天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史35

勝本浦郷土史35

フカ繩

フカ延繩も昔やったことがあるらしいが、現在それを知る人は少ない。普通のフカ釣りといえば、立繩形式による白フカ釣りがあった。春先の八十八夜(旧暦で立春から八八日目、現在の五月一日か二日)すぎからやるもので、街は生きブリの一本がけ、釣針は二本であった(この釣針は下条鉄工所で特別に作ってもらった)。フカは歯が強いから、ワイヤーか手作りのクサリをサガリにした。場所は七里ヶ曾根の中の瀬か平曾根で、小碇を海底にやる固定式であった。白フカは用心深く、餌をくわえてもなかなかのみ込まず吐き出すらしく、そのため傷だらけの餌ブリがあがることが多かった。しかし釣れると白フカは、値が良かった。

 

流し繩

イカ取り・ブリ夜釣りのかかりで、あまり潮の早くないとき、釣の二、三〇本ついた小さな延繩(先にタワシなどをつけ、手元に分銅をやって沈める)をトモから投入して底にはわせておくと、イサキ等が良く釣れ、時にはタイの混ざることもある。エサはイカの切り身である。現在では流し繩ではなく、レンコ釣り(立て釣り)を投入しておくとおかずぐらいは釣れるようである。他に、タイ、レンコ、アラカブ等を対象とした底繩、フグ、万引等を対象とした浮繩がある。

 

遠洋漁業の先駆者

明治二八年日清戦争中のことであった。軍は食糧補給の一環として、戦場での漁獲物の確保を水産県たる山口県に依頼した。

山口県では、出漁希望者を募り二〇隻の船団を組織して、明治二八年旧正月二八日萩港を出発した。当時、弱冠一七歳の片山永寿少年もその一員として参加したのであった。

現在では大型動力船で黄海、東支那海など我が海のように出漁しているが、当時は動力漁船は珍しく、本船団ももちろん無動力船であった。「船は帆まかせ、帆は風まかせ」のたとえ通り、風のまにまに二〇日の日数を費して、遠路はるばる大連港に到着した。

軍の命令にしたがって船団は各漁場に分散、主として延繩により油ブカ、グチなどを漁獲して軍に納入した。ところがある日、船団は八十八夜に船出をした。

酒の肴を釣ろうということになり、大連湾内に一桶の延繩を投入してみた。一八〇本づけの延繩に、カラ釣り四、五本というくらいにタイが釣れた。思わぬ大漁に船たてもそっちのけにして出漁、連日大漁をして軍に納入したため、軍も大いに喜んだという。六月一ぱい漁をして、月末に郷里萩港への帰途についた。

片山氏は、その後勝本に移住、当時の有様をみんなに話した。それに豊後船も同じような話をするので、自分達も一度行ってみようということになった。時あたかも日露戦争直後、片山永寿氏を団長に松尾多十、小島芳太郎、平田鶴太郎(前勝漁丸船長)、篠崎作太郎、山口徳太郎、川村政太郎、小西貞吉ほかの諸氏が二隻の船(もちろん、この時も和船)に分乗大連に向けて出発した。そして約一ヶ月の日数をかけて漁場に到着した。

だが時すでにおそく各県よりの出漁漁船が多く、ある程度の漁獲はあるにはあったが、氷はなく販路もまたかぎられており、思ったほどの漁獲もあげられなかった。四ヶ月間滞在した後、片山氏のみは各地漁場の視察に残り、他の乗組員は船、人ともに汽船に便乗帰郷したのである。

これらの先駆者たちは、勝本漁民のため新漁場開発のみを念頭において出漁したという。交通機関の発達していない七〇年前、帆だけをたよりの無動力船で遠く海外に雄飛した人達の気概は、我々が見習うべき手本であろう。この壮挙を成し遂げた人達は当時三〇歳位の青年であった。片山翁(片山哲郎氏の曾祖父)の談話から。

 

サバ

わが国には、マサバ(ヒラサバ)、ゴマサバ、グルクマの三種がある。このうちグルクマは熱帯系のサバで、わが国では沖繩以南にだけ見ることができる。産業的に重要なのはマサバとゴマサバである。両種の外観はよく似ていて、一般人には容易に区別できない。両種とも体は紡錘形で、その断面は楕円形、背部は緑色、腹部は銀白色をしている。マサバでは背部に屈曲した黒色の波状紋が、ゴマサバではさらに体側と腹面にも不規則な小黒点がある。専門的には、第一背びれの

(きよく)数(マサバは一〇以下、ゴマサバで一一以上)や鰓耙

(さいは)数で区別する。

サバ類の漁獲量は、昭和四六年には一二五万㌧に達し、わが国の沿岸性魚類の中では、最大の漁獲を誇っている。それまで莫大な漁獲を続けてきたマイワシ資源が、昭和一五年頃を境に衰退し、これに代ってサバ資源が増大したのである。

両者の分布はかなり重なり合っている。しかし一般的にいってマサバは冷水系(九―一九度C、多獲時の水温一四―一八度C)、ゴマサバは暖水系(一二度―二九度C、多獲時の水温一九―二五度C)で、かつ垂直的にはゴマサバがマサバより上層に分布することが多い。マサバにはいくつかの地方群(太平洋系、東シナ海南部系、同西部系、五島西沖系、対馬暖流系の各群など)がある。地方群は異った分布の中心をもつが、全く混合しないというものではなく、資源の大きさや、環境条件によって流動的に交流し合う。ゴマサバの場合、東支那海系群と薩南系群と二つの地方群がある。両種とも沿岸性回遊魚で季節的な南北回遊を繰り返す。一般にサバ類の産卵は南で早く北にいくにつれて遅くなる。産卵期は沖繩から薩南諸島にかけてはニ―三月、南九州、四国、本州中部で四―五月、日本海北部で五―七月といわれている。

マサバは発生した年の末には二〇㌢、翌年の末には二八㌢、満三年で三三㌢に達する。ゴマサバでは、発生年の終りに二三―二四㌢、翌年の末には三〇㌢になる。十分成長すると、マサバで五〇㌢、ゴマサバで四〇㌢に達する。餌は魚の大きさや季節に応じて変化するが、イワシなどの小型魚のほか小型の軟体動物および甲殻類である。一般にマサバのほうが美味とされるが、夏季だけはゴマサバの方がうまいといわれる。

近年のサバ漁業は主として巻き網、それに灯火を併用したハネ釣り(一本釣)で行われる。漁獲量の九〇㌫は巻き網漁業、五㌫はハネ釣り漁業によるものである。「サバの生きぐされ」といわれるように腐敗しやすい。またヒスチジンという成分が他の魚に比べ非常に多いので、ヒスタミンを生じやすく、人によってはジンマシンを起こすこともある。

 

サバ繩

サバを釣るためにやるサバ繩は、上層をはえる浮繩で繩ある。勝本ではじめるようになったのは昭和四、五年頃からといわれ、最初は山口県の船から習ったという。

主な漁場は、山口県沖で、漁期は春と秋である。道具はその船によって多少の違いはあるが、釣数は一〇〇本、幹糸は紡績(三二本)で作り、間は一尋半、枝は同じく小さめの紡績糸で長さはヤビキ(矢引、一尋の八合)。投入する桶数は二〇ぐらいが普通であった。繩と繩との間に石油缶の浮標をつけた。マビキ繩(シイラ繩)のように途中に浮木(竹のタンポコ)をつけたりはしない。餌は、シラスや大羽イワシの輪切りを使用した。

この繩をはえる(投入)ときはかなりの速さで走りながらやるため、時々手に釣針をかけることがある。そのときの用心に、必ず包丁を用意した。手にかかった途端、枝糸を切らねばならなかった。また途中で繩がもつれやすく、もつれるとそのまま投げ込み、後の分を続けてはえた。

この漁はわりに遠いところで操業するため、限られた大型船何隻かが従事するのみであった。釣ったサバは自分で博多、唐津方面に運搬した。冷蔵用の氷は角氷を使用した。(飼付事業、製氷所以前参照)

 

深海立繩

五島玉の浦の深海釣についてその概略を紹介する。長崎県は漁業振興の一策として、新漁場、新技術開発事業を行なっているが、その一環として四九年度、五島玉の浦漁協を対象にタイ漁の不漁、沿岸漁業の不振に活路を見い出す目的で「アラ」深海延繩漁業を実施した。結果は思わしくなく、漁場の探査という程度に終った。

そこで五〇年度、漁具の改良を行い立繩式底繩漁業に切り換え、同事業を推進した。結果は良好で、一二月の報告を見ると、六―ハ㌧クラス(三人乗り)で一週間(うち三日間操業)で、約五〇万円以上の水揚げがあり、一七㌧クラス(四人乗り)では一〇〇万円近くが水揚げされている状態である。

漁場は玉の浦町大瀬崎の西方約八㍄、通称マンダ曾根周辺で、二〇〇から三〇〇㍍の水深に沿って操業されている。一日に操業は二回行い、「サガリ」は二〇〇本程度である。

漁具の改良点は、幹繩の浮子を浮子用スナッチフックでとめていたのを、綱に通して結合させ、また釣針を寸八とし「アラ」以外の魚種をも対象とし、漁獲の向上を図った点である。参考までに一隻の魚種別漁獲量を㌫で図イで示す。

玉の浦現地での漁業者の反応はあまりなく、一本釣漁業からの切り換えは少ない。しかし、延繩漁業より八隻がアラ立繩漁業に転換し、今後も若干の転換が見込まれる。

今後、壱岐地区で本漁法を取り入れていくとすれば、設備、技術面等種々考えねばならぬ点があると思われるが、まず第一に漁場をいかにとらえていくかが問題となるであろう。参考までに本漁法についての略図、仕様書を一六三頁に示す。昭和五一年三月、壱岐水産業改良普及所(『すなどり』二〇一号より)




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社