勝本浦郷土史48
が、その後昭和五六年、六〇歳以上の老人と、身体障害者に、湯の本温泉無料優待券が、年間十二枚(一枚四五〇円)交付される事になり、より多くの老人が、温泉センターを利用する事になり、一時期は盛況な時代もあったが、国民宿舎と温泉センターに限られていた優待券が、湯の本全体の温泉に適用される事になり、温泉センターが勝本へ帰りの時間帯のバスとセンターの閉館の時間帯等、サービス面等にも欠陥があり、左記のように利用者も少なくなったが、ここ二、三年復活のきざしが見えている。なお当初は、壱岐島荘の管理下にあったが、昭和五〇年より社会福祉協議会の管理となり、昭和六一年より、町の開発公社の管理下におかれている。
勝本町保育園
三 五 障害児受入れ
平成 二 七 午睡室天井張り替え
二 園児三六人 二クラス編成
三 園児四六人 三クラス編成
四 園児六一人 四五人定員を六〇人定員に復活する四クラス
五 園児六一人 四クラス編成
六 園児六〇人 四クラス編成
勝本町産業復興事業所
産業振興事業所の前身は、勝本産業振興組合と称して、昭和三七年に設立され、昭和四三年に、勝本町産業開発協会と改称して、業者に請負発注のできない小規模の、農地の造成事業、農道の新設改良、農業用水の確保のためのボーリング事業、トラクターによる深耕砕土、ロードグレーダーによる道路の整備、農用機器の普及による機械技術の向上啓蒙等を主としていたが、事業の対応に一時は応じきれず、昭和五〇年六月には、開発協会を発展的に解散して、勝本町産業振興事業所として改組した。
保有機器としては、トラクター三台、ブルトーザー、ロードグレーダー、四トン及び二トントラック各一台、振動ローラー、マカダムローラー、タイヤローラー、バックホー、タイヤショベル等がある。運営は、町より割安に事業の委託をうけ、二、三名の現場従業員を常置し、経営については、昭和五〇年までは町長が会長として責任者であったが、町長職も近年忙しくなり、昭和五〇年より、理事例として、理事長には助役が責任者となり、農林課長等が事務局となって、之を補佐している。理事には議会代表、農業者代表等、数名からなり、監事には、収入役及び議会より一名、計二名からなっている。
財団法人勝本町開発公社
勝本町の一般会計、特別会計にも適応し難い、町の開発事業を、管理運営する事業体である。当初、国民宿舎も公営企業として、特別会計にて処理されていたが、毎年続く赤字が好転せず、当初の建築資金の返済にも、町の一般会計より繰り出していた。又、防災工事等、大きな営繕事業も、町の一般会計にて補完せねば、経営はできなかった。
議会としても、この放漫な運営を、いつまでも続ける事はできず、昭和五六年、経営内容の再検討のため、特別委員会を設置して、県内外の国民宿舎を調査の結果、全国のほとんどの国民宿舎が経営難のため、町営を民営又は、第三セクター方式に切り替えて運営し、かなりの実績を挙げているところが多かった。調査委員会も、調査結果に基づいて、報告書を議長に提出した。(報告書は壱岐島荘の項に記しているので省略する)
議会としても、町長に、第三セクター方式にすべき事を要請したが、町としても、直ちに職員を整理する事も出来ず、数年間放置されていたが、その後、交流センター、ダム周辺の管理等、新しい事業経営を町自体が経営する事には問題も多く、これ等を統括して、財団法人勝本開発公社を、昭和六一年三月三日設立した。
設立の経緯については、前述の通りであるが、公社の規約によれば、事業の目的として、水資源の開発及び、港湾総合開発調査に関する事業。観光地の造成、施設の整備及び管理。国民宿舎並びに、保養温泉センターの管理運営、その他の目的達成のために、必要と認められる事業等である。現在実施している事業は、
一、国民宿舎壱岐島荘及び、保養温泉センターの管理運営。
二、総合公園、交流センターの管理運営。
三、壱岐風土記の丘の管理運営である。
壱岐西部開発総合センター
壱岐西部開発総合センターは、通称勝本文化センターと称されているが、実名は、壱岐西部開発総合センターとして建設されたが、勝本文化センターと呼称した方が親しみがある。当時郷の浦町には、観光会館あり、芦辺町には壱岐島開発総合センターがあって、有効に機能して利用されていたが、勝本町には、九、〇〇〇の人口を有しながら、多くの人を収容出来る集会場がなく、従って多くの人を収容する文化行事は出来なかった。近年、あらゆる施設を完備した勝本町に、文化的理想の集会場の必要性は、町民の心ある者の町に対する期待でもあった。昭和五七年議会に、町長は壱岐のどこにもない、座席付きの総合センター建設の構想を議会に発表し、協力を求めた。議会に於いても、特別委員会を設置して、協力を惜しまなかった。只建設資金について意見もあった。こうした建設工事には、国県の補助が多く期待されなかったが、町にはこうした場合の準備資金が蓄積されていた。それを取り崩す事によって、補足する事が出来るとの説明である。建設場所は、管理に便利な点、教育委員会も役場内に有る事が望ましい点等考えられて、庁舎に隣接して、不足分は整地して確保する事に決した。早速、篠崎設計事務所に設計を委託すると共に、整地事業がなされた。鉄筋コンクリート造り、二階建延面積三、二五四・四二平方米、建築面積二、二八八・九五平方米である。
町の一大事業であるので、郡外の業者も指名して、昭和五八年九月三〇日に六社による指定入札によって、鉄建倉元建設共同企業体が落札した。価格は五億四、五〇〇万円、全体事業費五億六、二二三万円、内国費補助八、三五九万円、県費補助四、一七五万四、〇円円、町負担四億三、六九六万七、〇〇〇円である。
斯くして五八年十月五日、工事着工、工事は順調に進み、昭和五九年十一月、見事に開発総合センターは完成した。
センターは完成したが、役場の駐車場だけでは、駐車場が狭隘で、理事者も議会も、以前から心していたが、結局は庁舎の前面の駐車場を二段構造とする事に決し、五九年十一月、五、〇〇〇万円にて工事に着工、六〇年四月に、現在のような二段構造の駐車場が完成した事によって、上下約八〇台の駐車が可能となった。其の後、センターもあらゆる文化的事業集会所として、広く利用されている。
第五節 勝本消防団
聖母町の腕用手押しポンプについて
勝本浦の消防組織は、明治二十一年には組織されていた事は判然としているが、それ以前の事は全く不明である。明治二十一年には浦営か部落営の消防組織があったことは間違いないところである。その時購入された腕用ポンプ購入定約書と、その後明治三十八年旧十二月、可須永元領作に、消防ポンプ格納庫一棟一金六十八円にて、建造する見積書が、琴平町篠崎勝氏(泉屋)宅に保存されている。
製造定約証
一、八人扱消防喞(ポン)筒(プ)一個、長三尺五寸、中二尺四寸、深一尺五寸、但し槻一枚板 無疵、上等相用、同ジクミンドロ赤金製ノ事、同ロクボイスコラレルカ子製ノ事、明治二一年子未求之入、同ズクパイプ四〇尺、二〇尺ヅツ、(ホース二〇尺物二本の事であろう)同筒先、赤金製、筒先より水一五間行(筒先より水の飛ぶ距離)同村町名文字彫刻、ウルシ入、同馬関問屋渡シノ事、代金一円之定。
前証載之通り、製造定約致候処確実也、然ル調整月限之儀、本年十二月一五日マデ相整、馬関滝安方にて御引渡可申、最其際金一五円清方可致候、残金ノ儀ハ、壱州勝本着誠済之上、皆済方可申候。若細工方に否有之節ハ代金二テ仕調可申上依テ一札差出置候。以上山口県赤間区、王司町、第二〇三番地、本間清之進
明治三一年十一月一六日
壱岐郡勝本聖母町消防組総代
大久保 竹三郎
深水 正貞
殿川 徳次郎
絆谷 和三郎
この腕用ポンプには、聖母町と記され、又、定約証にも勝本聖母町消防組総代とあり、聖母町消防組は、総代の顔ぶれから考えて、浦の消防組でなく、西部の消防組であったと思われる。浦の消防組であれば、組頭の名で契約がなされたであろう。正村は、以前聖母浦と呼ばれていた事もあり、勝本浦が昔、本浦と正村と呼ばれていた事から、西部八町の消防組を、聖母町消防組と呼称していたのであろう。
明治二七年、公設消防組となり、正村、本浦の二部制に組織された。当時の消防組は、加賀里屋町より仲折町までを一部とし、黒瀬より塩谷までを二部とし、組頭の下に各部長一名、小頭二名、掛長八名、部員九〇名であった。組頭には、代々若宮島の遠見番所の所長に就任され、明治二年遠見番所が烽火司に改称され、その責任者であった、勝屋敷(現中学校校舎の位置に住んでおられた)土肥甚右衛門が、初代組頭に就任されている。その後、明治三一年、腕用ポンプ一台購入、明治四二年、香椎村消防組と改称、四三年腕用ポンプ二台購入、更に昭和五年、腕用ポンプ購入、昭和八年九月八日には、大坂鈴木製作所製、三〇馬力のガソリンボンプ購入、一層の力を発揮した。同ガソリンポンプは、器機一、六五〇円、ホース三五〇円、計二、〇〇〇円で、村費一、二〇〇円、勝本浦よりの寄附金八〇〇円が募集せられた。ガソリンボンプ購入されるや、三部制として一部、二部は以前のままとして、ガソリンポンプ部をおき、部長一名、部員二二名が浦中から適格者を選考した。昭和八年頃の三部制による人員は、二二六名であった。
消防組より警防団となる
昭和十四年一月、警防団令が公布されるに伴い、陸海空防護のため、地域消防組及び防護団は、同年三月三一日を以て、一応解散し、警防団として統合された。昭和二二年四月三〇日の消防団令の施行により、警防団は改組され、各町村消防団となった。昭和二三年三月、消防団に対する、指揮監督権が、警察より町村長に移された。昭和三〇年の町村合併により、旧町村の消防団は、発展的に解消し、統一した一町村の消防団となったのである。勝本町においても、昭和三一年三月二七日勝本町消防団設置条例により、両地区の消防団は合併して、勝本町消防団となった。合併前の鯨伏村の消防の設備は、ガソリンポンプ一基、手押しポンプ四基、詰所格納庫立石布気本宮の二カ所、計四カ所である。
勝本町における平成元年における消防団装備。
指令車一台、ポンプ自動車二台、積載車九台、小型動力ポンプ十三台、詰所格納庫十四棟、防火水槽四八カ所、消防団員、明治四三年約二〇〇余名、昭和九年二二六名、昭和三七年四一〇名、昭和四八年三四一名、昭和四九年二八七名、昭和五九年二五二名、斯くして団員数は、装備が機械化されるに従い、又、郡の常備消防が整備、強化されるに伴い、団員も減員された。
勝本町消防出初式の今昔
勝本浦の消防組は、明治二一年には組織されていた事は、先に記したが、出初式も当然その頃から行われていたものと考えられる。私の知ってからの出初式は、まだ腕用ポンプであった。若い人も多かったので、組員になる事は、誇りとされていた。その時代の装備と現在の装備を比すべきではないが、雲泥の相違である。当村の装備は、脚用ポンプが、東部と西部に一台宛あった。威勢のよいものに纏があった。現在でも都会では、消防に纏はつきものである。今の団旗に代わる象徴的なものであった。火事の場合は、最も危険な所に纏を振って、士気を鼓舞するものだと聞いていた。軍隊の連隊旗のようなものであった。大提灯もあった。三米位の棹の先につけて先頭を飾っていた。その他、鳶口、梯子、のこぎり、斧、水汲み布桶等である。腕用ポンプは、消防用の赤い車力に積んで、堂々と行進した。小頭は皆、細長い三〇糎位の弓張提灯をもっていた。夜間でも判るように、これを掲げて指揮する為のものであろう。出初式は、式後浜辺に竿の先に細長い提灯を二力所に吊るし、一定の距離から放水して射落とすのである。東部と西部に分かれての競争である。突進して一定の所にポンプを据え、並んで布桶の水を天狗取りにして水槽に入れ、それに吸水管を入れて、一定の押手によって、掛け声も勇ましく、ヨイショヨイショと押すが、中々提灯は破れても落ちない。筒先から出る水を上手に提灯に当てる事が、勝敗のわかれるところである。押手の交替も認められていた。提灯が落ちると歓声があがる。東部、西部にわかれての勝負であるから、興味もあった。近年の出初式は、装備も豪華なもので、グランドにて式があり、終わって指令車、消防車、十数台に連ねて、団員は徒歩にて、本年度の無火災を祈念して、聖母神社に参拝後、黒瀬の中央公民館前浜辺を中心に、三、四〇条の色素を混ぜての放水は、絢爛にして勇壮、勝本町の生命財産を守るその存在を、遺憾なく発揮する行事である。近年の出初式は、正月六日、全国一斉に行われているようである。
勝本浦私設婦人消防組
私設勝本浦婦人消防組は、昭和七年十一月三日結成された。婦人消防組は、沖出の時は、男子の消防組が作動出来ない事から、婦人消防がこれに当たり、男のいる時は、給水作業に従事し、男子消防組を補佐する事を目的としていた。
組頭には勝本町消防組頭を推し、副組頭には勝本婦人会長を充て、部長一名、係長八名、部員一三〇名であった。
常備消防署が設置されるに従って、出漁中の消火の心配も少なくなり、当初のように活動はしていない。
その他在部には、私設消防組として、新城に新東自衛消防団があり、大久保坂本触には、大坂自衛消防団が、今日まで存続しているが、内容については省略する。
正路鶴一
消防防火のため尽くした方は多い。初代組頭の土肥甚右衛門は二一年の長い間組頭をされ、土肥恵三一〇年、松尾文吉一〇年、原田保一五年間の就任は、その任にある者は容易な事ではなかった。その勲しは永く残さればならないが、民間人で何等公職もない人が、長い間防火思想につとめた人に正路鶴一氏がある。正路氏は、春雨と言う食堂を経営し、勝本浦の初代公民館運営協議会の会長もしていた。非常に真面目な人で、多くの人から尊敬される人であった。
氏は寒い日も厭わず、毎夜夜中に拍子木を叩いて、火の用心を叫びながら、浦中を廻り、長い年月、防火思想の徹底に尽力された。所管関係官庁からの表彰、感謝状も多くあるが、そうした氏の美徳を今に残すものはない。茲に改めて氏の生前の美徳を讃えて残さんとするものである。
第十六章 壱岐広域圈町村組合事業
概要
壱岐広域圏町村組合事業と、お互いの日常生活とは無関係ではない。町村組合事業としては、壱岐公立病院事業、老人ホーム、特別養護老人ホーム及びデイサービス、し尿処理、火葬場経営、救急業務、常備消防(壱岐消防署)、視聴覚ライブラリー、電子計算業務、図書館、歴史民俗資料館、不燃物ゴミ処理、准看養成所等あるが、前記の准看護婦養成については、昭和二五年より五四年まで行われたが、入所者激減のため閉所された。
し尿処理場も、四町共同で、組合事業として計画されていたが、郷ノ浦町の処理施設設置により、広域圏構想は崩れ、その後残る三町にて各町より委員を選出して委員会が発足し、場所選定に努力したが、これも成立に至らず止むなく解散した。その後芦辺町は新しい構想のもとに処理施設を建設、勝本町は現在五〇哩以遠の海上に投棄されている。救急業務は救急病院を指定して、消防署の救急車によって、迅速に有効に処理され、多くに恩恵を与え群民によろこばれている。
視聴覚ライブラリーは、壱岐郡視聴覚協議会より移管、機械はフイルム三二六本、映写機二台ビデオ一台、郡民センターに備えつけられている。電子計算業務も、郡民センター内に設置され、各町役場も便利となり機能している。歴史民俗資料館は当面急ぐべきであるが、場所の選定に問題があり実現されていない。不燃物処理については、広域圏町村組合事業の中に策定されているが、各町にて処理場を造り処理されている。
現在壱岐広域町村組合事業として、処理運営されている壱岐公立病院事業、壱岐老人ホーム並びに、特別養護老人ホーム、並びに公立デイサービス事業、壱岐広域圏消防署、壱岐火葬場事業等は、本書としても避ける訳にはゆかないので、以上六件について簡略に記す。
壱岐公立病院の概要
壱岐公立病院事業は、壱岐広域圈町村組合事業の中でも、最も核となる事業である。特に総合病院、専門病院に恵まれない勝本町民にとっては、町村組合公立病院に頼る率は大きい。公立病院は明治二八年一月、当時の壱岐郡、石田郡の両郡立病院として発足した。当時勝本には分院が設置されたが、明治三二年勝本分院は廃止されている。
大正十一年郡制廃止により、郡立病院の存続も重要問題として、検討されたが存続する事に決し、壱岐総町村組合を設立して、壱岐公立病院として、運営管理される事になった。第二次大戦のため、日本医療団壱岐病院となり、接収される形となった。終戦後日本医療団からの返還も、容易でなかったが、昭和二四年一月に、紆余曲折の末、以前の十二力町村による、壱岐公立病院として、復活したのである。
昭和三一年には、伝染病棟(三〇床)昭和三五年には精神病棟(三〇床)が増築され、昭和三九年十二月、公立病院増改築工事完成。(昭和三七年二月から、三カ年継続事業として完成。)鉄筋三階建本館及び病室、延二、九九三・一平方米一〇〇床、昭和三九年十二月精神病
棟増床五五床となる。
斯くして漸次総合病院として整備がなされたが、こうした公営事業には経営面にも財政面においても、至難な問題が多くある、公営事業は公益事業である為、大きな利益をあげる必要はないとしても、収支の不均衡は各町村の負担となり、町財政を圧迫する。公立病院の運営も順調ではなかった。それは郷ノ浦町における、個人専門病院、又総合病院の出現である。病院が多くなれば当然ながら病院間の競争意識が出てくる、こうした競争意識は、個人病院の利益は、新しい医療機器の公益的購入に繋がり、思い切った経営努力がなされて来た。
今迄の壱岐公立病院の運営にも、管理者、副管理者、病院側も、努力がなされた割合に実効があがらなかった。
病院の経営は優れた設備と、優れた医師の確保と、親切な看護体制が必要であるが、公立病院が優れた定着した医師の確保が十分できなかった事は、離島病院である関係上、充分な研究ができず、従って若い研究熱心な青年医師は、離島病院に勤務する事を忌避する傾向にあった為に、定着した医師の確保は、全国的医師不足と相俟って、壱岐公立病院も医師の確保不足が長く続いた。
その間昭和四二年には、長崎県医療圏組合が発足した。これは長崎県の計画によるもので、県内離島の病院を、離島圏組合に加入させ、医療施設の離島における整備と、医師の確保を計る事が目的で、離島の医療を考えての県の施策であった。壱岐町村組合においては、壱岐公立病院のこれに対する態度を決定するに際して、各町村議会でも、是非について紛糾したが、結局は壱岐公立病院は不参加という事になった。理由は省略する、その後も病院経営は依然立ち直りを見せず、再度再建計画を樹て努力したが、医師の確保は出来ず、実践は上らず、こうした経緯を辿っているうちに、昭和五二年度決算には、累積赤字が一億一千万余に達したので、強力な再建計画に迫られた。その再建計画は、過去既に実施した医師確保対策、施設整備、看護婦等の医療技術職員の充実、確保対策を中心とするものであった。昭和五四年医師確保対策の一環として、医師住宅、木造平家建六棟を建設、続いて五五年に一棟を建増した。
五三年度事業として、第二次救急医療整備のため、検査手術部門の強化を図るため、増築工事を計画、鉄筋コンクリート二階建、九七六・七一平方米を完成した。この事業も再建計画の一環である。又同時に本館を改造して、理学療法室の整備、放射線科の強化を行った。
昭和五六年には、伝染病棟の改築(昭和三四年三一床で発足した)、老朽化と伝染病の発生減により、十床に縮小改築すると共に、伝染病棟跡地に、二階建立体式駐車場を建設、七六名収用、五七年三月完成した。
昭和五八年七月、X線コンピューターCTスキャナー装置導入(診断等特に救急医療向上を行い、高額医療機械の高性能を発揮した。)
六二年五月には、頭、腹部連続血管撮影装置を導入し、大学病院にて検査していたが、壱岐で検査治療が可能となる。
昭和六一年八月医師の充足に対処して、医師住宅建設、鉄筋コンクリート二階建六世帯、四六六・〇七平方米、六三年三月機能回復訓練室増築、鉄骨平家建、一四〇平方米、訓練器一式購入。
昭和五二年以降の強力な、再建計画は、徐々に医師の確保と、あらゆる施設、設備の整備が急速に進められ、その後全国的に医師も殖え、公立病院に勤務する医師も殖え、医師の定着化も徐々に進むにつれて、医療機器等の設備も整備され、患者数も殖えて、平成元年度には累積赤字は黒字に転じて、今後の経営にも、明るい見通しとなった。今日壱岐公立病院が順調に推移している事は、管理者、副管理者、病院側も院長を始め、各医師看護婦一同が再建計画に真剣に取り組んだ賜である。
現在の病床数、一般病床一〇〇床、精神科病床七〇床、伝染病十床である。
診療科目は、内科、外科、小児科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、放射線科、理学診療科、産婦人科、精神科がある。
平成二年現在、医師十四名、正看護婦四一名、准看護婦三八名、入院患者数一日平均六九名、外来患者数約三八〇名、多い時は五〇〇人を越す事もあるという精神科入院数六七名。
公立壱岐老人ホーム
昭和三七年十二月勝本町立養老院が、収容者が常時超過の状態で狭隘となったので、当時の壱岐町村組合管理者の斉藤政平町長は、将来壱岐全島老人ホームの必要性から、湯の本温泉を利用しての湯治を考えて、町村組合立の壱岐老人ホームを建設すべく、組合議会の承認を得、本宮南触三九九番地に、敷地七六八坪と勝本町が特別負担して、鉄筋ブロック平家建二二五坪の建物を建設した。
昭和三八年四月一日、勝本養老院を廃止して、在籍者三三名を移籍、定員五〇名の施設として事業を開始した。
昭和四〇年収容者が激増し、且つ郡内に設置を必要とする者が多くなったので、増設拡張を計画して、隣接地に四四一坪の敷地を購入し、鉄筋ブロック平家建一三五坪三〇名収用の施設を増築、同年十二月完成した。昭和四一年一月一日、定員八〇名の施設として認可をうける。
昭和四二年五月、避難用地として、隣接地一七五坪を購入する。
昭和四四年三月、勝本町より隣接地、原野三六三平方米の無償貸与をうけ、該地に納骨堂(六五・七平方米)を建設した。
昭和四四年九月一一日、皇太子同妃殿下の行啓、老人達の貝細工を造っているのを御覧になり、御言葉を賜る。(現天皇陛下皇后陛下)
昭和四七年十二月、作業室建設工事着工、四八年三月工事完了。昭和五三年八月、冷房設備施工(年金融資事業)昭和五五年十月、大規模修理及び、改築工事着工、食堂増築、廊下付け替え、調理場、浴場、便所改修工事。
昭和五六年三月、車庫建て替え、土止擁壁、側溝、倉庫増築工事着工。
昭和五七年二月、崩壊防止対策擁壁(連続ブロック)工事着工。
壱岐老人ホームは施設の老朽化により、改築が迫られていたが、平成三年補助事業として、旧施設の隣の海岸の広範な埋立地、五四二三平方米の用地を購入し、前面は美しい湯の湾を望み、後背は山岳に覆われ、温泉の湧出する老人保養の場としては、優れた環境に恵まれた場所に、平成四年三月改築施設工事完了し、四月移転した。
施設の概要
施設定員 八〇名全室個室、ベット六〇室、タタミ二〇室。
建物延面積 二、六九二・三㎡。
敷地面積 八、二四五・六㎡。
冷暖房設備 スプリングクーラー設備。
合併浄化槽設備 一二〇人漕
自家温泉設備 自家発電設備。
事業費の内訳
総事業費 六二五、七三三千円。
設計監理料 一六、六三七千円。
工事請負費 五五四、五五二千円。
用地購入費 三四、五四四千円。
備品購入費 一〇、〇〇〇千円。
環境整備費 一〇、〇〇〇千円。
財源内訳
国補助 一八八、六九六千円。
県補助 九四、三四八千円。
組合債 二二二、三〇〇千円。
四町負担金 一一九、三八九千円。
計 六二五、八三三千円。
公立壱岐特別養護老人ホーム(寿楽園)
文化国家として、あらゆる福祉対策が進む中で、今日まで国家社会又は家庭のために貢献して、種々の事情のため、又身寄りもなく淋しく老いゆく老人のため、先に八〇人収用の老人ホームが実現したが、その中には年を重ねるに従って、身体的、精神的に障害者も多く、ホームの施設としては限界を越えるものもあり、又多くの家庭には介護を必要とする、寝たきり老人も多く、身寄りのない障害老人、又身寄りはあっても家族の介護にも障害にも限度があって、十分に介護のできない家庭も多く、こうした人達のために、安らかな老後を過ごすために、福祉法に基づき、昭和四六年六月一日、壱岐郡広域町村組合は、定員五〇名の特養ホーム設立の認可を得、勝本町本宮南触二九八番地に、敷地六、三六一平方米の敷地を求め、一、六八四平方米の鉄筋コンクリート平家建、全館冷暖房を建設し、名称を公立壱岐特別養護老人ホーム(寿楽園と命名した)。
其の後、入居者増のため、昭和五〇年三〇床を増床して八〇床となる。
こうして寿楽園の名の如く、老後をできるだけ安らかにと願いをこめて、老人が人間として、年老いても尊重され、生きるよろこびを以て、不自由な身体を全職員に託して、感謝の中に余生を送っている。
その後の主なる施設としては
昭和五三年、養護老人ホームと共同にて貯水槽建設。
昭和五八年三月、車椅子収納庫建設。
昭和五八年、大規模修繕工事、屋根雨もり防止施工。
昭和六〇年三月、玄関玄関改修工事施工。
平成二年三月、二〇床増床のため、増築工事完成。事業費七五、七四五千円。
平成二年四月一日、定員一〇〇名の定員変更認可を得る、即日満床となる。
公立壱岐デイサービスセンター
従来我が国に於ける老人福祉については、施設(養護老人ホーム、特別養護老人ホーム)に収容して世話する施設福祉の方法がとられてきたが、近年の老齢人口の急速な増加に対応する方策として、両福祉施設と並行して、在宅福祉が国の重要施設として取りあげられるようになった。
政府は昭和五一年より、在宅老人福祉対策事業を推進する事として、取り組んできたが、昭和六〇年代に及んで、老齢人口の予想以上の激増に対してより、強力に在宅老人福祉事業を実施することとなった。
在宅老人福祉事業には
一、老人福祉法に基づく、老人家庭奉仕員派遣事業。
二、老人日常生活用具給付事業。
三、在宅老人短期保護(ショートステイ)事業
四、在宅老人、デイサービス事業が揚げられている。
壱岐広域圏町村組合では、国、県の勧めにより、既存の公立壱岐特別養護老人ホームに併設して、デイサービスセンターを建設することとなった。
平成元年五月、デイサービスセンター設置を町村組合議会で議決。(規約改正)
平成元年六月、郡内四町議会で規約改正を批准。
平成元年八月、長崎県知事の許可証交付。平成元年九月建設に着工。
平成二年二月完成、鉄筋コンクリート平屋建、三七六・五五平方米。
建設設備事業費、八二、五九九千円。平成二年三月一日開所。
デイサービスセンター業務内容
一、生活指導 二、日常動作訓練 三、養護 四、家庭介護者教室、五、健康チェック、六、送迎(バス二台、一台は車椅子乗用者)、七、入浴サービス、八、給食サービス、
利用対象者は、おおむね六五歳以上の、虚弱老人、又はねたきり老人。
利用料一日五〇〇円、一日利用定員一五名、利用日週五日
平成二年三月利用実績、一日平均利用者数一四名。
壱岐常備消防署
各町村には必然的に、自治消防団が組織せられて、火災はもとより、水防暴風等、天災地変にも出動して、町村の生命財産を守り、又町外の火災の場合も、お互いに応援に馳せていた。こうした統制ある唯一の団体として、町民の信頼に応えてその職責を全うしてきたが、国勢の急速な発展による、文化国家として、社会生活の著しい変遷は、建築構造の変化、油、瓦斯、電気等の多用化等、国民生活様式の変化、救急、救助等の社会的変遷に伴い、従来の消防団の活動のみでは、対応し切れなくなった。
終戦後における、自治体消防再編成後の昭和二四年には、全国の市町村で僅かに二一八市町村が常備化していたが、今日では消防常備化に関する法令により、その設置率は市で一〇〇%、町村でも九〇%に達せんとしている。このように消防の常備化は進んでも、地域の消防団の活躍なくして、消防行政の十分なる遂行は達成されないのである。
昭和四六年、壱岐郡町村組合も、各町村議会の承認を得て、常備消防を設置する事を決定、昭和四七年四月、壱岐の中心地である、芦辺町中野郷西触四一一番地の一に、壱岐郡町村組合消防署竣工、梯子車、化学車、ポンプ車、救急車等を配置して、二〇数名を以て発足した。
昭和四九年四月、郷の浦支署設置、同五四年三月、郡消防本部及び郷の浦支署を、志原西触六七七番地に新築移転した。
昭和五九年四月、壱岐空港の管理について、安全を期するため、壱岐空港出張所を開設して、職員と消防車を常駐させている。
勝本町には昭和五七年四月に、出張所を設置、西戸触八四四番の二に勝本出張所を設置、ボンプ車救急車をおいて、常時定員八名を二交替にして、四人宛非常時に備えている。勝本出張所における救急車の利用は、平成元年度出動数は一五一件の多くに達し、常に年度の利用は、この位の数と思われる。出火件数の出動件数は、平成元年度は五件である。壱岐で現在署員は全部で五七名である。
壱岐郡葬祭場(火葬場)
壱岐における埋葬は、昔は甕棺葬が多く行われていた、勝本浦においては地勢的条件もあったのであろう、浦部の住家はほとんど丘陵に囲まれ為に、墓地はその丘陵に多くある。墓所まで甕棺にして担ぎ上げる事は容易ではない、その為か、私の知る限り大正の始め頃も、箱棺であったが、在部では苦労して担ぎ上げる必要のない事もあって、近年まで甕棺が多かった。壱岐での火葬は、伝染病で隔離病舎で亡くなった者か、死体で漂着した者は、全部、焚き火で火葬していたが、その他は甕棺か箱棺葬であった。昭和の中頃、郷の浦の山手に簡易な火葬場があった、一体焼くのに三時間余待たされた記憶がある。
壱岐では一体毎の墓碑が建てられ、特に壱岐でも墓所の面積の多いのは勝本である。都会では早くから火葬場があって、ほとんど火葬され、〇〇家之墓を刻まれ、何代でも一ヵ所の墓所で一緒に保存され供養されている。都会では勝本のように、一人一人の墓所を造る事は不可能であり、衛生的見地からも火葬する事が理想的である。こうした都会の文化は壱岐にも波及して、早くより壱岐にも火葬場の必要性は高まり、町村組合事業として、昭和四五年四月一日開設されている。場所の選定にはできるだけ一方に偏らないように、配慮されたが、結局は沼津の大浦触に決したが、近隣の反対も多く、説得には難航したようである。
建物はコンクリート平家建九〇平方米、待合室、木造平家建七五平方米。火葬炉二基(重油バーナー)で経営は委託とした。当初経営以来、悪臭煙害で近隣の苦情も多く、できるだけ悪臭煙の出ないように改修を重ねて運営をして来たが、当初は土葬に馴れた郡民も、火葬される事には老人間にもかなりの反対もあって、勝本町議会としても、火葬奨励金を出して、火葬を進めるべきであるとの一意見もある程であったが、今日では亡くなると、火葬にされるものと割りきって考える様になり、従って火葬場の増設が必要となり、交渉中の隣接地の買収ができた事から、人生最後の儀式を厳粛にするため、内容外観とも一新し、都会の火事場を研修し、火葬炉も三基として、無臭、無煙の電熱装置、火葬、時間の短縮化をはかり、近代的施設とするために、昭和六一年十一月起工し、六二年十月竣工した。
敷地面積 六、三八〇平方米、建築面積八〇七平方米。
建物構造 鉄筋コンクリート造平家建、一部二階、告別室、炉前ホール、収骨室、待合室(ホール)、和室(三)
炉設備 火葬炉三基(一基完全独立型)冷却室
事業費 二億六五二万五千円。
事業内容
建築及び外構工事費(火葬炉設備工事費含む)
一五五、五〇〇千円
電気設備工事費 一三、八〇〇千円
給排水空調等工事費 一四、六〇〇千円
設計監理費 四、四三七千円
用地及び造成工事費 一〇、九〇一千円
造園及び備品等 七、二八七千円
財源内訳 起債(年金積立還元融資) 一四三、一〇〇千円
一般財源(各町負担金) 六三、四二五千円
第十七章 勝本浦の民主団体
勝本浦会
勝本浦に浦会という組織があった事を知る人は、ほとんど今はいないと思うが、そうした組織のあった事は事実である。他浦でも浦会という事は余り聞かないが、芦辺浦には古くから浦会があって、今日でも存続して浦の活性化、文化の発展に寄与している。勝本浦会もいつ頃から創始されたか、記録したものがないので不明である。従って構成メンバーも自分もよく覚えていないが、昭和十一年前後、自分が浦の青年団長の時、勝本浦会に二回出席した事があった。保護団長、消防組長、青年会連合会長、青年団長、婦人会長等、各民主団体の代表者であった。又区会議員も当然構成員であるべきと思うが、昭和十年四月には町制が施行され、区会は廃止となっているので、自分の時代には区会議員は見えなかった。
会場は加賀里屋の立石医院が会場であった。奥さんが婦人会長であったからであろうと思う。いつ頃廃止になったか、自分も昭和十一年に渡満して二一年に帰ったので、その後の事は不明であるが、近年勝本漁業史を調査中、年表の中に昭和十九年に勝本浦会の記録を見て、終戦前まで活躍していた事を確認した。戦争が激しくなるにつれて各種団体の活動も規制されたので、終戦前に廃止されたのではと思っていた。
兎に角各民主団体の代表者が集まって話合いされて、各種団体が実践するだけで、浦会そのものは大した事業はしてなかったので、割に浦会は目立たない存在であったようである。
又昭和十九年頃の浦会が、どんな活動をしていたか、年表だけで不明である。終戦後昭和二四年に中央公民館が発足、二六年浦部に十六の部落公民館が発足、暫くして部落公民館長によって、浦部公民館連合会が結成され、浦部の年中行事は以前の浦会に代わって、ほとんどが浦部公民館連合会が主催し、中央公民館はそれの指導につとめた。
勝本中央公民館及び浦部公民館連絡協議会
戦後の混乱した人心を安定させ、新日本の建設、地域社会の発展の明るい活動を展開し、僅かの間に日本全国に定着し、その成果を挙げたものに公民館活動がある。公民館運動は、昭和二二年公民館活動の必要性と、その活動の方向を全国に指針として、指導発表がなされた。勝本町では昭和二四年、竹下町長を館長とする、勝本中央公民館が勝本町役場に盾板をかけて誕生した。当時は部落の公民館は分館と称した。当時は公民館の主旨が徹底せず、戦時中の部落の常会の塗り替え程度に考えられていた。古くから根付いた部落の風習は、直ちに新しい酒を新しい革袋に入れるようにはできなかった。当時社会教育係を兼務していた秤助役は、各部落を巡回して公民館のあるべき要について指導した。
昭和二六年浦部に十六の部落公民館分館が発足、又浦部では部落公民館長が部落駐在員も兼務した。駐在員は町役場の上意を下達するような仕事であった。十六の部落公民館も、坂口町と田の中、鹿の下仲西は一部落公民館として構成されていたが、間もなく分離して十八公民館となった。当時在部には以前から各触に青年会場があって、直ちに公民館に充当して対応できたが、浦部では神社お堂等を改造して公民館としたが、お堂等のない部落は、館長自宅が集会場であった。
町としても文化的機能を持つ構造物がなく困っていたが、黒瀬海岸道路の埋立により、空き地ができたのを幸いに、昭和四一年四月一日、黒瀬の浜に中央公民館が建設され、始めて公衆の集会場ができた事によって、階下の一部を教育委員会事務所とし、集会室、調理室、図書室とし、二階を大集会場とし、立派な文化センターとしてあらゆる会合に利用された。発足当時から今日までの公民館の運営を振りかえる時に、部落の公民館の盛り上がりを見せたのは、昭和三〇年頃から四五年過ぎ頃であろう。社会教育主事も山口正寿、辻本正光、前峯義孝主事等、熱心に指導して今日の基礎を礎いたのである。部落も運動会、演芸会、映写会、町の指定をうけて発表会等も行われ、最も部落活動の盛り上がりに力の入った頃であった。しかし在部の公民館運営に比して、浦部の運営は及ぶべくもなかった。
それには、先ず部落の集会所の問題もあるが、館長の任期の一年交替も原因として挙げられよう。漸く公民館とはどんなに運営すべきか分かった頃やめなければならない、この問題については、真剣に討議されて来たが、いろんな都合で改める事が出来ず、今日まで続いている。部落公民館乃ち集会所については、部落公民館としては、馬場崎が最初に古材を以て建てられ、其の後新築された。続いて神社お堂等が町の補助によって兼公民館として改造増築され、其後土地が確保されたところから、町の補助も三分の一から三分の二に増額され、塩谷、仲折、田の中、築出新町、正村町、坂口、湯田、琴平、鹿の下東の各町も、土地を求めて建設された。
公民館活動も、社会状勢の急激な変化から、普及時代より条件整備時代となり、町としても、文化会館の設立、漁民センターの設立がなされ、各部落公民館残余の整備が急がれている。
又勝本浦部では密集している関係から、浦部としての行事が多く、早くより勝本浦連合公民館が、昭和三三、四年頃から創立され、主な行事等は公民館連合会主催で開催され、各部落公民館は協力していた。
公民館連合会の活動の主なるものは、青少年の非行防止、港まつりの主催、町民運動会の開催、冠婚葬祭等の簡素化、港内の美化等多岐に亘り活動されている。こうして連合会の活動は定着して、近頃では港内清掃には特に力を入れて、観光客の不快感をなくする事につとめておられる事は敬意を表する。公民館活動は容易な事ではない。故郷勝本を愛する気持ちがなければ出来得る事ではない。
勝本町中央公民館長は、従来町長が兼務していたが、町長職も多忙のため、平成三年四月より、中央公民館長は、教育長が兼任することになった。猶町役場には、公民館運営審議委員会が、社会教育委員を兼任して、公民館運営について審議している。
青年会
民主団体の中でも、最も古く伝統を保ち続け、その部落に力のあったものは青年会の存在であった。何しろ十五、六歳の学校を卒業して、三五、六歳までの若者の集団であり、一家の生計の中心をなす者である。
昔の青年会を調べて見ると、各部落において、会員の年齢は学校を卒業して、十五、六歳から三五、六歳までの会員が多いが、田の中のように部落が小さくて、会員数の少ない所は、年齢を四〇歳とした部落もあり、黒瀬のように、十五、六歳から三五、六歳までとすると、年齢の相違が違い過ぎるので、一部、二部と二部制にした部落もある。要するに、私達の入会した頃の会長、乃ち若手頭は、怖い程威厳があって、部落の権力者で傍にも寄れなかった感がした。
昔の各部落の年中行事を調べて見ると、多彩であり、種々記されているが、実際には大きく変わったものではなかったのではなかろうか。
年中行事として一般化されていたものに、七社参拝がある。これは壱岐の主な七社を歩いて参拝していた。それに三月の節句の野山における散財、戦時中の入退営軍人の歓送迎、正月乃至は節句の氏神の参拝行事、町内の溝掃除、神社寺のあるところは社地の掃除、氏神の祭りの踊り等当番町の世話、何年振りに廻って来る弘法大師例祭日、角力の世話等である。町内に不幸時の青年会の果たす役は大きかった。今はほとんど火葬となって、不幸時の青年の仕事も容易となった。青年会の創立年月については、各部落に大きく差異があるが、歴史は尊重しなければならないが、狭い勝本浦中である。塩谷本浦の青年会が早くからあって、他の青年会の創立が四、五十年も遅れる事はないのではと思うがしかし、記し残されているものを知る限りにおいては、東部の方が正確に創立年月日が判明しているのに反して、西部に不明な所が多い事は何かと暗示するようである。
各部落の青年会の創立年月、目的、会員数(当時とあるのは昭和八年調査当時の会員数である)を参考のため略記する。
塩谷青年会 塩谷青年会は安政年間(一八五四ー一八六〇)の創立で、当時は塩谷若者中と称した。明治三三年青年会と名称を変更、その記念として聖母神社に博多織の幟を一本(時価一五〇円)を奉納、大正
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】