勝本浦郷土史37
船と金策
漁師にとって、自分の好みに合せて船を造り、思いのままに漁に行くことができるということは、たとえようもない喜びである。しかし漁に乗り出すまで船具、漁具をそろえるにはかなりの資金が必要であり、特に新規の船頭方では(新仕出し)有合せで間に合せることができないから、よけい負担がかかる。
船は住居に比べて単価が高く、おそらく延繩でもするような五、六人乗りの船であれば、たとえ和船であっても、櫓一切、帆大中小三つ、綱、錨など船と備品だけで、ちょっとした家を建てるぐらいの資金が必要だったのではないだろうか。
動力船時代に入ると、船価は一層割高となり負担が増した。大正九年、勝本で初めての動力船「和合丸」が建造されたが(曳繩、坂本熊造氏参照)、機関五馬力、現在の船から考えて約三㌧足らずのものが一九〇〇円かかった。当時としては大金であった。最初のこととて何事もスムーズにいかなかったであろうから、よぶんな経費がかかったと考えられる。昭和一〇年頃、一船頭方が一二馬力(約八㌧)の船を造った。機関は下関に買いにでかけ、一年中古で一五〇〇円、船体が同じく一五〇〇円、合計三〇〇〇円ということである。大正から昭和と時代も進み、機械も船も量産体制が整ったのであろうか、だいぶ安くできるようになったことがわかる。それでも家にくらべると格段に高い。このような大金をかけて船を建造したが、資金はどのようにして捻出していたのであろうか。
漁協で融資を斡旋するまで(昭和三〇年ごろ)は、自分の持ち金か、問屋から、あるいは個人貸しに頼るより方法はなかった。昔から、自己資金で船を建造できた者は二割にみたないといわれてきた。問屋から資金を出してもらえば魚価に影響するであろうし、金貸しを職業とする人から借りれば金利が高かった。金利は月に二分から三分が普通であり、時には五分もあったというから、その返済は生易しいことではなかった(はじめから五分の利子で借りる者はないが、予算が足りなかったときのつなぎ資金として、間に合せに借りる)。いうまでもなく年利にすると二割四分―三割六分、月に五分といえば年六割にもなる。金を貸す人は田舎の人が多く、漁があってシケになると手さげ鞄を持って、集金にまわる姿をよくみかけたものであった。ある金貨しは、会う人毎に「モッチケーよ」「モッチケーよ」と利子や元金を催促する。そこで、誰言うとなく彼のことを「持っちけー〇〇」と名前を下につけて陰で呼んでいた。
船を新造すれば、一年で新造にかかったすべての経費の額を水揚げし、二年間で元をとらないと後の仕事がやりにくい。それほどの意気込みで働かねばならない。船体、機械の整備などが次々とやってくるからで、船の耐用年数も一〇年足らずであり、一〇年もたつと船はお爺さんである。
ちなみに、現在われわれが利用している漁協信用部では、最近まで短期もので年一割二分、近代化資金で五分(もっとも町の利子補給があっている)だから、いかに組織の力が大きくそしてその恩恵に浴しているかわかるであろう。だが、良いことばかりと手放しで喜ぶわけにはいかない。金利が安く資金が借りやすいとなれば、当然過剰投資となりがちで、ひとたび不漁の年が回ってくるとその返済に四苦八苦しなければならない。心して投資すべきであろう。
ワッカシ(乗子)
昔から、船のワッカシは船頭方から頼まれて乗組員となった。雇われたということになるが、主従関係ができたわけではなく、同じ労働者同志として船頭の持ち始に乗り組み漁撈に従事するのである。ただし、乗り組むときに取り決められた期間の約束はある。年間乗り組む者、一時期だけ乗る者とそれぞれの都合によって長い短いはあるが、その期間内は自分勝手な行動は許されないのである。後年動力船時代に入り、機関士として乗り組むとその期間内は絶対である。勝手に休んだりすると、船ごと休船ということになるからである。ワッカシも同じことである。都合があるからと他の船に乗りかえたり、漁のあるときは乗る、ない時は休むといったことでは、船頭だけでなく他の乗組員にも迷惑をかけることになり、乗子として最低の人間とされる。
ワッカシの仕事はわりあい気楽なものであった。「笛吹かず、太鼓叩かず、獅子舞の後足になる気の安さ」のたとえのように、獅子舞では二人のうち後足はただ前につれてはねるだけである。ワッカシも同様で、漁に出るにしても「枕箱」という煙草やちょっとした釣具などを入れた小物入れを一つ下げて行くだけで、船頭方によりかかっていればよい楽なものであった。金策に走り回ることもなく、金利に追われることもなく、漁場などの「かけひき」も心配しなくてすむ。仕事内容としては、船具や漁具作りなどの手伝い、和船では雨降りの「アカ取り」と朝晩の船の見回りである。それに大事なことは新船では潮を回すこと(海水を隅々までよくかけると、船が長持ちする)、特に雨あがりは入念にする必要があった。また船や道具などがよく乾くように、シケ間に手入れをすることも大事であり、年若いワッカシのつとめであった。
日頃なにかとよく働き、気のつくワッカシには、船頭方としてもそれ相応の心づけをしたようである。前途有望の若者と見込めば、嫁の世話をしたり娘を嫁がせる、といった例も多い。昔は、義理人情がこまやかであったから、気の合った船頭とワッカシでは親子あるいは親戚以上のつき合いであった。
しかし、ワッカシの年々かわる船もあった。「うちの船で働かせてやっているのだ」という恩きせがましい態度では長続きもしまい。また大勢のワッカシのなかには独立不能な者もあった。また、一念発起し自分で船を求めたり、新船を造って独立する場合は、たとえ時期半ばであっても前途を祝福されながら、乗合いを離れることを認められた。この場合でも代替人を探すために、あらかじめ船頭方に予告と相談をする必要があった。このほか漁の上手な船頭のもとで数年間修行して独立しようと、心掛ける者もいた。
ワッカシ組合
戦後の一時期、船頭方のいいなりになっている現状を改めワッカシの待遇改善をはかるために、「ワッカシ組合」をつくるべきであるとの声が盛んになった。
この言い分は、船頭が船の口を二口も取るのは多過ぎる、乗子はタダ働き同然だということである。一方船頭方は、なにかと出費が多いから二口はもらわないと引き合わないと主張していた。
勝本の場合、乗子であっても努力と工夫次第では、たとえ中古であろうと小さな船であろうと買求めることができる。自船を持てばその日から船頭であり、小さくても一企業主となって立場が反対になる。ワッカシ組合を作って船頭達と交渉でもしようという気概や才覚の持主であれば、その努力を自分に向ければたやすく船頭になれるのである。
このようなことから賛成する人も少なく、音頭をとる人もなく実現しなかったようである。実現はしなかったが、やはり乗子では収入が少なくて馬鹿らしい、自船でないと生活の安定もおぼつかないとの考えがつよく、それに建造資金など容易に借りられるようになったことも手伝って、昭和四〇年代の造船ブームがおこり、一人一船の時代となったのである。
敬神崇祖
神を敬い祖先を崇めることは、日本人としてごく自然のことであろう。漁師は船の神様である船玉様(船大工が祭る船玉様、氏神様である聖母神社、航海の安全を守る金毘羅神社などの祭神を合せ、一般にごく身近にある神様を船玉様と考えている)を敬い、自分の祖先も崇める。そしてこの祖先崇拝は神社を敬う以上であるかもしれない。船板一枚下は地獄と言われる船の上で働かねばならない漁民にとって、神様に願い御仏の袖にすがるのは当然のことであろう。
戦時中「神仏一体」天照大神と大日如来は同一であるから、どちらを拝んでも同じであるといわれたことがあった。「皇国史観」というのであろうか。そのようなときでも漁民は、神様は仲間みんなで祭るが、自分の祖先は自分達が祭らねば誰がするか、という気持で祭ってきた。
御仏の教えといっても、各宗派によって少しずつ違う。勝本漁民の檀那寺である能満寺は、壱岐では数少い真言宗であり、その教えに「極楽に流れる水は多けれど、手向けぬ水は飲むに飲まれず」とある。
子供のときから自分の先祖にのどのかわきや、ひもじい思いをさせてはいけないと教えられて育った私達は、毎朝のお茶、御飯、菓子、果物は自分達が食べる前に必ず仏壇に供え、シケになると草花や水を持って墓参りにでかけた。最近では墓地の改造やビニール製の造花などで、墓参りも昔とはやや異なってきた。しかし、お墓に供えたシバや草花が枯れたり、水入れの水が空になったりすることは、恥しいこととされてきた。また墓参りの際には、昔からある無縁仏(行倒れ、水死など身元不明の人)のお墓に必ず草花や水、菓子などを供えるのである。
このように先祖を大切にすることを代々教えられてきた。そしてこの他、親や先祖の墓石をあげることも子供の大事なつとめであるとされてきた。「墓石あげ」とは故人の家を建てることで、一番の供養であるといわれる。あの世で喜んでもらいたいということで、一生懸命働いて墓石をあげるのである。そしてその「おかげ」はいずれ回ってくるという。
このように人々は、神様や仏様に、家族の健康を願い、海上安全と豊漁を祈願するのである。
ブリ立繩漁法
ブリ立繩法は、比較的新しく導入された漁法である。昭和三〇年二月県代表になった青年部研究班長中原芳光氏は、翌三一年二月東京で開催された第二回全国大会に参加した。この大会において三七名のすぐれた研究発表者の資料「水産業技術改良普及研究資料」(水産庁調査研究部研究二課発刊)を持ち帰った。そしてその中から勝本に直接関係があり、導入出来そうな四編をプリントして部員に配布したのである。その四編の中に①鯛釣漁法の改良(延繩より立繩に)京都府丹後町中浜下宇川一坂田浜蔵②先達漁船が実施した釣漁業(ブリ立繩漁業、イシナギ釣漁業)宮城県牡鹿郡牡鹿町鮎川漁業研究組合長伊藤伝次の二編の立繩に関するものがあった。このプリントを参考にして立繩の試験操業に取組んだ人もあったと聞いているが、この時は期待されたほどの成果はなかった。
昭和三三年一一月先進地視祭の目的を立繩の研修にし、視察地を京都府竹野郡丹後町下宇川中浜漁業協同組合にした。視察者は(先達船組合)研究組合長野本熊太郎、(青年部)部長大久保岩男、編集班川村義男、研究班松尾久喜の四氏であった。研修報告書の内容は、大体次のようなものであった。
昭和二八年京都府水産試験場が千葉県の立繩漁法を中浜漁協に導入。同年実施の結果不成績。研究組合を組織し研究の結果翌二九年好成績をおさめる(理由・導入した時は流し操業だったのを掛かり操業に改めた)。
立繩の作り方
本幹(ほんき)=三分柄(飛鱗)、枝=二分四厘柄(銀鱗)、元ヨマ=六〇番綿糸
㋑本幹=全長三〇尋
㋺枝の長さ=一尋矢引から二尋ぐらい、ただしその時に応じて二尋半と変えてみると食う率は良いが鰤の層が狂うため、になう(天秤棒前と後に荷負、即ち複数のこと、勝本では魚が二匹以上一度に食いつく事を言う)率が少い。それゆえ一尋矢引きが最適である。
㋩上間を一〇尋ぐらい置く、人により差あり。
㋥釣型=土佐釣り及び狐釣(寸七)
㋭枝の数=四本から八本ぐらい
㋬重りの目方=個人差あり。目安として縦七寸横回りが一尺ぐらいの(図解)石を使用し、その石を一〇番線(針金)で包み、先端を曲げる。碇の爪の役目をする。
註=重りの安定が一番大事で、朝流の速い時に投入する場合は図の石より小さな石を網でつつんで(二〇本入たばこ箱の二倍位)重りの先端に添えてつけてやる。
浮子=樽又はガラス玉(直径一尺位)
以上のような研修報告が視察団より発表された。
昭和三四年の漁期には、中原聖正丸、(久)金毘羅丸、中万金毘羅丸等が本格的に立繩の試験操業に取組んだ。(久)金毘羅丸の松尾船長は、研究委員で中浜漁協視察団の一員として実習もやって来た人である。中浜漁協が導入した立繩は流して操業するものであったが、中浜漁協においてかかり操業に変えた結果好成績を得たと言うのである。当然勝本においてもかかり操業が採用された。その結果潮流の速い当地では、餌のイカが死んでしまって期待した成果があがらなかった。
年々研究を重ね流し操業をする様になり、立繩船の数も少しずつ増加していった。正月前後の高値のブリの大漁にもかかわらずあまりみんなが立繩漁をしなかった理由は、この漁のきびしい条件のためであった。まず餌のイカ取りである。寒い夜半までイカ取りをするのは、誰しもがいやなことであった。次にこのイカを明日の朝まで生かしておくことである。小さな船では、これもまた大変心配させられることである。次が朝四時頃までに出漁しなければ七里ヶ曾根まで行けないことである。暗い荒波をのりきり出漁するのも一苦労である。
昭和三八年頃から地まわりで立繩に漁がある様になったため、ごく小さな船を除く大半の船が立繩漁をする様になった。そのため漁場の混雑が予想されるようになった。沖世話人では漁場の混雑、紛争をさけるために、次のような方法を実施にうつした。
一、立繩解禁、十二月七日
二、統数制限、一隻当り五統までとする。
三、重りはきかせないこと。
四、樽旗は次の通り地区別に定める。
(昭和三十九年十一月二十五日)
立繩期間の出漁時刻を十二月三十一日まで次の通り決定する。
1、前夜沖止の場合は赤ランプの有無にかかわらず四時まで出漁しない事。
2、前日旗がたたなかった場合は、いつでも出漁して良い。
3、夜間出漁船で曾根附近にいても、港から勝本船が三隻以上到着後立繩を投入すること。
4、出漁船は必ず無電を入れておくこと。
5、樽旗は次の通り地区別に決定しましたので御協力願います。
(昭和四十年十二月十日、沖世話人)
立繩漁法は労力さえ惜しまねば、餌イカは自分で取れるため経費もあまりかからず、その上短時間に大きな漁獲がある魅力ある漁法である。この漁法導入後勝本の漁場に適するよう改良研究された先駆者達の苦労が実り、更にだるま立繩漁法までも行われた。
しかし二番イカが壱岐周辺より姿を消してから、秋の夜釣とともに忘れ去られようとしているのは残念である。
昭和四〇年旧正月一六日、この日は夜半より大吹雪となり当地では珍しく寒い日であった。西部の沖世話人一一名は三時より起き仲折町斎藤沖世話人宅に集まり、五時までの二時間ばかりの間に数回も日和見をした。最終的に今度一回で決めようと話合って日和見をした時、今まで雪で何も見えなかったのが、若宮灯台まではっきり見えたのであった。早速赤ランプを取ると、港に待機していた漁船が一せいに出漁した。それから約一〇分後今度は前にも増して大雪となり一寸先も見えなくなったため、沖船頭船三隻が赤ランプをつけ操業中止の合図をした。しかし漁場到着寸前で繩入れの準備と視界不良のため連絡が徹底せず、二〇隻近くの船が立繩を投入した。日和は、夜明けには完全に良くなり良い天気になった。鰤は海の中全体に湧き、操業した船はいずれも大漁をしていた。赤ランプがついた後に操業したと言う人と赤ランプのつかぬ前に投入したと言う人の両者の主張で、丸一日がかりの調整の末、次のような結末で話し合いがついた。水揚げは半分没収、沖世話人の操業船は全額没収する。後にこの没収した金で日和見宿の整備や博多瀬戸の照明灯の設置、平曾根山当て灯の設置が決まり、一部は現在でも民の操業に役立っている。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】