天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史36

勝本浦郷土史36


イカ立繩とイカ曳繩
昭和三三年三月一二日山口県外海水産試験場の主催で同県漁業視察団が来勝、組合において説明会および懇談会が開催され、青年部も出席した。その席上において山口県で現在行われている漁法が説明され、そのなかから次の二つが勝本でも参考となるので『すなどり』に掲載された。
・立繩漁法 この漁法は山口県でも数個所において実施されている。私のところでは山当てをして道具の下に小礎を付け定置している。漁具は幹糸(ホンキ)が合成の二分六厘で枝糸が二分柄程度のものを使用している。枝の間は三尋で枝が一尋、一繩に五本―七本の枝をつける。これを一隻で五―六繩持ち、自分のよいと思う漁場に投入する。数十分たったら引揚げ、次の漁場に変更する。このような操業を行い、立繩の流し釣りは行なっていない。
・イカ曳繩 イカをエサに曳繩を行なっている。その時期に取れるイカであれば赤イカ、マメイカどちらでもよく両方とも使える。まず、まんなかをママコの下まで包丁を入れて開く。ワタを取り除き、身の部分をななめに切りとる。頭を割り、まんなか五本の手を残して両側の長手も切り取る。釣針は二本で、上釣は潮吹きにかけ、下約は手のつけ根にかける。それからママコの先の尖ったところを「イカ止め」でとめ、鉛はつけない。このようにして曳ぐと完全に泳ぎ、ほとんど回ることもない。

魚はどうして餌をみつけるか
魚は一体どのようにして餌を見つけて食うのであろう。これがわかれば魚を釣る大きな「カギ」となるのである。
それには、次の四つのことが考えられる。
一、音を聞く 音を出す魚やエビがいることは、よく知られている。また魚が泳いだりはねたりするときには、人間の耳に聞こえる音ばかりでなく、聞こえない音(不可聴音)も出していると考えられる。
水中では超音波は一定の方向にすすみ、その速さは、一秒間に一五〇〇㍍で、空気中の四倍以上の速さをもち、その衰え方も少ないので遠いところでも早く届く。それで超音波は魚群探知機に利用されている。この音は、魚が遠いところから餌をさがし出すのに一番役立つものと思われる。そして魚にとって、好きな音と嫌いな音があるはずであるから、それを利用することである。米国の報告では、イルカは自ら超音波を出して、その反射してかえる時間により、瞬間的に相手との距離を知って行動するという。陸上動物でもコーモリが同じような能力があるといわれている。
二、眼で見る 魚は餌魚がいることを、その種類、大きさ、色、あるいはその動き方を見て知り食うのである。しかし魚の目は近眼であるから、その見える範囲はあまり広くはないと思われる。
三、臭いや味による 魚が臭いや味を感じてひきつけられることは確かである。しかし臭いや味は海水の中では短い距離しかとどかないと思われる。魚をつるときは、魚は餌の臭いや味によってその良否を見分けるようである。例えば、マグロ延繩にかかった魚が良くサメに食われるが、味の良い魚ほどサメ食いが多いことからそれがわかる。内湾や川の魚は臭いが特に大切である。
四、魚の超感 魚の感覚は、以上の他にまだ人間にはわかっていないような、もっとすばらしいものがあるかもしれない。例えばビンチョウ(ヒレナガ)は、米国の沿岸から半年も一年もかかって日本の近海まで餌を求めて回遊してくることが、最近になって標識放流の結果でわかった。またサケは川で生まれて直ちに大海にくだり、三年及び四年を経て生まれた川にもどる回帰性のあることは昔から知られている。
このような魚の能力は、どのようなものかまだわかっていないし、魚の種類によってもちがうであろう。いずれにしてもこんな本能的な能力があることは事実である。
以上四つの感覚が組み合わされ、その一部か全部が働いて、魚は餌を求めていると考えられる。(『すなどり』昭和三一年六月号)

船酔い
船に乗ることを職業とするものにとって、ぜひとも克服しなければならないのが船酔いである。船酔いとは乗物の動揺がくり返されるのが原因となって発する不快な症状である(動揺病とも呼ばれる)。個人差が大きく、また慣れると酔わなくなる。そのときの心身の条件が関係し、精神緊張時に起りにくく、満腹、空腹時には起りやすい。
和船時代にあっては、船に酔うということは大変なことであった。当時一番大事な動力源である櫓を押すことができない。気分が悪いからといって、狭い船上で手足をのばして寝ることも不可能である。冬期など、かろうじてトマをかぶって片すみにうずくまるくらいであった。動力船になってからは、カンパンまたはトモの下でゆっくり休息できるようになった。
昔は、船に弱いという理由だけで漁師をやめてタビに出る人が多かった。この船酔いとは妙なもので、「今日は波があるぞ」と考えただけで家にいても酔ったような気分になる。また船酔いのため沖で寝ていても「人港するぞ」と聞いただけでスーと良くなるといったあんばいである。ひどい船酔いのような病気を陸で三日もすると死ぬだろうといわれるくらい、船酔いは辛いものである。しかしこの船酔いも、しばらく船に乗ると馴れて次第に酔わなくなる。
戦時中、海軍では新兵教育の一つとして、はじめて船酔いして吐くと、その嘔吐物を無理にまた飲みこませたという。そうやると新兵に意地が出て、酔わなくなるといわれた。また敵の潜水艦から撃沈されるかも知れないというような緊張状態にあるときは誰も酔わなかったという。だから船酔いはその時の精神状態と大きな関連があるのだろう。

乗り組み・乗り別れ
冬場の海は荒れるし漁場も遠い。延繩漁は船も大きく乗組員も最低六名は必要である。夏場の海は穏かで漁場も比較的近い。春ブリは地でも釣れるし、夏イカ漁は一晩に取れる量もだいたい決っている。このような理由から、冬は少しでも大きい船に大勢乗り組んでブリを釣る。夏は小さい船にそれぞれ分散して乗組員を減らす。毎年、このように時期によって乗り組みの人数をかえた。その方が漁撈効率も良く、年間を通じてムラなく働けて、収入を安定させることができるのである。
一年の大半をブリ漁にかけてきた勝本浦では、冬期のブリ漁の開始に備えて、一〇月一〇日金毘羅神社祭をもって浦中の乗組員を決めた。旧正月の一七日は乗り別れを行い、冬から春の漁に備えるのである。
時代と共に漁具漁法も変遷するのであるが、昔からの長い間の慣習にもとづき、つい最近までこのようなことが行われていたのである。現在では大型船は年間乗り組みであるし、小型船は一人一隻の時代であるからこのような慣習もなくなった。

漁民と酒
昔の漁業は、人の力だけではどうしようもないことがあまりにも多かった。当然、神様の力にすがるより他に方法がなかった。
船を作るにしても、漁をはじめるにしてもいろいろの行事があった。そして大漁、不漁、全て神様のみこころ次第と考えられていた。「安全でありたい」「大漁をしたい」このような願いを聞きとどけてもらうために、神祭りの機会が多かったのである。
よい漁があってうれしいときに船玉様とともに戴く御酒、もろもろの不浄を清める御酒、辛いこと苦しいことを忘れさせ、明日への希望を湧きたたせてくれる御酒など、さまざまである。今日までは不漁続きで飯米にもことかく有様であっても明日一日で数万の富を得るという実例も過去に多い。だから漁業者は夢と希望を酒に託してはめをはずした飲酒が多いのである。

樽入れ
漁は回り合わせというが、漁に出てもなにかと「しあわせが悪く」人並にモノが獲れない時がある。このようなとき、漁をしているしあわせの良い親戚か友達が、漁のふるわない船主方に清酒を持参し、船玉様にあげて後はみんなで戴くのである。これを樽入れと呼ぶ。樽入れをすることによってそのしあわせをおすそわけしてやる。そうすると戴いた方はそのしあわせにあやかり、以後調子が良くなるといわれてきた。

ミゴ釣れ
同居家族または乗組員の嫁さんが妊娠した場合、漁のある船とまったくない船がある。和船時代ならともかく、文明の発達した現在でもこのことはいわれていることである。
このようなとき、漁のある船を「ミゴ釣れ」、漁のない船を「ミゴいたみ」と呼ぶ。「ミゴ釣れ」のときは面白いように漁がある。「ミゴいたみ」のときは、どうしようもないくらいモノが獲れず、宮司さんからお祓いをしてもらったり、船玉様に御神酒をよけいにあげたりする。それでも漁がないと「俺はこんなに漁が下手だったのか」、と嘆くこともしばしばである。時には生活苦におちいる時もある。しかしこのような時に生れた子供は丈夫に育つといわれてきた。

夫婦ゲンカ
昔から、青もの釣りにタブー視されてきたのが夫婦ゲンカであった。普通のケンカは競合(せりあい)というそうで、これだとレクリエーションみたいなもので、時々やってもさしつかえない。しかし「別れる」「切れる」という深刻なケンカはあまりほめたものではない。「春の西風と夫婦ゲンカは夜凪がする」といわれるほどのものであってほしい。
とにかく夫婦ゲンカは漁師の場合、船の操縦にも影響するし気分がムシャクシャしてせっかく魚が食いついても釣り逃がす、おとしてしまうといった調子でいいことなしである。また数人乗り組みで船内(ふなうち)でゴタゴタといい争うのも良くなく、どちらも船玉様が嫌がられるといわれている。

漁民の職業病・神経痛
初めて船に乗って、夏イカ取りやクサビ釣りに行った人の大半が、ひどく疲れ、あとで体の節々が痛いという。船のゆれやがぶるのに耐えようとして、知らず知らずのうちに体力を消耗しているのである。漁民はこれに船上での重労働が重なる。そしてそれは連日連夜のことだから、かなり身体的にも無理をすることになる。
特に和船時代はひどかった。戦前の木挽唄に「木挽きは辛いよ一升飯喰ろて朝から晩まで鋸(のこ)をひく」とある。大きな鋸を一日中ゴッシゴッシとひくのである。腹はへる。腕や腰も痛くなったであろう。漁師とて同じこと、長い時間槽を押さねばならないし、釣具もたぐらねばならなかった。若いときは無理がきくから頑張りもする。このような若いときの無理が積み重なり年をとると、腕がつめる(ズキズキ痛む)足腰が痛むといった神経痛になやむ人が多い。和船時代の就業年令は四四、五歳どまりで、五〇歳ともなれば船の上では老人であった。もちろんワッカシでは労働に耐えられないし、ある限られた人だけが自船の船頭として漁に出たという。
神経痛は難儀であるばかりか損な病気でもあった。切れたとか折れたとかの病気と違い、家人にもハタ目には全くわからないし、うっかりすると怠け者にみられかねない。本人だけが辛いめをみる病気である。
〈胃病〉漁師は、漁の都合もあって食事の時間が一定しない。漁模様によっては空腹を我慢して仕事を続ける場合が多い。終ったとたん、体に良くないと知りつつ腹一杯つめこむのが常である。「仕事が飯食う」のたとえもあるが、一般に昔の人は大食漢であったようだ。「一度にまんじゅうを数十個食べた」、「せんべいを一斗ゾーケ(一斗テボ)一杯食べた」などといった武勇伝がごく普通に伝えられた時代であった。
悪い労働条件に加えて、精神面からくるストレスも胃の悪くなる原因の一つであろう。同じ漁場で操業しても人並みに漁のないとき(しあわせが悪い)、判断のあやまりで不漁になったとき(やりそこない)などなんともいいようのないイライラした頭の痛い気分におそわれる。これを「頭がウツ」といっているが、このように漁師とは胃が悪くなるいろいろの要素を多分に持つ職業ということがいえよう。かくて漁民には胃腸の悪い人が多いのである。

船頭
船頭とは、「ふなのりかしら」「ふなおさ」のことで船長である。そしてワッカシを雇って漁を営む家を、船頭方と呼んだ。
船頭は資本を出して船を造り、乗子を頼んで各種の漁を営むわけであるが、自分も一労働者として舵を握って働くのである。現代風にいえば船長と漁労長を兼ねており、人に負けない良い漁獲をあげて、乗子の「カマド」を見なければならず、責任感の強い人でないとつとまらない。また自分自身も成績がよければ船にかけた(投じた)資金の回収も早くでき、次に備えることもできる。しかしヘまをすれば船の償却の済まないうちに、また代りの船を造らねばならないといったことにもなりかねない。
明治のはじめ頃まで、釣漁の場合ではめいめいの釣取りであって、船の口の分配はなく、船の主人としてトモの座席に座るだけであったといわれる。タイ釣りなどでは、一日中船をねらえる一人の「ネリ」が必要であり、六人の乗組員が各自釣り上げの約四割の魚をネリの分として出したという。だから「ネリ」になる人は乗組員平均の約二〇割の収入になった計算になる。やがて、このめんめん釣りが発展して、ネリは乗組員が交替で担当することになり、漁獲物も「もやい」として乗組員平等に分配し、船頭も船の口を取るようになった。現在の漁民感覚からすれば、いくら漕力を分担してもらう必要があるとはいえ、船などに投じた資金の回収もできない方法などとる筈はないと考えられる。船頭が「ネリ」を兼ねていたのではないだろうか。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社