明治時代の漁業界は混乱していました。この混乱期の明治7(1874)年には、神奈川県では、アジはコチに続いて第2位の生産額をあげていました。トン数に換算すると、約446トン位で、現在の水準からみると、約1/2位の漁獲水準に当たります。漁獲技術の進んでいなかった当時としては非常に多くのアジを漁獲していたことになります。ちなみに、第3位がスズキ、4位タイ、5位サメ、6位イワシと続きます。
この混乱期は、明治20年頃には改善され、江戸時代に合意された協約が再締結されたり、漁業者団体の組織が再編されるなどして、徐々に落ち着きを取り戻してきました。この頃から漁業統計が作られるようになってきましたので、この時代のアジの年漁獲量を 図4図4(明治・大正の神奈川におけるアジの漁獲量の年推移) に示しました。
混乱がほぼおさまった明治20年頃の神奈川県では、アジの漁獲量はほぼ明治7年と同程度の漁獲をあげています。この頃の古文書によると、三浦半島沿岸のアジは釣と棒け(棒受網)によって漁獲されています。アジ釣は縄20尋(30m)釣針2本、30匁(約113g)の鉛錘に真鍮の2匁(7.5g)の針金2尺8寸(約84cm)を二つ折りにしたもの、現在の天秤釣の道具でした。この釣りは周年行われていましたが、アジ棒けは5月から8月まで行われたと記されています。
また、この年の東京湾側にある横須賀市走水ではアジが9万尾漁獲されています。ここでは、漁獲物は1尾ずつ売買されていたらしく、アジ1尾の値段が1銭とあります。1銭は1円の百分の一ですから、現在1尾100円のアジは明治20年の1万倍の値段になっています。同じく、タイが37銭、ブリが40銭、アイナメが30銭、イカが2銭、サバが1.5銭、コノシロが0.16銭、イワシが0.07銭でしたので、アジは大衆魚のなかでは高く販売されています。
明治20年におけるアジの漁獲量は、神奈川県沿岸のなかでは三浦郡(東京湾側の横須賀市田浦から相模湾東部の逗子市小坪までの区域)が最も多く、全体の約4割を占めています。他の地区では東京湾の奥部から相模湾の一帯までくまなくアジが漁獲されていますが、その漁獲量は三浦郡の約3割程度の水揚げしかありません。このことからみると、三浦郡にはアジ釣りの漁師がいかに多くいたかがわかります。
ところが、これから8年後の明治28年には、この年もまだ水揚げ金額で示されていますが、足柄下郡(小田原市前川から湯河原市吉浜までの区域)の方が三浦郡の約20倍漁獲しています。この漁獲量は明治時代のなかで最も高いものでしたが、これは相模湾西部でアジがたくさんとれたためでしょう。この地区には、江戸時代の文化元(1804)年に開発された根子才網(ネコゼアミ)という定置網の原型ともいえる定置網が張り立てられています( 図5図5(根子才網の見取り図) 参照)。この網は、文政7(1824)年には真鶴地区に、天保5(1834)年には門川村に敷設され、時代ともに北上して、明治9(1876)年には石橋村に敷設されて、この地区には10漁場の定置網漁場ができています。これらの定置網がアジの漁獲に貢献したのは疑うべきもありません。明治32(1899)年には足柄下郡のアジ漁獲量は神奈川県全体の96%を占め、明治38(1905)年までは約50%近くを占めていました。小田原方面でアジが多く漁獲されるようになったのは、どうやら明治28年頃からのようですが、明治40年(1907)には足柄下郡の漁獲が100トン以下となり、150トン前後と安定して漁獲していた三浦郡のほうが再び多くなっています。
大正時代に入ると、明治政府が強力に押し進めてきた漁船の動力化や漁具資材の改良(明治29年86%の麻網から綿網へ)が実を結び始め、他の魚と同じようにアジの漁獲も多くなってきました。大正6(1917)年には明治・大正時代を通じて最高の2026トンも漁獲しています。大正11(1922)年には関東大震災が起こり、アジ釣りの餌であったシラスが不足し、大正12年10月22日に組合長会議で餌シラスを共同購入をして、この困難を乗り切ることを決定しています。大正13(1924)年の神奈川県漁村調査書によると、アジ釣りはイカ釣り(1495隻)、サバ釣り(824隻)、ウズワ釣り(659隻)に次いで漁船隻数が多く、651隻の漁船が稼働していました。アジ釣りによる生産金額は、神奈川県総生産額の約4%を占める主要な漁業となっていました。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】