勝本浦郷土史23
皇大神宮(川尻)
川尻の毘沙門堂の右道路を隔てて、皇天神宮が昭和の中頃まであった。
由緒等については、文久元年(一八六一)刊行の壱岐名勝図誌にも社名がないところから、今より一三〇年以後に建立された神社である。二間に二間の小社であったが、石の鳥居もあったし、毎年の例祭には境内に相撲等も催され、出店等もあって賑わっていたが、終戦後宮司も本宮の人で亡くなられ、留守番がおられたが、台風のため鳥居も倒れ、留守番も亡くなられて、社殿も壊され社地も売却されて、今は昔の面影はない。明治初年勝本小学校創始時代は、皇大神宮を分舎として使用された事が記されている。
毘沙門天
毘沙門天は有名な七福神の中の一人である、いつ頃創建されたか不明であるが、本尊は毘沙門天が、アマンジャクメを踏んでいる像である。以前は小堂であったが、公民館の必要に迫られ、町の補助を得て昭和四六年七月に増改築して、田間川尻の公民館に併用されている。例祭は旧八月一日とされている、祭日には田間川尻公民館主催により、小神楽が奉納される。
毘沙門天のお祭りには、誰よりも子供の最も楽しみの行事でもある。背の祭りには両町の小学生以上の子供は、堂内に一緒に泊まるのである。そして夕食等を騒ぎながら食する、当日は子供等は大勢で楕円形の浅い器に御幣を立て、御神酒を供えて、大勢で御幣を振って、舞いこんだ舞いこんだ、毘沙門天が舞いこんだと大声で叫んで玄関より入る。家ではお守り札と御神酒を戴いて、お賽銭をやるのである。
昔は船にて出稼ぎの山口県三見の羽魚船、勝本の羽魚船四、五〇隻にも廻りお賽銭稼ぎをしていた事を記憶しているが、近年は田間川尻の地元全部と、近隣の有志の家を回るだけである。
神明宮
旧勝本幼稚園の下に、現在原田酒店の稲荷神社があるが、その場所に明治の終わり頃まで、神明宮があった。以前はこの坂は神明宮にちなんで、神明坂と呼ばれていた。壱岐名勝図誌に神明宮(在神明坂)祭神、天照皇大神小祠(東向)拝殿梁二間、桁三間、瓦葺、石鳥居、嘉永元年(一八四八)建立、境内従十七間五尺、横七間五尺、周囲三九間と風土記にしるすところなれど、今は僅かになれりとある。
このように当時は社屋も鳥居もあった神社であったが、明治の終わり頃無格神社の祭典に対する規制のためか、明治四五年四月廃社して、御神体を聖母宮相殿に合祀した。その後は聖母宮において、黒瀬町主催による例祭が神楽を奉納して行われている。古老の話では、御神体と聖母宮に還した後、石の鳥居は城山の稲荷社し移し、建立されたと聞いたので調べたところ、城山の稲荷神社の石鳥居は、嘉永元年八月黒瀬奉献の刻字があることから、神明宮に在った島居である事が裏付けされた。
然し鳥居の石額は、造り替えられたものであろう。
塩谷稲荷大明神
稲荷信仰は奈良時代の末期、中国からの帰化人奏氏により、特に京都伏見の稲荷神社を奏氏が創建したのが、和銅四年(七一三)に農業の神として祭ったとされている。稲荷は実は稲生りから転じたものである、時代は変わって今日では、農業だけの神でなく、漁業商業あらゆる商売繁昌の神として、広く神格化して祭られている。塩谷の稲荷大明神は、いつ頃から祭祀されたか不明であるが、大正十五年塩谷の青年会場が建設されている事から、稲荷大明神も厄神と併祀して、会場の中に鎮座されたものである。
塩谷の世帯数が増えて、会場が狭くなり隣接地に公民館が新設されたため、現在では稲荷神社としてのみ専用されている。
例祭は大谷神社宮司によって、例年旧暦二月二〇日に行われている。
城山稲荷神社
天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、朝鮮出兵の本営を肥前名護屋(佐賀県)に定めて築城せしめ、同年九月には松浦鎮信に命じて、壱岐島の北西部の朝鮮を睨む、風本の城山の山頂に城を築かしめた。
その城壁の内側に稲荷神社がある。記録によると文禄元年(一五九二)平田正恒武末城内に稲荷神社を勧請すとあり、城代の指示により波高い対馬海峡、朝鮮海峡を渡る、朝鮮遠征軍の海上安全と戦勝を祈念する為に、武末城の築城後の文禄元年建立されたものであるとされている。
慶長三年(一五九八)遠征軍は、秀吉の遺言により引揚げ武末域もその後城番もいなくなり荒れたが、この稲荷神社は勝本浦民の信仰の対象となって、漁民によって長い間祭り続けられてきたのである。
以前の事はよく判らないが、私の知る稲荷神社は、二間に一間半位の木造造りであったが、昭和の初期に火災により消失した。終戦後暫く露天にて祭りは行われていたが、講中にて防火構造にて、天井のない囲いがなされていたが、昭和四一年二月二八日、(旧二月九日)講中にて寄附によって、軒下ブロック積モルタル塗の防火構造の拝殿が造営された。
以前は黒瀬琴平の世話人によって講がつくられ、浦中の寄附によって、お祭りをしていたが、近年では西部の有志の人も多く講に加入して、月々の積金を貯えて、不足分は漁業組合の補助によって、毎年旧二月の初午を祭日として、大谷天社宮司が祭司となって、神楽を奉納して、海上安全と大漁祈願して例祭を行っている。
竜神社(志賀神社併祠)
志賀神社の相殿に、出雲大社より御神体をお受けして、龍神社を奉額したとある、海の災難、火災、開運の神とされている。神迎報賽ともいわれ昔は十月は神無月ともいわれている。以前は九月二九日をお出船祭りといい、また総神渡しといっていた。これに対し十月三〇日は、お入船祭りといって、門口に御神燈を吊るして迎えた時代もあった、この意味は古くから、この月は全国の神々が出雲に集って縁結びの相談をされるという信仰から、この月を神無月といい、出雲だけが神有月といわれている。出雲からお帰りになった日を、神迎祭りとして一年の願成就が行われ、特にこの日は「すなどりの舞」を舞って、冬期の海上安全を祈る。以前は聖母神社にて、大神楽が奉納されていたが、現在では志賀神社において、沖世話人の主催によって、祭典は行われている。
峰山金比羅神社
天ヶ原より東に登った所に、海上一望の下に、勝本港を見渡せる山がある。
その山頂に烽山金比羅神社がある、その昔鯨組が盛んな頃、この山頂に見張所がおかれ、鯨を発見すると、烽を上げて知らしたので、烽山というとされている。山口麻太郎翁は壱岐国史に、地勢や烽山の名称から、烽(ひ)のおかれたのは烽(ひ)山(やま)ではなかろうかと説かれている。防人の地にしても烽の地にしても、どこにおかれていたと確証が無いから、こうした説が出てくる事は当然であろう。塩谷、東触、仲触一帯の信仰深い方々によって、明治二九年九月当社は建立されたが、新築であったか改築であったか、建立の起源は不明である。社殿に多く奉納されている絵馬や写真には、羽魚網イワン網その他新造船の進水写真が多いところから、東仲触や地域的に海辺に近く、漁業を兼業している人が比較的多く、それに塩谷部落も仲触であることから、信仰の対象としたのである。兎に角金比羅神社は、漁業の守り神として漁民の信仰の高い神社である。昭和五一年十一月三〇日八〇年経て、社殿が老朽化したので、講中始め一般の寄附によって再建された。
例祭は十月九日となっている。
荒神社(琴平)
壱岐名勝図誌に荒神社、加賀里屋、小祠北向、瓦葺上屋を建つ、境内竪一丈五尺、横一丈とある。石址である、琴平町は昔町名を荒神町とも称した時代があった。荒神社に由来したものである。
琴平町で管理されているが、以前は毎年祭典が行われていたが、近年は毎年例祭は行われていない、昔は上屋のない石址であったようである。
池廼神社(田の中)
壱岐名勝図誌に次の如く記されている。池廼神社(在田の中町小址寅卯向)川神(在田の中弥六川)石址丑向とある、池廼神社は田の中入り口の右にあるが川神は調査したが不明であった、昔田の中奥の扇屋旅館の前に井戸があって、石址があったり勝本では古くより井戸を川と呼んでいたからこの井戸を祀る川神ではなかろうか、池廼神社の例祭は十月二九日行われている。
その他稲荷、皇大神、厄神
その他築出には厄神址、新町に皇大神址、由緒ある神址もあるが省略する。その他稲荷址も家内安全、商売繁昌を祈念して、個人の管理で建立祭祀されているところもある。
又各神社にはほとんど厄神址、稲荷神址が併神されている神社がほとんどある。何処の神址も部落にて、それぞれ管理祭祀されているようである。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】