天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐
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アジの食品史 Ⅶ戦争と平和の時代
昭和前期は世界大戦に突入していく時代です。昭和2(1927)年の第1次山東出兵から昭和6(1931)年の満州事変、昭和12(1937)年の日華事変、昭和14(1939)年のノモンハン事件と日本は国際的に孤立化の道を歩み、昭和16(1941)年に太平洋戦争へ突入していきます。漁業の担い手である若い漁業者は戦争に徴兵され、大きな漁船は徴用され、神奈川県全体の総漁獲量は太平洋戦争が本格化していくに従い大きく減少していきました。昭和16年以前には3万トンあった魚類の総漁獲量は、昭和18(1943)年には約1.7万トンと半減し、終戦時の昭和20(1945)年には約1.4万トンにまで低下しました。アジの漁獲量も例外ではありませんでした。昭和17年のアジ漁獲量が1973トンであったものが、昭和20年には1084トンと半減しています。戦争に伴う労働力の不足は簡単な道具で小型の漁船で行うアジ釣りにまで影響を与えました。
終戦後、神奈川県全体の総漁獲量は終戦の翌年から急激に増加し始め、漁業の素早い立ち直りを感じさせましたが、アジの漁獲量は終戦後もさらに2年間減少していきました。終戦直後には、県下全域で釣や延縄が行われ、特に、三浦半島地区ではサバ釣、イカ釣が盛んに行われました。昭和22(1947)年におけるサバ・アジ釣は573隻、イカ釣は638隻ですが、大正13年(1924)年と比べると、サバ・アジ・イカ釣とも約40%の漁船しか操業していないことになります。
この釣漁業に対して、大量に漁獲する揚繰網漁業は、機械揚繰網が21ヶ統、手揚繰網が38ヶ統操業し、相模湾の瀬の海では夜焚網としてアジの揚繰網が1ヶ統活躍していました。ブリ網は8ヶ統、春網7ヶ統、秋網が12ヶ統、猪口網55ヶ統、桝網13ヶ統が張り立てられ、鎌倉・江の島周辺では打瀬網が312ヶ統も操業しています。これらの漁業はほぼ戦前並みまたはそれ以上の隻数となっています。釣漁業の減少は、労働力が給料の良い大規模漁業の方にとられ、アジ釣りなどの小職にはあまり従事しなかったためのようです。
揚繰網や定置網の活躍によって、アジの漁獲量は、 図6図6(昭和・平成の神奈川におけるアジの漁獲量の年推移) に示したように、昭和24(1949)年頃から急激に増加し、昭和28(1953)年には8462トン、昭和32(1957)年には9960トンと史上最大の漁獲となりました。この漁獲量は、統計が始まった明治20(1887)年の漁獲量の22倍にも当たるものでした。終戦後わずか12年で史上最大の漁獲をあげた漁師魂は感嘆に値します。
その後、アジの漁獲量は、昭和30年代では高い漁獲を維持していましたが、昭和40年代には漁獲が減少し、昭和50(1975)年にはわずか877トンにまで低下してしまいました。これは、アジを多くとり過ぎたためではなく、地球の環境が寒くなったためによるものです。地球は40年周期くらいで暖かくなったり寒くなったりしていますので、これに応じて、寒さに強いマイワシが増え、暖かくなるとアジやカタクチイワシ、スルメイカが増えてきます。これを魚種交替と呼びますが、マイワシが最大の漁獲量をあげた昭和60年代には、アジは最低の漁獲となっていました。マイワシが減り始めた平成時代に入ると、アジが増え始め、現在全盛の時代を迎えています。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】