天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐
どうぞ、食を文化をご堪能ください
アジの食品史 Ⅱ万葉の時代
万葉の時代の食品は、諸国の地誌や生活誌を記した風土記や藤原京跡、平城京跡、長屋王邸宅跡から出土した木簡から知ることができます。
天平5(733)年2月30日に成立した出雲風土記には、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)という神の名がありますが、食の体験文化史の著者森浩一同志社大学教授によると、阿遅(アジ)は8世紀頃のアジの表記だそうです。出雲風土記には、アジがとれる土地は示されていませんが、神にアジの名を付けるくらいですから、きっとアジを食用にしていたのでしょう。
694年に持統天皇によって奈良県飛鳥に遷都された藤原京跡から出土した木簡の一つに、「石井前分贄阿治」とあります。これは摂津国(現兵庫県)武庫郡石井郷から前分としてアジをだした送り状ですが、前分とは、森教授によると、税の収納にたずさわる下級役人にわたす袖の下だそうです。いつの世にも賄賂をもらう役人が幅をきかせていたようです。
和銅3(710)年3月に開都が宣言された平城京跡から出土した木簡には、「紀伊国海部郡浜中郷大原里御贄 安遅魚一斗」とあります。これは、現在の和歌山県海草郡下津町小原付近の里からアジを貢納した送り状だそうです。また、他の木簡では、「山田郡贄安遅四口」とあります。山田郡は現香川県高松市で海に面した土地だそうです。ここからアジが送られてきています。
平城京の閣僚の首班として力量をふるった天武天皇の孫長屋王の邸宅跡から出土した木簡には、「住吉郡交易進贄 塩染阿遅二百廿之中 大阿遅廿口 小阿遅二百口」とあります。これは、交易で入手した大アジと小アジに塩をきかせて、現大阪府住吉から送ったということを示す送り状ですが、塩染阿遅とは、アジを開いて塩をすりこんだものだそうです。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】