天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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アジの食品史 Ⅵ泰平の江戸時代

般向けの料理本の先駆けとして寛永20(1643)年に出版された料理物語(作者不詳)には、「アジ、汁、おきなます、酢いり」などとあり、ほぼ同時代に刊行された古今料理集(作者不詳)には、「あじ、焼物(第一なり)、吸い物、汁、すし、酢いり」などアジを使う料理が記されています。このなかの鮨については、享保15(1730)年に発行された料理網目調味抄には、アジはタイ、スズキ、サバ、カツオなどと共にこけら鮨にして食べるとあります。当時の鮨は、現在のようなにぎり寿司ではなく、こけら鮨は箱ずしの類で、材料の魚の身を薄く切ってのせるとこけら(木屑)のように見えることから名付けられています。

 元禄8年(1695年)に発行された本朝食鑑(小野必大著)には、「アジは駿州・豆州(現静岡県)、房州・総州(現千葉県)でとれるものが最も美味である、晩春から晩秋にかけて多くとれ、とりわけ長さ6、7寸(約18~21cm)のもので、丸く太っているものは味わいがはなはだ香美で、あぶって軽く焼くとおいしい、このほかに、酢にしても、煮物にしても、膾とするもよい、漁村では常にとって干し魚にし、冬や春の頃はやせて味がよくないので、干物にしている」とあります。この時代前期には、アジは一般庶民に鮮魚ばかりでなく、干物にしても利用されていたことがわかります。

 では、将軍や大名はアジを食べなかったのでしょうか。

 将軍の食膳にあげてはならない魚は、「江戸のファーストフード」の著者大久保洋子文教大学助教授によると、コノシロ、サンマ、イワシ、マグロ、サメ、フグ、アイナメ、ムツ、ボラ、ナマズ、ドジョウ、フナと干物類です。アジはこのなかにはありませんが、アジを特に多く食べていたようでもありません。

 大名の宴会に使われた魚介類については、麻布台1丁目にある出羽米沢藩上杉家と豊後臼杵藩稲葉家の屋敷跡からマダイやカレイ、イワシ、サケ、カツオ、スズキ、マサバ、コチ、メバル、アラ、マグロ、クロダイなどと共にアジも出土しています。この屋敷では盛んに宴会が行われていたようで、将軍も食べないイワシや下魚として嫌われていたマグロも宴会に出されていました。

 江戸後期の天保2年(1831年)に発行された魚鑑(武井周作著)には、江戸前期の本朝食鑑とほぼ同じ内容でアジが紹介されていますが、ここでも「アジは上下とも賞味する」とありますので、江戸の後期になっても、アジは将軍から庶民まで広く食べられていたようです。

 このように大量のアジを消費する江戸では、日本橋にあった魚市場は各地から持ち込まれる魚で賑わっていた光景が、天保3(1832)年に発行された江戸繁昌記(寺門静軒著)で紹介されています。これによると、アジは夕方に水揚げされていたとありますので、東京湾などの近郊の海で漁獲されたアジがその日のうちに鮮度よく水揚げされていたことがうかがえます。このアジは生売りばかりでなく、鮨に加工されて、棒手振りと呼ばれる鮨売りの行商人によって、「鮨や、鯵のすウ。こはだのすウ」といなせ声で売り歩いていたそうです。
 
汐彩屋のアジのひらき




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社