるが、神皇寺の渡頭は、朝鮮通信使の上陸の場所であったために、幅員は五米余ある、将来まで歴史に名を残すところでもある。
三光寺
三光寺は明治初年の政府の一連の宗教改革である一村一寺制により、勝本町では神岳山本宮寺、正村の神皇寺、湯田の地命寺等時を同じくして廃寺となった。当時壱岐でも多くの寺が廃寺となっている。寺が多過ぎたので、同じ宗派の寺は思い切って処理したのであろう。
醫王山三光寺は、芦辺町の曹洞宗竜造寺の末寺で、文明三年(一四七一)に天山瑞石によって開山せられ、寛文年間(一六六一ー一六七三)現在の能満寺の位置に移る前は、城山の麓付近にあったとされている。
当初の三光寺は小堂で、旅僧の宿泊所であったが、現能満寺のところに遷ってからの、寛政十一年(一七九九)正月改壱岐国人別帳に、龍造寺の末寺可須村三光寺、高安和尚年五四歳小僧一人あり、弘化二年(一八四五)檀徒数は二五〇軒とある。壱岐名勝図誌には次の如く誌されている。
醫王山三光寺、在勝本浦坂、本尊薬師如来像長さ一尺六分、脇士日光月光両童各像長さ六寸一分、十二神将各六寸安部安作といえり、大権長さ一尺四寸、達磨長一尺五分。
客殿 梁行四間半 桁行六間、廊下 梁九尺桁三間。
庫裡 梁行五間 桁行六間、方丈、梁二間桁三間半。
寮梁 行三間 桁行三間半、門 梁八尺 桁九尺。
境内 二反三畝五歩。内寺地 従二四間 横十三間とあり、すべてが瓦葺の建物であった。
壱岐名勝図誌に醫王山三光寺を、武末城の地より勝本の浦坂に遷すとあり、当時の檀徒数が矢張り二五〇軒とあるから、かなりの寺であったようである。城山の地より現能満寺の地に遷す時の、醫王山三光寺は、三代土肥市兵衛乃ち勝屋敷土肥甚右衛門が本堂を寄進している。
城山麓のエヘン松
勝本郷土史に次の如く記す。昔対馬の国津名の郷主宗弥八郎という者対馬藩の幼主を殺さんとして果たさず、藩主の家臣に追われて勝本浦に逃げてきたが、家臣達も之を追ってきた。宗弥八郎詮方なく三光寺の堂中にかくれた、その近く井戸水を汲んでいた女がいた、弥八郎はこの女に自分達がこの堂の中にいる事を言ってはならぬと固く口止めしていたが、やがて追人来たり水汲み女に問う、女は何も言わずにお寺の方を指さしたので、追人の武士達は堂を取り巻いて弥八郎を捕らえんとしたが、他の徒卒と共に半弓を以て之に抵抗したので、近付く事ができず、仕方なくこの堂に火をつけた。
弥八郎堂より出て逃げんとするところを、佐々木助兵衛という武士に打ち取られた、そして堂の傍に葬ったが、その霊魂大に崇るとあり、勝本浦民は宗弥八郎を雪浦宗晴居士と謚し、二従を古岩長松、月照浄心と謚して毎年之を供養したという。自分の若い頃城山西の登り口より約三〇米道路の東側に、エヘン松と呼ばれていた松の古木があった、近年松食い虫のため枯れてなくなったが、この前を通る時には必ずエヘンと咳払いして通らないと祟られると教えられ、怖々エヘンと言って通っていた。今日そんな事を言って通る人もなく、供養する人もほとんどいない。この近くに宗弥八郎の墓らしい物はないかと探したが、それらしいものも見当たらなかった。
壱岐名勝図誌に、透海院雲浦宗晴大居士と記せし霊牌あり、寛文年中(一六六一ー一六七三)三光寺が城山の地から、今の能満寺(前の三光寺)の地に遷る時に、霊牌(位牌)も今の地に移す云々とある。
この事について対馬島史には、弘治三年(一五五七)丁巳十月、津奈弥八郎調親、山本右馬允康範と共に叛を謀る、義調之を察して責めしかば、二人恐れて筑前(博多)に走る、調親は将盛の異母弟にして、康範はその舅なりと記す。永禄二年(一五五九)巳末調親康範西海の賊船と船越浦(小船越)を侵す、二位郡代仁位豊前守盛家、小田党の士と共に之を迎え戦い、桜野九郎兵衛等の戦死者を出し、遂に之を破り賊船は遁走する、義調計を以て二人を壱岐風本浦にて誅すとある。津奈弥八郎は対馬宗家第十四代将盛の異母弟であり、宗弥八郎を名乗っていたものであり、前者と同一人物である事に間違いはないが、対馬島史が年代も明記されて正しいと思う。
津奈弥八郎は一応は筑前に逃れ、二年後に船越浦を侵し二位郡代に追われて、壱岐勝本浦に逃げ来たり、城山の麓にて打たれたと解すべきである。この説壱岐名勝図誌完成時の今より約一三〇年前、霊牌が三光寺にあった事から、又対馬島史とも一致している事から考え、史的事実であった事が判る。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】