天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史15

勝本浦郷土史15

勝本朝鮮出兵の兵站地となる

 第一陣の主将小西行長は、天正二〇年(文禄元年一五九二)三月上旬、名護屋を出発して、壱岐風本(勝本)に向かった。行長は松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前等の諸氏と、風本で落ち合い、船揃を完了、三月十二日風本を出港して、対馬の府中(厳原)に向かった。同日府中へ上陸して、宗義智軍と合流した。ついで三月二三日、行長は船団を対馬の東海岸にそって、木浦港に回航させ、行長自身は、陸路で豊崎に向かった。そして四月十二日午前八時、七百余隻の軍船に、第一軍の兵一万八千七百人を分乗して、釜山を目指して船出した。第二軍の主将加藤清正は、二万二千八百人の兵を率いて、三月二三日名護屋を立ち、壱岐勝本に向かった。壱岐勝本を経て、対馬に上陸した第二軍は、小西行長の第一軍の報告を待ちうけていたが、第一軍の上陸成功の知らせを受けて、四月十七日釜山に上陸している。第二軍の壱岐上陸は、他の諸将の行程から見て、名護屋進発の三月二三日であろうと思われる。

 そして風本上陸後、かなりの日を風待ちのために費やしたものと思われる。

 この風待ちの間に、加藤清正は、風本の聖母神社の石塀と、神門を寄進したと伝えられている。この構築には、朝鮮渡海の風待ち中の兵士が、使われたという。この石塀は、聖母神社の境内を取巻くもので、「壱岐名勝図誌」によると、石築地東西三〇間、南北十八間二尺余、周囲壱町三〇間、高さ一間、天正二〇年四月加藤主計頭清正、朝鮮陣頭逆風逗留之時、社地の巡り海辺に、石垣を築造云々(壱岐名勝図誌下一二七一)とある。

 天正二〇年三月下旬までに、第三軍から第七軍までの諸将が、名護屋を出発して、壱岐風本に向かった。第八軍は四月上旬に名護屋を立ち、風本より府中を経て、五月二日釜山に着陸している。そして第九軍の細川忠興、羽柴秀勝の一万一千五百人が、四月二三日勝本に着き、陣営を張っている。いわゆる壱岐在陣軍である。天正二〇年(文禄元年一五九二)四月二一日、慶州城攻略(第二軍加藤清正)の朗報をうけた。

 秀吉は早速彼等を表彰すると共に、勝本で待機中の諸将一万二千二百五〇人を進攻、地域の後方警備のため、急拠朝鮮に渡らしめた。

 

朝鮮における戦況

 秀吉は大望を抱いて大陸に侵攻した。そのためには、関白の位も甥に譲り、自ら壱岐に渡り、朝鮮にも出陣して、陣頭指揮し必勝を信じて、名護屋城を構築し、風本城を城山に築いて、秀吉が自ら陣頭に立って、全軍を統率しようとしたが、当初の計画通り実行出来ず、ために従軍の将士に威望届かず、長陣の間、諸将互に融和せず、それに加えて、明国との交渉に不手際があった事等が、この出兵を不首尾にした原因となった。

 殊にわが陸軍の進撃に対して、水軍が朝鮮の水軍に圧迫されて、北上する事が出来なかった。こうした事から、その状況を察知して、加藤清正はまず明国との交渉に当たり、小西行長と沈惟敬との間に、和議が進出した。

 即ち朝鮮に対する、日本と明国両国の協定がなり、更に和議七ヶ条の交渉妥結を以て、我が軍は文禄二年(一五九三)四月、京城への撤兵を断行し、南鮮に向かって、諸将相次いで南下した。然るに沈惟敬は、この和議を偽って明に報じ、而も朝鮮半島南岸に対する協定をも無視して、ただ冊封使として、秀吉を日本国王に封ずとなし、その国書に「封爾為日本国王」という句を使用したために、秀吉大いに怒って、直ちに再度の外征を命じた。

 かくて慶長二年(一五九七)正月、再び加藤清正、小西行長の先烽、名護屋発して、朝鮮に渡り、諸将相次いで兵を出し、まず先の協定地域の確保を第一として、夏秋の候を期して北上しようとし、釜山を中心として、半島南岸に、連珠の如く新城を築いた。然るに明軍の大軍急ぎ南下して、之を蔚山、泗川に迎え撃ちて、いまだ北上するに至らなかった折に、秀吉薨じ、その遺言によって、諸将皆引揚げ、前後七ヶ年に及ぶ外征も、ここに終末を見たのである。

 

秀吉壱岐の軍糧を調査させる

 朝鮮出兵の第一陣に属する、平戸城主松浦鎮信は、壱岐島の領主でもあった。領主の朝鮮進攻は、当然の如く、壱岐在島の士卒の出陣にもつながった。壱岐城代として、亀岡城(郷ノ浦)にいた、松浦信実を始め、日高甲斐守喜らの三百余人が、松浦鎮信に従い、朝鮮に出陣している。

 壱岐郡の総大将として、朝鮮に渡った松浦信実は、朝鮮上陸後病気にかかり、養生のため平戸に帰っている。しかし病気が治った後も、再び朝鮮に渡らなかった。そのため憶病者として、鎮信に嫌われて、平戸の龍泉寺に謹慎の身となった。この役に秀吉は、文禄二年(一五九二)四月、壱岐で徴発可能な船と水夫の数を調査させた。もちろん朝鮮渡海軍用の食糧を、釜山に送るためのものであった。熊谷半次郎という秀吉の部将が、壱岐に遣され調査を担当した。その結果、壱岐在島の船と水夫で、千三百五〇石の食糧を、輸送が可能である事が、秀吉に報告された。秀吉はこの報告をもとに、文禄二年七月十日、壱岐在番中の小川佐渡守と本多因幡守に次の権限を与えた。

一、壱岐の漁士、商人の私有船を、軍船として徴発する権限。

一、従来用意してある、輸送船の航海指揮権。

 同時に壱岐島内で、百張分の弓の材料となる竹等を集め、朝鮮に送る事。斯うして朝鮮の役を支える、兵站基地となった壱岐の島では、老人と女、幼児を除く、総ての男が労働力として使われた。十五歳以上、六〇歳以下の男はすべて軍夫として駆り出された。これは武家、神官、僧侶、百姓、漁士、町民にいたるすべての階層の男が対象となった。漁士の一部は水先案内人として(一説には対馬、壱岐の楫師五〇人があつめられたという)。

 

関白秀次壱岐の狼藉を取締る

 天正二〇年(文禄元年一五九一)正月、関白豊臣秀次は、従軍、士卒、百姓、人夫に関する、領布条例を出し、国内の取締りを厳重にした。

 引続き秀次は諸国に命令を下し、すべての宿駅および軍兵の集合地の百姓に対して、耕作のため全力をそそぐ事を命じた。

 また軍兵には、掠奪と暴行を厳に禁じた。

 特に一文の金なりとも掠奪せる者は、首を斬る事を布告している。

 いわゆる一文斬りの宣告である。また秀吉も諸候への動員令を発すると同時に、壱岐国で軍規取り締りを命じた。

 禁制 壱岐国

 一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉事。

 一、放火事。

 一、対地下人百姓等非文之儀申懸事。

 右条々堅令停止、若違犯之輩於在、之者忽可被處嚴科者也

 天正二〇年 太閣朱印

とあり。秀吉は壱岐での、乱暴狼藉、放火、分不相応な要求、不合理な要求等を厳しく禁止した。しかしこうした中央の思慮とはうらはらに、太閣の命令の上意下達が十分でなかったのか、若い者の戦いに行く心理状態であったか、諸国寄せ集めの軍兵は、壱岐の至る所で乱暴狼藉をほしいままにした。

 中でも中国地方の悪徒が、壱岐に立ち寄った。諸国の軍夫や兵士と一緒になって、島内を徘徊して家に押し入り、婦女子に暴行し、金銭を奪う等の乱暴の限りを重ねた。壱岐の人々は集団で押入ってくる悪徒共から身を守るために、田や畑に仮小屋を建てて、多くの人々が寄り集まって共同生活を行った。風本在番の本多因幡守俊正は、これ等悪い武士の取締りに、ほとほと手を焼いており、壱岐の治安は最悪となった。

 この外、神社、仏閣に対する狼藉の多かった事が、勝本町史にも記されているが戦場に出て行く者は、日本人のほとんどが、お守りを身につけて、神仏の扶けを祈願する事は、当時と雖も変わりなかったと思うが、何故にかかる乱暴が神社、仏閣に及んだのか、その判断に迷うのである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社