天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史34

勝本浦郷土史34

ホッケ

漁場への押し出し、繩あげ、そして押し込み、帰ってからの「繩クリ」と体を使う仕事ばかりであったから、腹の方もペコペコであった。漁が終った後、繩にかかった瀬モノや赤ものを肴に飯を食う美味さはまさに格別のものがあり、延繩をやった者のみが知る味であろう。その御飯の残りを大きなにぎり飯にして、浜にきた子供達に食べさせた。いうまでもなく米ばかりの銀シャリである。大人が両手一ぱいに丸くにぎるので、重さと大きさで小さい子供は貰う時に取り落とすことさえあった。今では各家庭でムギ飯を食べているところは皆無の状態だが当時は米飯を食べている家庭はほとんどなかった。だから、正月、節句、祭等が来るのを楽しみにまっていたのである。ちょっと塩気のある、このにぎり飯の味を、今も覚えている人は多いだろう。

 

計算

(サンニユウ)と分けロ

船頭が船と繩を出すのに対し(船頭方と呼ぶ)、ワッカシ(乗組員)はただ労力のみである。一艘の乗組員は大体六人であった。漁具作りや手入れはワッカシが手伝い、餌、食費、酒代等は「フナウチ」の「ゾウヨウ」経費として水揚げから差引き、残りを船一口、繩一口、乗組員は平等で一口宛で分配した。ただし小学校卒の見習いの配分率は、昔ほどきびしく、はじめは三合か半口、やや仕事に馴れて八合、一年間を過ぎないと一口はもらえなかった。

機械船の時代になると、船二口、繩一口であったが、しだいに繩も二口となった(切れたり、取られたりで繩の消耗もはげしかった)。

船の口数など浦中同一というわけではなかった。親類関係の乗り組みや、船頭方の身内が多く乗りこんでいる場合には、当然ワッカシに対して船の口は少な目に取ったであろう。他人乗りでしかも船頭方が一人働きであれば、船のロも当時のシキタリの上限まで取ったであろう。いろいろあったと考えられる。

動力船時代になってから、冬は二口、夏は一口半から一口八合ぐらいで、この内から機関士に歩合を出した(後記)。乗組員の平等はいつも変らなかった。

休漁(シケ)になり問屋または組合の仕切り(計算書)が取れると、その都度こまめに船頭方に寄って計算した(漁師間ではさんにゅうするといった)。このことは、毎日稼がねばならない純漁業労働者を主体としていたためか、船頭自身の企業ではなくて乗り合って漁をしていたという名残りであるのかわからない。とにかくワッカシにとって最大の楽しみは、今度の計算はいくらあたるかということである。それに機械船であれば燃料費や雑費など、期間が長くなるほどハッキリしなくなるため、正確な計算をするには早いほどよいようである。「はたらけた」(良い収入があった)ときは、さんにゅうごっそうといって鶏をつぶすなどして、一寸した計算御馳走をした。また反対の場合もあった。人より漁が少なく「しあわせが悪い」ときなど、しあわせ直しといって御馳走をし、食い込むと称して気分転換をはかった。当時の一級メニューは鶏のすき焼き、タイゾーメン等であった。旧一〇月二九日の迎え神楽に、船頭寄りをして米の値をたてた。白米の相場に薪、野菜代としていくらかを加えて米代を決め、米代だけを「ふなうち」の雑費として引くのである。この金額の範囲内で食料などを船頭方は供給したのである。

 

機関士の歩合

(ゴーシヤク)

焼玉の運転及びシケ間の手入れと、機関士は油に汚れて大変であった。特に夜釣りと曳繩などで漁があり夜昼連続で操業するときなど、かなりの重労働であった。だから機関士には普通二合のゴーシャク(歩合)がついた。昼夜連続のときやベテラン機関士などは三合であった。これは船頭方が、持船の口の中から出した。舵取り(雇われ船頭)も二合か三合の歩合がついた。また船頭方は良く働く忠実なワッカシに対しては、盆、正月に心付けをやったものである。

 

底繩曳船のなやみ

底繩曳船は、一日中黙々と底繩を曳ぎ廻り、やっと一本か二本のブリを釣っている。私どものなやみは延繩船の多いことである。もっともアジロ(漁場)が一所であるためのグチかも知れないが、延繩船はあまりにも「ワンマン」すぎると思う。底繩の上であろうとかまわず延えて行く。あげくの果てには「今から延えるからあっちへ行け」と手を振る船もある。現在のところ弱いものが負けになっているが、我々も延繩を切ろうと思えばたやすいことなのである。しかし良心的にそのようなこともできない。延繩船の自覚を願う(昭和三〇年一二月『すなどり』掲載)。

 

延繩の終末

狭い七里ヶ曾根に多数の漁船が集中するため、延繩はたぐりなどを妨害することとなった。そして自分達の漁場と生活を守るため、心ならずも県外延繩船の排斥運動にまで発展したのである(たぐりの項参照)。

勝本の延繩船はこのような紛争を避けるためと、折から盛んになりつつあったイカ運搬に漁法を切り替えていった。

最近のエサ用マメイカの不漁は、これに拍車をかけ数年前から県外船もいつしか姿を消したようである。昭和五四年、勝本浦で延繩をしている船は皆無である。

 

その他の延繩

中上長平翁の業績を記録した本のなかに、マグロは、延繩によって若干の漁獲を得ていたのを、浮繩にしたほうがよいということを発見してこの漁法に一進展を促した、とある。

ハイオ(羽魚)も同じく、翁が流し網操業を開始する明治三五年以前は、ハイオ繩によって多少の水揚げがあっていたと伝えられている。また動力船になってからは突手

(つきて)を他浦から雇いハイオ突き漁をしたといわれるが、勝本でもごく少ない限られた船だけが行なっていたのであろう。

 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社