勝本浦郷土史10
船舶徴発準備
天平宝字三年(七五九)太宰府、壱岐、対馬等要害の地をして、船百艘以上を用意せしめ、以て不虞に備えんと之を許す。(続日本紀)
按ずるに先に天智天皇、朝鮮半島より退嬰の策をたて、沿海の地に防人を置き、烽火を備え、以て九州二島沿岸の防禦を厳にし給いしより、以降相承け孜々として、諸種の兵備を整え、専ら外敵侵入に備えしが、今又両国に令して、輸送船舶百艘以上の微発準備を成さしむ、蓋し機宜の施設たりしを見る。(壱岐郷土史)
ニ関と十四所の火立場をおく
壱岐郷土史には次の如く記してある。弘仁七年(八一六)壱岐に二関と十四所の火立場をおく(日本後記)、按ずるに二関とは、陸上警戒のため、二ヶ所の要路に吏をおきて、行人を誰(すい)何(か)して、以て不時の突発を予防するものにして、火立場とは、沿岸の要所に戌兵をおきて、且つ危急に応じて、烽火を揚げ、以て警報を伝える機関なりとす。吉野家記録に曰く、二関とは可須村見る目浦と、箱崎村の屋頭の関をいうなるべしと(中略)、又十四所の火立場とは、勝本町に該当するものに、見る目と風本と、本宮浦海があげられている。見る目とは現在の串山半島の高地(標高七二メートル)、あたりと考えられ、眼下の海面には見る目浦の名が残っている。浦海は現在の本宮仲触にその名がある。又本宮南触の岳山(標高一一〇メートル)に浦海の崎があって、烽の場所であろうと考えられているが、確実な遺構等は残っていない。
徭人をして要害の埼を守らしむ
壱岐郷土史に、承和二年(八三五)三月、太宰府言、壱岐島はるかに海中にあり、地狭くして人少なくして、危急を支え難し、頃年新羅商人窺う事絶えず、防人を置くにあらずんば、何ぞ非常に備えん、宜しく島の徭人三三〇人をして、兵仗を帯さしめ、十四所の要害の埼を成らしめん之を許す(続日本後記)。按ずるに、十四所に三三〇人の兵員を配置すれば、一ヶ所に約二三人強にあたる。これ屯田組織の警備法にして、即ち国内の正丁を徴して、平時は警戒と農耕に従わしめ、一朝事あらば、直ちに剣戟をとりて、起たしむるの組織なりと見るべきなり。と記されている。
弩(ど)師を置く
承和五年(八三八)七月二五日(太宰府言)、壱岐島設くる所の器杖の中に弩(ど)百脚あり、機調人なく非常に備え難し、請う史生一人を廃して、弩師を置かん府の裁を求む、府茲に覆審を加ふるに、壱岐島申す所理あり、謹んで官裁を請うと許之、右大臣宣奉勅依請とある。
思うに壱岐国司、定員中史生二人の中一人を廃して、更に弩師一人を置かんとするの申請である。当時の官制は大宝令を以て規定してあったので、たとえ下級の史といえども、その改正の手続きは当然の事であった。而して史生一人を廃して、弩師をおかんとするのも、実に辺海の警備に、必要を感じる結果であったのである。
山口麻太郎翁は、壱岐に遺存する防人の弩弾と題して、壱岐高等学校七〇年史に、特別寄稿されているので、参考のため抜粋して記す。
私は(山口翁)大正の末頃、友人から写真に示すような、使途不明の石製置物を一個貰った。勝本町天ヶ原の出土品で、まだいくらでも採集できるとのことであった。他の遺跡には類例の出土を見ず、何であろうかと疑問のまま、数十年経過した。たまたま文久元年(一八六一)の、「御用書留」という、城代役所の日記を見るに、八月十三日に、次の一項があるの発見した。
「砂利石五、六桝、但可須村天ヶ原浜え有之候小判なり。之石前方十俵計(ばかり)、御取寄相成候通之石。
右は御隠宅様御入用に付、早々取らせ差越候様、井手藤右衛門殿より、手(て)本(ほん)石(いし)壱ツ送り来候旨、同役方より申来候に付、早々取らせ指出候様、懸代官原幸右衛門方え、差図におよび候事」というのである。
場所が天ヶ原である事、小判形石製品である点、私(山口翁)の疑問としている品と同一品であることが疑えようである。以前十俵も取って、尚残っているので、五、六桝送れというのであるから、一ヶ所に多量堆積して遺存している事がわかる。遺存の場所とその在り方が、この物の本質を知る条件となるので、天ヶ原から串山半島に、数回にわたり踏査したが、発見することができなかった。弩は中国の古代兵器で、時代により地方によって変差や種類もあったが、要するに機械力を以て、鉄弾或は石弾を発射する強力な弓であった(別図参照)。
壱岐にはこの弩が百却あって、承和五年(八三八)からは、弩師も派遣されて防人の訓練がなされていたのである。生活用具でない使途不明の遺物が、勝本の天ヶ原に限って、多量に堆積して遺存するということは、弩弾以外に考えられない。私は(山口翁)弩の弾がどんな形をしているのか、知らないのであったが、その形と遺存の仕方、遺存の場所から想定して、「使途不明の石製遺物小判形石について」と稿をまとめ、雑誌「西日本文化」に送った。
その掲載誌「西日本文化第一五〇号」を、中国古代史の権威者、滝川政治郎博士に見ていただいた。その返信の内容を参考のため記す。
玉稿を読んで驚きました。小判形の石は、私が久しく求めて得られなかった弩の弾です。私は金田城址(対馬)に参りました際、それを懸命に探しましたが、発見できませんでした。故、友駒井和愛氏は、それを万里の長城で拾ったと話してくれました(中略)。壱岐対馬の防人の屯所には、弩台(後世の砲台に相当)という弩を発射する台があって、そこに弾を蓄積していました。弩台のことは、宋の「武家総要」に図があり、くわしく記事があります。弩の種類も挙げられています。私は(滝川博士)北京在住中、琉璃廠の骨(こっ)董(とう)屋(や)で、弩の金具を売っているのを屢々見ました。北京では子供の頑具の弩があり、子供がそれを発射して遊んでいました。弓の有効距離は五〇歩ですが、弩は百歩です(以下略)。
弩という武器の名は、一般に聞き馴れないので、特別にこの註訳を加えたが、図面を参照されると、大体わかっていただけると思う。こうした事を知ると、壱岐の防人は勝本の本浦上の古城でなく、串山の見る目の山頂にあったであろう事が強く推察される。古代に防人が用いた弾が、天ヶ原に多量にあって発見されたという事は、始めて聞くことでもある。
冑手纏を設備す
貞観十二年(八九〇)正月十三日、太宰府の請により、勅して壱岐島に冑並に手纏各二百具を充たす、彼島もとより甲ありて冑(よろい)なきによるなりと記されている(日本三大実録)。
手纏は昔手に纏いしものであったが、後世弓を射る時肘(ひじ)につけるものなりとある。南朝鮮の白村の戦いに敗れた翌年の(六六四)には、対馬、壱岐、筑紫に防と烽をおき、弘仁七年(八一六)には、壱岐、壱岐に二関と十四ケ所の火立場をおき、承和二年(八三五)三月には傜人三三〇人をして、兵仗を帯して十四の埼を守らしめ、承和五年(八三八)には史生一人を廃して、弩師を増員して、わが壱岐の防禦力は益々充実したのである。
兵庫鳴る
貞観十三年(八七一)正月一五日太宰府言、壱岐島兵庫の鼓鳴る(日本三大実録)。
兵庫とは武器を入れる藏庫であるが、鼓鳴るとは武器の充実を示すには足るものがある。壱岐の史家山口翁は、壱岐国史に次のように記している。私は勝本の本浦の古城址といわれるところに、防人司兵庫等が置かれたところであろうと思っている、それはそのほうが隣地に、印鑰神社があるからである。
印鑰神社はそれら官庁の鍵を保管する所であって、他の神社のように信仰心だけで設けられたものではないからであるといわれている。
弩にしても冑手纏い等の武器にしても、近代の武器に比べると著しく劣弱であるが、当時の軍兵の装甲としては、相当に効力があったもので、兵庫の設備の如き防備の完整を示すに足るものである。
刀伊賊の来襲
刀伊とは朝鮮北東部から、満州一帯にかけて住んでいた、女真又は東丹とも呼ばれ、黒竜江の両岸に国する部族である。刀伊は始め高麗を襲わんとしたが、急に方針を変え、捕虜の高麗人を先導として日本を襲った。
寛仁三年(一〇一九)兵員が五〇隻に分乗して対馬に上陸、続いて壱岐を侵略した。壱岐島司、藤原理忠は戦死し、島民男四四人、女五九人、童子二九人、法師十六人、計百四八人が殺され、捕虜になった者二百三九人、島内で生き残った者は諸司九人、郡司七人、百姓十九人の三五人であったと報告されている。
この役で筑前、壱岐対馬での、殺された者四百六二人、掠奪された者一千二百八九人と、数字の上では明らかに記されている。
賊は馬や牛を殺してその肉を食べ、犬の肉まで食べてまた見つけ出した男女の壮者は捕えて船に乗せたが、老人、子供は悉く斬り殺したという。
時の右大臣藤原実質日記、小右記に、壱岐講師常覚の言として、賊徒三襲、毎度撃退、後不堪数百の衆、一身迯脱とある。
賊徒三襲とは、以前壱岐は刀伊に二度襲撃をうけていたのである、壱岐の講師常覚は、賊徒が三度襲ってきたが、その度に敵を撃ち返したが、数百の数に耐えず、脱出したというのである。
対馬の判官代、長岑諸近は、老母、妻子を掠し去られ、高麗のせる事と思い、連れ戻さんとして高麗に到り、初めて高麗のなすところでなかった事を知ったという。刀伊は対馬、壱岐、筑紫を襲い、帰途、高麗を襲い、高麗の水軍はこれを迎え撃ちて、全軍を壊滅せしめ、日本の俘虜一千二百人のうち、存する者僅か二百人を、高麗はこれを日本に送り帰してくれたという。
刀伊賊上陸地点については諸説があるが、立石南触の戦いの場の辻󠄀に藤原理忠の墓と伝える、長い長方形の石塚のあるところを布代と謂い、その布代を藤城として、藤原理忠の城として、激戦の地として湯の本湾より上陸しているとの説に、壱岐の歴史学者、山口麻太郎は壱岐国史の中で、真甲から反論しておられる。内容は都合により省略するが、学論的に論求する事は大切な事であるが、一千年も過ぎようとしている上陸地点を決定づける事は至難な事である。いづれにせよ現在の勝本町北西海岸であることには間違いはない。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】