天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史20

勝本浦郷土史20

英国船勝本に入港測量する

 文久一年(一八一八)八月一日、英国船が測量のため、勝本港に入港しているが、これに対する記録が、壱岐国史に記されているが、当時浦民も驚いたであろう。

 「神奈県より長崎、箱館への海路は暗礁等多く、是迄度々破船有之、難儀に候由にて、今度英国より測量の儀申立、人命にも拘り候儀に付、御差許に相成り且つ、御国に於いても追々大船出来、航海致候故、巨細測量不行届候、而は差支え可申候間、右英国軍艦之、外国奉行御軍艦奉行御目付、支配向之有共、為乗組員一同、測量為致、追而得ず出来之上は、夫々御渡可相成候、右就而場所に寄り、上陸も致し測量は勿論、食物等為積入候儀も可有之、其節は乗船之役人より、申談次第、惣面不都合之儀、無之様可被、取計候事。」と事前に上より通達がなされていた。

 日本近海には、航路に暗礁が多いために、英国の船舶の遭難が多かったのであろう。船舶の航海を安全にするため、海図を作るために、測量の申し出が英国よりあっているので、海図が出来た時は、日本側にも渡すといっているので、食糧等の積入れ又は、場合によっては上陸する事もあるので、不都合のないようにとの、通達が上よりなされていたので、勝本浦民もこの異国船の測量にも、いくらか安心して対応した。

 むろん海図を作るための測量は、勝本だけでなく、日本の航路全域であった。異国船の相次ぐ渡来には、太平の夢が破られて、島民を一大恐怖におとしいれた事は推測できる、黒船は名の通り、船体を檣も黒色に塗装され、不気味なものであった。そうした恐怖の最中に、英国は東洋の多事ならんとするを見て、日本海に根拠地を得んとして、壱岐、対馬、五島の換地を平戸藩主に申しこんだとの風評があり、又露西亜は、英国に機先を制して、文久元年(一八六一)二月に、軍艦を以て、対馬の尾崎浦に兵を上陸せしめた事もあって、風評はたちまちにして対馬より、壱岐島民に伝わった事は当然であった。

 こうした幕末の騒然たる中に、英国船が勝本港に了解を得て、対処したとはいえ、浦民の心中は騒然たるものがあったであろう。

 今日の兵器と比較できない程、貧弱な兵器であるが、当時の日本の兵器は、こんなものであったのである。

 

第八章 神社及び寺堂

第一節 神社

聖母宮

 聖母宮はこれまでいろいろな名称で呼称された、聖母宮、聖母神社香椎、聖母大明神、聖母大菩薩、聖母廟と称された時代もあった。

 創建は神功皇后、朝鮮討伐の際の行宮の地勝本に、五間四方の御殿に神鏡を奉納して神功皇后を奉祀した。

 養老元年(七一七)勅によりて神殿建立、天平宝字五年(七六一)詔によりて神殿を再興し、御神体神鏡を安置したと香椎村郷土史に記してあるが、他説には養老四年(七二〇)九月に、勅使を筑前長門壱岐の聖母廟に遣わして、異賊退治の祈願をした。それによって養老五年(七二一)壱岐州風本浦に聖母宮建立とある。又神亀六年(七二四)聖母宮造り替えの記録もあるが、諸説一致しないようである。

 その後における造営の記録は途絶えているが、壱岐国神社誌には次のように記されている。

 一、大永六年(一五二六)内秘殿浜床造替、波多壱岐守源朝臣盛公在判。

 一、慶長十七年(一六一二)拝殿造替、松浦式部郷法印宗静公

 源三郎源朝臣情公同豊後守借実公在判。

 一、元和六年(一六二〇)宝殿造替、松浦肥前守源朝臣隆信公同豊後守信実公。(棟札現存)

 一、明暦四年(一六五八)宝殿造替、松浦肥前守源朝臣鎮信公在判、(棟札現存)

 一、宝永元年(一七〇四)拝殿造営、従五位下松浦壱岐守源朝臣棟公在判、(棟札現存)

 一、宝暦二年(一七五二)宝殿造替、松浦肥前守源朝臣誠信公 在判。(棟札現存)

 一、明和三年(一七六六)拝殿造替、松浦肥前守源朝臣誠信公 在判。(棟札現存)

 

 鯨組四代土肥市兵衛が、聖母宮の本殿を総欅で造営寄進した記録があるが、明和三年(一七六六)拝殿造替と同一のようである、 明和四年には本浦のお茶屋屋敷に大邸宅を建てた時と同時頃で、 土肥鯨組の最も盛んな頃である。現在の聖母宮の柱上り框や板等を調べたところ、欅が用いられている事から、現在の拝殿は明和三年に造り替えられたものが、現存している事となる、今より二二五年前である。

 その間屋根の銅板葺替工事は、再三行われているのである。

 文久三年(一八六一)後藤正恒編纂の、壱岐名勝図誌には左如く誌されている。

 祭神気長足姫尊、(神功皇后)足仲彦尊、(仲蓑天皇)誉田別尊、(応仁天皇)瑞嚴西向梁一丈三寸、桁行一丈六尺柿葺、三方飛着付、広二尺九寸五分。向拝六尺六寸、祝詞殿梁九尺、桁行一丈一 尺一寸瓦葺。

 西門、表門なり、梁六尺府八尺瓦葺。

 南門、梁五尺五寸、桁六尺四寸、瓦葺。

 勝本町郷土史には次のように記されている。

 本殿流れ造り三軒社、桁行一丈五尺五寸四分、梁行一丈二尺五分。

 幣殿平屋造り、桁行一丈二尺三寸、梁行九尺五寸。

 拝殿、本棟造り、桁行三丈一尺七寸五分、梁行一丈八尺九寸。

 境内 社地(一反十二歩)約三三六坪。

 壱岐名勝図誌には祇園祠、(在境内)疱瘡神、(在境内)

 稲荷祠、(在境内)庚申 (各相殿宝殿の展に鎮座。天神祠、(在境内拝殿乾)

 明治九年村社に列せられる。

 明治四五年四月、前黒瀬神明坂にあった神明神社合祀される。

 大正五年十月十三日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

 

聖母宮の鳥居

 聖母宮の鳥居は延宝四年(一六七八)四月二一日、平戸藩主に よって寄進され、享保十一年(一七二六)崩壊し、九月二三日修復されたが、平戸藩主は再度天明七年(一七八七)七月十日、再建寄進したという。現在の鳥居は天明の鳥居と記されたものもあるが、調査の結果現在の鳥居は、明治二四年旧八月吉日建立の刻字あり、お仮殿の鳥居も明治二四年旧八月吉日と記してある。

 

加藤清正の築塀

 聖母宮の周囲の石垣の築塀については、社説によれば天正二〇年(一五九二)今より四〇〇年前、加藤清正が朝鮮出兵の途上、風待ちのため滞留中を利用して、聖母宮の周囲の石塀を東西二八間、南北十六間余りの石塀を築造して、門の寄進については、社伝によれば、表門(西門)は加藤清正の造営寄進せしもので、門柱には清正の家紋蛇の目が刻まれていたが、明和五年(一七六九)勝本の富豪、土肥市兵衛が表門改築の際、土肥家の家紋蔦に改められたという。又裏門は肥前守鍋島氏の寄進するもので、抱き茗荷の紋が刻まれて、これだけは改刻を免れて今日に及んでいるという。石塀の正面(西側)は、近年取壊されて玉垣に造り替えられ、神社らしく道路から社内が見渡されるようになった。

 

勝本に神職を置く(壱岐郷土史)

 壱岐郷土史には次の如く記してある。勝本に神職を置くとして、寛永四年(一六二七)国主命じて、「壱岐神社頭梁吉野氏をして勝本に居らしむ。」勝本は対馬朝鮮及び九州中国地方との交通の要津たれば、に神職を居らしむるの必要なる当時の状態としては免れざりし所ならん。吉野氏の事歴由来古く累葉祭祀の事に任じ、殊に文禄慶長の役に従軍者を出して、ますますその家名を掲げたれば、事のに及べるものなるべしとある。又神職棟梁吉野末秋この役(秀吉の朝鮮侵攻)七年間、松浦氏に属して従軍し、武運長久勝利の祈念に従う、文禄二年記述の従軍日記は、その全文を三光語録考鑑巻五に収録せり、凱旋の後百石の賞賜あらんとせしを、辞して子孫永く壱岐国惣大宮司業社家支配たらんことを請いて、之を許されりとある。

 

聖母宮の宝物と文化財

 宝物は多くあるが、県の文化財に指定されている茶壷が有名である、壱岐名勝図誌には、朝鮮焼壷と記載されているが、古唐津飯洞甕窯焼系ともいわれている、その他聖母宮の文化財については、文化財の項に記しているので省略する。

 

伝説(聖母宮神輿)

聖母宮の神輿は昔より二墓あり、一の神輿は毎年可須村から四人の擔ぎ人が出され、二の神輿は半域村百次郎、中道物部、鯨状の三村から四人の擔ぎ人を出したという。そして次の年は初山村から四人、三年目は中の郷(志原村)国分諸吉の三村から四人、四年目は長嶺村から三人と、布気立石から一人計四人を出して擔いだという。このように二の神輿は壱岐国中の村から擔がれるのが習慣だったので、国輿(壱岐国)郡輿(壱岐郡)とも呼ばれていたという。

(勝本口頭伝承より)




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社