勝本浦郷土史11
第二章 元寇
第一節 文永の役
元冠の文本弘安の役については、最も悲惨な被災島として、壱岐の多くの郷土史に記されている。本史も勝本町史、対馬島史、真鍋十香の元寇楊史等を参考に、詳細を記し終えたが、都合により改(かい)竄(ざん)せざるを得なくなり、戦況等についてはできるだけ略し、批判的に記したので物足りない感もする。
文永五年(一二六八)蒙古の使者が、対馬の宗氏に案内されて太宰府に来た。
使者は蒙古皇帝の国書を持参して、その国書には日本に服従を求める内容のものであった。元の世祖蒙古の忽必烈は、四方に武威を誇っていたが東方に一国残っている日本が、元の国に近寄らない事を心よからずと思っていた。その頃日宋間を往来する貿易商船の中継地として我が国に渡航する者も多く、又瀬戸内海や九州辺民が、朝鮮海岸を掠奪して、暴れ廻る風潮も強かった、いわゆる海賊である。日宋間に貿易が盛んになり、元の国と通商しない日本に対し、内心こころよく思っていない元は、高麗から日本の海賊の難を告げて、救援を求められたので、これを機として先ず使者を日本に使わして、元の国に服属する事を求めた。その元の国書の内容は脅迫的なものであった。
国の重大事に驚いた朝廷や幕府では、この事について連日騒然とした。
元の使者は数度に及んだが、これに返事も与えず、その都度追い返している。
このように強い態度に出た幕府は、当然予想される豪古軍の襲来に備えて、西国の幕府家臣に対して、防備を厳にするように命したが、現実には文永の役に際しては、九州の太宰府の前衛である、博多に薩摩大隅の兵を僅かに投入するに過ぎず、諸社寺に対して、異敵降伏の祈願を命令する等の神頼みは甚だしく行わしめたが、大敵襲来に対する、国防上の兵備については万全でなかったのである。幕府が大騒ぎする割には、国防感覚には至って乏しく、特に蒙古軍の襲来の場合には、必ず対馬、壱岐を飛石伝いに襲来する事は、当然であるにもかかわらず、対馬には宗助国を首将とする八〇騎と、壱岐には平景隆の百騎を配備されていたに過ぎなかった。これ位の兵備で前線防衛に有効な防衛はできなかった、これを以て考えても、幕府の前線防備に対する感覚の緩慢さが指摘される。何万人の蒙古軍が襲来する事を予知しながらも、対馬と壱岐に僅か八〇騎か百騎位しか配備されなかったという事は、幕府の考えとしては、当初から壱岐、対馬は放棄して、本土決戦だけを考えていたのであろうか、そうであるとするならば、両島の守護職も島民も悲惨な事である。日本は有史以来かつてない国家的な大試練に直面したのである。
平景隆の戦死
幕府は北条時宗が執権と称して、実権を掌握していた。時宗は僅かに十八歳の若者であったが、未曽有の国難に遭遇するに当たって、自ら進んで執権職になったとある。若手勇者の躍如たるものがあるが、あらゆる点に前線防備に欠けていた為に、対馬、壱岐の相次ぐ敗報にも、幕府としても太宰府としても為す術もなく、文永の役に援軍のあった記録はない。
両軍の戦況については、多くの郷土史等に記され、衆知の事でもあるので要約するが、蒙古軍は文永十一年(一二七四)、総軍三万九千七百人、艦船九百余艘を以て、日本を遠征すとある。
十月三日合浦を発船、六日対馬に来襲、十月十四日元軍は壱岐北西岸より上陸を開始した。壱岐の守護平景隆軍は、庄の三郎ヶ城の前で、元軍と遭遇して、先ず矢合わせとなったが、兵士の数の差はどうする事もできず、景隆軍は窮地に立たされ、後退を余儀なくされた。景隆軍は樋詰城に引き揚げたが、翌十五日元軍は早朝より行動を起こし、樋詰城をとり囲み、そして総攻撃を開始した。昨日の戦いで多くの兵を失った景隆軍の最後は、悲惨なものであった。景隆は一族と共に自刄して果てた。
残った僅かな家来も、ある者は敵中に斬り込み、ある者は自害して果てたと伝えられる。壱岐における文永の役の交戦は、現在の勝本町新城の地域内で展開されているが、壱岐に上陸した元軍の行動については、確実なる資料は乏しく、各書様々であるが、八幡愚童記には、見かくる者をば打ち殺して狼藉す、島民支えかねて妻子を引具して、深山に逃げかくれたり、さるにても赤子の泣き声聞きつけて、捜し求めて捕えける程に、片時の命を惜しむ世の習い、愛する児を刺し殺して逃げ隠れする有様なり」とある。又他の書には、元軍は島の人々を見つけ次第に殺し、女は捕えて掌を突き刺し、穴をあけ珠々繋ぎにして、軍船の船べりに吊して、味方の矢の楯としたという。壮年の男を捕えては耳や鼻をそぎ落として、苦しみもがく様を見てよろこんだという、信じられない残酷な事をした事が伝えられている。真偽の程は判らないとしても、戦争というものは、考えられない信じられない残酷な事が、平気で行われるという事を知らねばならない。戦いとなると非戦闘員である老人、女、子供が常に戦いの犠牲になる事は、いつどこの戦いでも同じである。日本人も中国では、多くの農民の婦女子を惨殺している。
又日本人も中国においては、ソ連兵に多くの婦女子、老人が殺害されている。
戦場では人間も鬼畜化して、人情とか愛情という理性はなくなってしまうのである。戦いに勝たねば自分達も殺される、戦いに勝つという目的のために、人間という良心はなくなってしまうのであろう。最後は博多において、彼我の勝敗いまだ決せざる十月二〇日夜、大暴風雨あり、賊船は厳崖にふれ、多くは破損沈没して、現存は夜に乗して遁れ去ったという。
新城神社
明治十年頃、壱岐島内の有志によって、文永の役の古戦場である、新城の樋詰城跡に、守護代平景隆の霊を鎮祭し、一社を創立する動きが生まれた。明治十六年(一八八三)十二月十日、宮内省より金五〇円が下賜され、同十九年に神殿を建築して、祭神を安置し、平景隆碑を建立した。
明治二九年十二月二日、祭神の平景隆へ正四位が追贈された。
大正二年(一九一三)十二月、神社の創立を出願し、大正五年十一月七日、内務大臣の認下をうけ、同月十日村社に列せられ、社殿、社務所、鳥居等を整えた。大正六年十月五日石の鳥居を建立、大正八年十二月郷社に列せられ、同年十月神饌幣帛料供進神社に指定された。
樋詰城跡(新城東触)
壱岐名勝図誌には次のように説明している。この城は往者庄司の居城なりといえり。本丸東西十八間、南北十四間、堀り周囲六五間、深さ七尺五寸、東の横六間余、南の横十四間余、西横七間余、北横三間半余、惣囲二〇八間、岸の高二間余、現在城址には新城神社が鎮座し、境内には元寇関係の記念碑や平景隆の墓がある。
唐人原遺跡(新城)
唐人原遺跡は、壱岐史要で比定された庄の三郎城址である。
八幡大菩薩愚童訓によると、平景隆は庄の三郎城の前で、元軍と交戦している。この唐人原は古記録にも見える、文永の役の唯一の古戦場である。この外、千人塚、かくれ穴、射場原、火箭辻󠄀等、多くの遺跡が伝えられている。
第二節 弘安の役
弘安の役の彼我の準備
元軍の再度の来襲は、当然予想される事であった。北条時宗は元軍の再度の来襲に備えて、経費を節約し軍備の充実をはかり、北条一族を鎮西に派遣して、九州の武士を統率せしめ、山陽や山陰の武士を率いて守備に当たらせた。同時に博多一帯に厳重な石の防塁を築いた。
しかしそれは飽くまで、太宰府を中心とした防備であった。こうした日本の防備が備えられつつある間に、元においても東路軍と江南軍の日本遠征軍が編成されていた。東路軍は金方慶の率いる、高麗兵一万人と蒙古兵、漢兵の混成部隊三万人、計四万人と九〇〇艘の軍船が配せられ、一方紅南軍は苑文虎の率いる、約十万人の漢軍が、三千五百艘の軍船で組織されていた。元軍は日本再征の準備が整いつつある建治元年(一二七五)四月、太宰府に使者を送り、日本に執拗に服従を迫った。
幕府はこれ等使者に対して、想像もされない程の強硬な手段を以て、筑前博多にて使者を斬殺したのである。こうした日本の強硬なる態度に、元首も「東夷何すれぞ朕の命に従わざる」と怒った。続いて弘安四年(一二八一)六月には、杜世忠以下五人の使者を再度太宰府に送り、使者の国書には、「相通せずんば兵を用ふるに至る、それ孰(いず)れを好む所ぞ」と、相変わらず放漫無礼なるものであった。北条時宗はこの使者を、鎌倉に護送させてその返事代わりに、五人を鎌倉の滝の口の刑場にて斬首の刑に処した。
東路軍瀬戸浦に進攻す
弘安四年(一二八一)先ず東路軍は、朝鮮の合の浦を出発し、途中、巨済島で風待ちして、五月二一日対馬の佐賀村に上陸している。その後壱岐島に向かうのであるが、壱岐島に上陸した日の資料が一定していない。勝本町史には壱岐での戦闘開始を五月二六日以降としたいと記してある、対馬島史には対馬にて戦闘の開始を五月二一日となっているところから、壱岐での戦闘開始を五月二六日以降の説も考えられる。真鍋儀十翁の元寇秘史には、壱岐侵入の確実な日をはっきりつかんでおく必要があるからだとして、それには一般に出生日記と称せられる、弘安四年の日記抄に拠るのがよかろうというのは、本抄が弘安四年五月五日から始まって、同年八月十日までに起こった事件、即ち弘安の役全期間の出来事につき、当時在京の諸家の日記に残っているものを、室町時代に抄録して反古裏に写しとったものであるからだとして、その日記抄の六月二日の条に、「異国襲来去月二二日、壱岐、対馬の二島に討入れし由、鎮西より飛却到る」とある。従って壱岐は己に五月二二日に打ち入られられているのだから、その前日たる二一日の晩までには、少弐資時の戦死があり、守護代を失った壱岐にどっと離戸浦から攻め上ったのが、翌日の二二日と解釈すべきではないだろうか(中略)、その反面には五月二一日、壱岐島に来た事を決定づけるのに少し気になるのは、向こうの東国通鑑に、五月辛西折都茶丘金方慶、日本世界村大明浦(対馬佐賀村)に至るとあり、辛酉は二六日の事であり、高麗史にもこの月二六日諸軍一岐島忽(く)魯(る)勿(も)都(と)に向かうとあり、ともに二六日としてある。
いずれにしても二一日より早い記録はないところから、二一日より二六日の間になると真鍋儀十翁も、壱岐来到の期日の決定を必要としながらも、苦慮されたようである。斯の如く戦記については不明なところが多い。
少弐資時の戦死
当時の守護代少弐資時は、年僅かに二〇歳前後であった、直ちに手兵を率いて瀬戸浦の西側にある高地に陣を布いた。後にここは船匿と称して、今に城址を残している。しかし寄せては返す雲霞の如き敵軍の、撃ち出す火箭鉄砲の前には、どうする事もできなかった。ここでも戦況等は紙面の都合で省略するが、鎮西要路にこう記されている。「異賊船上の高樓に登って、火箭鉄砲を放ち、我兵これが為に砕かれて死創す」と、なかんづく火箭というのは、鉄の缶に火薬をつめ、火をつけると爆発する仕掛けで、その音は百里の外に聞こゆと、大袈裟に記されている。
こうした火器を以て攻められたら、如何に破竹に逸るとも、到底防ぐべくもなかった。敵軍の猛攻に流石に猛き資時軍も、衆寡敵せず断崖上に、背水の陣を布いて、鮮血林満と戦い抜いて、ついに都々和野の露と消えるに至ったのである。
台風一過敵影を止(とど)めず
壱岐を絶滅した東路軍は、江南軍の到着を待って、合流後の本土における大戦果を夢見ていたのであるが、紅南軍の到着がいろいろな都合で遅れた、その間の船上生活に馴れない大陸軍の中には、疲れのために船中に悪疫にかかる者が多くなり、又長い船中生活には、郷愁に陥る者等の悩みは深く、各将間にも意見の食い違い等もあって、志気は衰え、壱岐に退却せざるを得なくなったのである。
「交綏而還、蛮船五〇艘随至」とある。先方の書であるから、蛮船とは日本の軍船の事である。交綏而還とは退却の意である。
退却して壱岐に還ろうとすると、日本の軍船は五〇艘後を追って来たというのである。こうして第二次瀬戸浦合戦となるのであるが、瀬戸浦合戦も都合により省略する。
六月十五日壱岐で合流の筈の江南軍が、平戸附近に着いたのが七月末頃であった。東路軍の主力と、江南軍が合流した時の壮観さは、鎮西要路の形容詞を借りると、「その兵幾百万なるを知らず、壱岐対馬、松浦平戸、筑前の北海を襲い来る、舳路千里にして空を蔽い、鉾戟天に輝いて映々たり、鎮西末だ夷狄の是の如き軍粧を見ず。」と書かしめている。斯くして十四万の兵を投じ、四千四百艘の軍船を以て、再度来寇したが、日本軍の防禦力優勢にして、元軍の本土上陸の機会を与えず、偶々七月三一日の夜半より台風吹き荒れて、翌八月一日に至り、尚一層激しく吹き荒れて、賊船は岩壁に叩きつけられ、押し流されて破壊覆没した。海上の仗屍遠く之を望めば、島の漂流せるが如しと記されている。憶うに二度にわたる来襲に、武器に優れ、訓練に優れ、兵員の数に優れながら、台風のために大損害をうけ、目的を達し得なかった。日本は両役とも戦いに勝ったのでなく、台風のため敵国に大損害を与えたのである。八月、九月、十月には、この方面は台風の最も多い時季である、戦略的に最も台風の多い時季に、海上遠く遠征したところに、元軍の敗因があったのである。特に軍船と雖も、当時の軍船は三、四〇人位乗れる軍船である。台風ともなれば、沖に繋ぎとめる事は至難である。岸壁に繋留すれば、攻撃の的となる、どちらにしても全うする事はできない、以来日本には神風が吹く、神頼みの意識が強くなった事も、否めない事である。弘安の役における史蹟
壱岐神社
弘安の役の古戦場である、瀬戸浦の海に突き出た丘の上にある。
昭和七年に神社創立の許可あり、昭和二三年に祭神亀山天皇、後宇多天皇、少弐資時の三柱の、鎮座祭が執行された。
少弐資時の墓
この墓は瀬戸浦許々良岐浜の丘の上にある。明治三一年元寇記念碑、建設首唱者湯地丈雄、矢田一嘯等の検索の結果、少弐様と里人から崇敬されていたこの墳墓を、少弐資時の墓と決定したものである。
ただしこの墓は伝聞によっているため、少弐資時の墓をめぐって異説もある、また近くには少弐公の記念碑も建立されている。
船匿城
少弐公の居館と伝えられるもので、瀬戸浦の東南の古場の辻󠄀にある。
壱岐名勝図誌に、何れの時何人の築けしかという事を知らず、東は木場に境いし、西は美濃の谷に続き、南は海に臨み岸高し、その上の平なる所一段ばかりありて北は最も高し、東西二町五〇間、南北一町十一間余、周囲五町四二間五尺とある。海岸より切り立つ崖の上に位置する城跡で、第一次壱岐合戦の折の、少弐資時軍全滅の地と伝えられている。
その外江(え)角(すみ)に少弐資時の戦死した所と伝える少弐畑がある。
又館所、せいみ、泣き山、千人塚、かくれ穴等の古跡伝説等がある。
蒙古の礎(いかり)石の伝説も残されている。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】