天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史45

勝本浦郷土史45
 

六三  五  障害児受入れ
平成  二  七  午睡室天井張り替え
    二     園児三六人 二クラス編成
    三     園児四六人 三クラス編成
    四     園児六一人 四五人定員を六〇人定員に復活する四クラス
    五     園児六一人 四クラス編成
    六     園児六〇人 四クラス編成

勝本町産業復興事業所
 産業振興事業所の前身は、勝本産業振興組合と称して、昭和三七年に設立され、昭和四三年に、勝本町産業開発協会と改称して、業者に請負発注のできない小規模の、農地の造成事業、農道の新設改良、農業用水の確保のためのボーリング事業、トラクターによる深耕砕土、ロードグレーダーによる道路の整備、農用機器の普及による機械技術の向上啓蒙等を主としていたが、事業の対応に一時は応じきれず、昭和五〇年六月には、開発協会を発展的に解散して、勝本町産業振興事業所として改組した。
 保有機器としては、トラクター三台、ブルトーザー、ロードグレーダー、四トン及び二トントラック各一台、振動ローラー、マカダムローラー、タイヤローラー、バックホー、タイヤショベル等がある。運営は、町より割安に事業の委託をうけ、二、三名の現場従業員を常置し、経営については、昭和五〇年までは町長が会長として責任者であったが、町長職も近年忙しくなり、昭和五〇年より、理事例として、理事長には助役が責任者となり、農林課長等が事務局となって、之を補佐している。理事には議会代表、農業者代表等、数名からなり、監事には、収入役及び議会より一名、計二名からなっている。

財団法人勝本町開発公社
 勝本町の一般会計、特別会計にも適応し難い、町の開発事業を、管理運営する事業体である。当初、国民宿舎も公営企業として、特別会計にて処理されていたが、毎年続く赤字が好転せず、当初の建築資金の返済にも、町の一般会計より繰り出していた。又、防災工事等、大きな営繕事業も、町の一般会計にて補完せねば、経営はできなかった。
 議会としても、この放漫な運営を、いつまでも続ける事はできず、昭和五六年、経営内容の再検討のため、特別委員会を設置して、県内外の国民宿舎を調査の結果、全国のほとんどの国民宿舎が経営難のため、町営を民営又は、第三セクター方式に切り替えて運営し、かなりの実績を挙げているところが多かった。調査委員会も、調査結果に基づいて、報告書を議長に提出した。(報告書は壱岐島荘の項に記しているので省略する)
 議会としても、町長に、第三セクター方式にすべき事を要請したが、町としても、直ちに職員を整理する事も出来ず、数年間放置されていたが、その後、交流センター、ダム周辺の管理等、新しい事業経営を町自体が経営する事には問題も多く、これ等を統括して、財団法人勝本開発公社を、昭和六一年三月三日設立した。
 設立の経緯については、前述の通りであるが、公社の規約によれば、事業の目的として、水資源の開発及び、港湾総合開発調査に関する事業。観光地の造成、施設の整備及び管理。国民宿舎並びに、保養温泉センターの管理運営、その他の目的達成のために、必要と認められる事業等である。現在実施している事業は、
一、国民宿舎壱岐島荘及び、保養温泉センターの管理運営。
二、総合公園、交流センターの管理運営。
三、壱岐風土記の丘の管理運営である。

壱岐西部開発総合センター
 壱岐西部開発総合センターは、通称勝本文化センターと称されているが、実名は、壱岐西部開発総合センターとして建設されたが、勝本文化センターと呼称した方が親しみがある。当時郷の浦町には、観光会館あり、芦辺町には壱岐島開発総合センターがあって、有効に機能して利用されていたが、勝本町には、九、〇〇〇の人口を有しながら、多くの人を収容出来る集会場がなく、従って多くの人を収容する文化行事は出来なかった。近年、あらゆる施設を完備した勝本町に、文化的理想の集会場の必要性は、町民の心ある者の町に対する期待でもあった。昭和五七年議会に、町長は壱岐のどこにもない、座席付きの総合センター建設の構想を議会に発表し、協力を求めた。議会に於いても、特別委員会を設置して、協力を惜しまなかった。只建設資金について意見もあった。こうした建設工事には、国県の補助が多く期待されなかったが、町にはこうした場合の準備資金が蓄積されていた。それを取り崩す事によって、補足する事が出来るとの説明である。建設場所は、管理に便利な点、教育委員会も役場内に有る事が望ましい点等考えられて、庁舎に隣接して、不足分は整地して確保する事に決した。早速、篠崎設計事務所に設計を委託すると共に、整地事業がなされた。鉄筋コンクリート造り、二階建延面積三、二五四・四二平方米、建築面積二、二八八・九五平方米である。
 町の一大事業であるので、郡外の業者も指名して、昭和五八年九月三〇日に六社による指定入札によって、鉄建倉元建設共同企業体が落札した。価格は五億四、五〇〇万円、全体事業費五億六、二二三万円、内国費補助八、三五九万円、県費補助四、一七五万四、〇円円、町負担四億三、六九六万七、〇〇〇円である。
 斯くして五八年十月五日、工事着工、工事は順調に進み、昭和五九年十一月、見事に開発総合センターは完成した。
 センターは完成したが、役場の駐車場だけでは、駐車場が狭隘で、理事者も議会も、以前から心していたが、結局は庁舎の前面の駐車場を二段構造とする事に決し、五九年十一月、五、〇〇〇万円にて工事に着工、六〇年四月に、現在のような二段構造の駐車場が完成した事によって、上下約八〇台の駐車が可能となった。其の後、センターもあらゆる文化的事業集会所として、広く利用されている。

第五節 勝本消防団
聖母町の腕用手押しポンプについて
 勝本浦の消防組織は、明治二十一年には組織されていた事は判然としているが、それ以前の事は全く不明である。明治二十一年には浦営か部落営の消防組織があったことは間違いないところである。その時購入された腕用ポンプ購入定約書と、その後明治三十八年旧十二月、可須永元領作に、消防ポンプ格納庫一棟一金六十八円にて、建造する見積書が、琴平町篠崎勝氏(泉屋)宅に保存されている。
 製造定約証
一、八人扱消防喞(ポン)筒(プ)一個、長三尺五寸、中二尺四寸、深一尺五寸、但し槻一枚板 無疵、上等相用、同ジクミンドロ赤金製ノ事、同ロクボイスコラレルカ子製ノ事、明治二一年子未求之入、同ズクパイプ四〇尺、二〇尺ヅツ、(ホース二〇尺物二本の事であろう)同筒先、赤金製、筒先より水一五間行(筒先より水の飛ぶ距離)同村町名文字彫刻、ウルシ入、同馬関問屋渡シノ事、代金一円之定。
 前証載之通り、製造定約致候処確実也、然ル調整月限之儀、本年十二月一五日マデ相整、馬関滝安方にて御引渡可申、最其際金一五円清方可致候、残金ノ儀ハ、壱州勝本着誠済之上、皆済方可申候。若細工方に否有之節ハ代金二テ仕調可申上依テ一札差出置候。以上山口県赤間区、王司町、第二〇三番地、本間清之進
 明治三一年十一月一六日
壱岐郡勝本聖母町消防組総代
  大久保 竹三郎
  深水 正貞
  殿川 徳次郎
  絆谷 和三郎
 この腕用ポンプには、聖母町と記され、又、定約証にも勝本聖母町消防組総代とあり、聖母町消防組は、総代の顔ぶれから考えて、浦の消防組でなく、西部の消防組であったと思われる。浦の消防組であれば、組頭の名で契約がなされたであろう。正村は、以前聖母浦と呼ばれていた事もあり、勝本浦が昔、本浦と正村と呼ばれていた事から、西部八町の消防組を、聖母町消防組と呼称していたのであろう。
 明治二七年、公設消防組となり、正村、本浦の二部制に組織された。当時の消防組は、加賀里屋町より仲折町までを一部とし、黒瀬より塩谷までを二部とし、組頭の下に各部長一名、小頭二名、掛長八名、部員九〇名であった。組頭には、代々若宮島の遠見番所の所長に就任され、明治二年遠見番所が烽火司に改称され、その責任者であった、勝屋敷(現中学校校舎の位置に住んでおられた)土肥甚右衛門が、初代組頭に就任されている。その後、明治三一年、腕用ポンプ一台購入、明治四二年、香椎村消防組と改称、四三年腕用ポンプ二台購入、更に昭和五年、腕用ポンプ購入、昭和八年九月八日には、大坂鈴木製作所製、三〇馬力のガソリンボンプ購入、一層の力を発揮した。同ガソリンポンプは、器機一、六五〇円、ホース三五〇円、計二、〇〇〇円で、村費一、二〇〇円、勝本浦よりの寄附金八〇〇円が募集せられた。ガソリ

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社