天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史22

勝本浦郷土史22

図誌に志賀大明神在志賀山、祭神三少童神、御殿辰向、去本社南三町、拝殿梁九尺、桁二間、瓦葺、境内従三一間、横二六間、周囲四百二四間、当社は始め社なし、(始めは社なしとあるから、御殿造立前は祠があったものと考えられる)万治二年(一六五九)巳亥三月八日造立する所なりと記されてある。今より約三三五年前頃である。延宝七年(一六七九)再建の記録あり、周囲四百二四間とは、志賀山全体の周囲の事であろう、壱岐神社明細帳には、可須村坂本触志賀神社、但し式外無氏子、社殿、桁二間、梁二間、祭神上津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神、木鏡御鏡社地一畝七歩、(中略)造営民費とある。無氏子とあるが幾度か造営されているので、敬仰する氏子もあったものと思われる。
 綿津見神とは海の神の事である、海の神を綿津見というのは、ワタとは渡の事で、海上を往来するための名、ツミとはそうした霊力の持ち主の意味である。要するに航海守護の神という事である。
志賀神社の石の鳥居は、天保十三年六月の刻字がある、西暦(一八四二)今より約一五〇年前である。志賀神社の祭典は新暦八月八日、鹿の下三町にて行われているが、厄神社は旧四月十七日に行われている。併神の龍神社については別記する。現在では鹿の下三町が、氏子となって、毎年の祭典も滞りなく行われている。私の子供の頃は祭典も参詣人も多く、多くの出店等もあって賑わっていたが、近年は参拝する人も少なくなった。
 昭和四八年鹿の下三町公民館に併用する事になり、町の補助と一般の浄財によって増築された。
 同地に稲荷小祠が辰向きに建立されている。


 

厳島神社(辨天さん)
 仲折の突端にある、地元の人は普通お辨天さんと呼んでいる。壱岐名勝図氏には辨在天祠、在裙崎南向、梁九尺桁二間、瓦葺とあり、壱岐郡神社明細帳には、可須村勝本鎮座、厳島神社、但し式外無氏子、社殿桁二間、梁九尺、祭神市杵嶋姫命、木鏡、但し勧請年月不詳、社地一畝、(三〇坪)宸翰勅額無之造営民費とある。いつ頃建立されたか不明であるが、昭和十四年十月炭火の不始末から焼失したが、その後直ちに再建された。正面の石の鳥居は文化十三年(一八一六)今より約一八〇年前、原田七之助献納の刻字がある。原田七之助は正村蔦の中興の祖で、初代原田元右衛門の父である。祭日は旧暦六月六日である、昭和の中頃までは祭日には、多くの出店等が並んで参拝者も多く賑わっていたが、近年お祭りも淋しくなり、出店もなくなり参拝者も少なくなった。境内左側には稲荷小祠がある。

八坂神社(祇園祭り)
 祇園祭りは多くの地方で行われている祭り行事である。勝本の祇園祭りは旧六月十五日、聖母神社の境内の一隅にある、八坂神社で行われる。祇園祭りの起こりは、明歴元年(一六五五)より翌年にかけて、壱岐に疫病流行して、特に芦辺清、可須浦の農漁民の半数死亡する故に、壱岐の社家勝本に集まりて、悪疫退散の祈禱をなすと記される。
 寛文十三年(一六七三)にも天然痘が大流行した事がさ記されている。
 壱岐郷土史に天然痘流行激甚なりしは、統計の存するものなしと雖も、当時予防隔離の行われざると、種痘の発見なきとにより、少幼者は殆ど之に犯されたるにあらざるか、当時各村とも祇園神社の勧請せられたるは、当時の疱瘡終息の祈念に依れるものなりというに徴しても、その一端を推知すべきが如しとある。
 京都でも祇園祭りの事を祇園御霊会と称している、御霊会とは人間の生活に様々な災厄をもたらす、荒々しい霊魂とされている。多くはこの世に怨念を残して、不慮の死を遂げた人達の霊が、この世に残り病気や災厄が起こるのは、これ等の霊が発動するからだと考えられ、これを慰め鎮める祭りを行うのがこの御霊会である。
 万物の霊長と自ら自惚れている人間も、こうした面については非常に弱くなるものである。
筆者は、こうした事には横着で信じない方であるが、世の中には割り切れない不思議な事が、多くある事を肯定せざるを得ない。勝本漁民が祇園祭り日を、沖止めにして出漁しないのは。こうした御霊を鎮め、お祭りしてそれに触れないようにするためである。
 以前は祇園祭りには、男の子は槍、女の子には長刀を木片にて造ったものを買求めて、お参りしていたが、近年はそうした事も見られない。
 勝本の祇園祭りも、終戦前まで数多くの店が島外からも来て賑わっていたが、近年にお祭りもさびれて行く感がする。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社