勝本浦郷土史12
第三章 倭寇について(海賊)
壱岐の倭寇
壱岐国史に倭寇の語源について、次のように記されている。日本国史大辞典に倭寇について、「我が邦人の支那朝鮮沿岸を寇(こう)略せるを、彼の国にてとなえた呼称」倭(わ)とは支那朝鮮にて、我が国を呼びし称にて、倭寇の定義について、「海上往来の船を却して、物を奪い取る盗賊、南北時代より江戸時代のはじめにかけては、船師の意に用いられたり」とある。
その後日本の歴史学は発達して、日本の歴史大辞典には倭寇について、「十三世紀から十六世紀半ば過ぎにかけて始、朝鮮半島に次いで、中国大陸の沿岸に至って活動した海賊を指して、中国人や朝鮮人が呼んだ名称で、倭(わ)は日本を指し、寇(こう)は賊の意であるから、倭寇とは日本海賊の意である」と書かれている。憶うに日本を侵した元軍を、元寇と呼称するのと同じである。しかし壱岐国史をよく読んで見ると、倭寇という言葉は、正しい交易にも使われているし、半商半賊の場合も倭寇といわれ、広義に解された時代もあったようである。こうした海賊行為も日本人ばかりでなく、中国で組織されたもの、朝鮮人で組織されたものもあったようである。
こうして倭寇は海賊とか、半商半賊の悪名をうけているが、彼等は自ら行動に、何等やましいものを感じていなかったという事である。むしろ神の正義に叶う行動としていた事は、八幡大菩薩の五字を船印としていた事によっても判るように、彼等には理想とする党規があって、道理に叶った生活の中で、人間平等の精神の下に団結していた。
倭寇の侵略行為には、悪事を働くという罪悪感はなく、彼等なりの筆者にも充分判らない、信念に基くものがあったようである。しかし当時彼等に理想の党規があったとしても、それは今日学者の考えるようなものではなかった。しかしその志すところは、道徳的なものが基本となり、衆議による道理的判断が、基本になっていた事は事実である。
当初の海賊行為は小さい集団で、貿易船を海上に待ちうけて、物品を奪っていた小規模のものであった。その後そうした掠奪行為は、十三世紀頃から十六世紀にかけ、日本人の海賊も集団化して、朝鮮半島や中国大陸の沿岸を荒し廻った。大陸の人々には倭寇と呼ばれ、大変恐れられていたのであった。
倭寇の目的は主に、米、大豆等の食糧品であったが、人民も捕虜として日本に連れ帰り、労働力として奴(ど)隷(れい)として使うと同時に、返遷するときの見返りとして、貿易上の条件として、有利にしようとする意図で行われていたようである。倭寇船団は二百隻から、五百隻にもおよぶ大規模なものまであったという。多い時には五千人を越す大集団が、獲物を求めて暴れ廻るのであるから、彼地で恐れられる事は当然である。
こうなると一種の兵団であり、軍事行動である。倭寇の朝鮮侵略の最も激しかったのは、高麗王朝の(一三七四ー一三八八)十四年間に亘る治政下に、実に四百回にのぼる襲撃をうけている。高麗は倭寇の禁止を日本に申し入れたが好転せず、ついに高麗王朝は倭寇によって滅亡したのである。
朝鮮の記録に三島の倭寇という語がある。三島とは壱岐、対馬、松浦といわれるが、朝鮮ではこの三地区を、倭寇乃ち海賊の根拠地と考えていた。彼の地を誰が侵攻したかについては、対馬、壱岐、松浦の地理的条件から、大陸の資料によって、松浦地方の支配者であったようである。
松浦党の諸士が、松浦地方の住民を始めとして、壱岐対馬の人々を倭寇に働かした事が記されている。応永二七年(一四二〇)宗希環は、壱岐と博多の志賀島周辺の、室積安芸の高崎、蒲刈が海賊の住地であると報告している。文安元年(一四四四)に日本に来た姜勧善は、博多から山口に至る地方は、人口も多く土地も肥えているので、人々は農商を業としており、賊が働く事はまずない。しかし壱岐、対馬、上松浦地方は、人居も稀で、土地もやせており、人々は農事につとめず、賊を事としていると報告している。文明三年(一四七一)に申叔舟が撰した、「海東諸国記」には、肥前の上下松浦地方は海賊の居所で、高麗期の終わり頃に、朝鮮半島沿岸を寇したものは、大部分は上下松浦と、壱岐対馬の人々であると断言している。以上で倭寇の主流をなした者は、壱岐対馬上下松浦地方の人々が主であった事がうかがえるのである。
又同じ文明三年(一四九一)の春、筑前、長門、壱岐地方の海賊、朝鮮海峡を縦横に暴れたので、朝鮮の宣撫官は、日本に海賊行為をやめるように要望するために、来朝しようとしたが、果たすことができなかったと記している。斯くして高麗王朝は滅亡して、高麗に代わって李王朝は倭寇の懐柔策にでて、李成桂は海防の整備、沿岸各地の築城、日本への倭寇の禁止の要請を行うと同時に、入鮮した日本人には衣類、住居、官職を与え、貿易上の特権を認める等の方法をとった為に、倭寇も沈静化の方向に向かったのである。平戸の王直に代表される後期倭寇が、最もはびこったのは、天文二〇年(一五五〇)以降であった。しかし王直が(一五五七年)明で殺されると、さしもの倭寇もその姿を消しはじめた。豊臣秀吉は天正十五年(一五八七)島津征伐をして、九州を平定すると、翌年天正十六年(一五八八)海賊禁止令を出した、そして各大名は責任を以て海賊を取締り、もしその領地内から、海賊が出た時は、領地を取り上げるという、厳しい処置をとったのである。この為に壱岐、対馬、松浦を基地として、大暴れしていた倭寇達も、その姿を消してしまったのである。
思えばその船上には、八幡大菩薩の旗を靡かせ、赤銅色の肌に赤褌胴巻を装おい、長刀を背に負った、ざんばら髪の海の荒男たち、それが倭寇と呼ばれるもののイメージであった。彼等は鉄腕一振り扁󠄀舟を操って、高麗、朝鮮や明国を荒し廻り、更に遠く南海にまで足を伸ばし、日本人の武威を輝かした、いわゆる日本人の海外発展の先駆者達であったとして、大きく宣伝された時代もあったのである。
倭寇発生の原因
倭寇発生の原因については、見方、考え方は異なるが、郷ノ浦の呼子丈太郎氏の壱岐の海賊論には、元寇による被害の最も激甚であった、壱岐、対馬、松浦の武士団や住民が、二度に亘る蒙古、高麗の襲撃をうけ、非戦闘員である女、老人、子供まで、余すなきまでに惨殺された。その蒙古や高麗が、また三度襲来しないという保証はない。一時は島に人影も見ない状態となったとしても、その後島に復帰した島民も、戦いに恐々の日を送ったであろう。老人や妻子の生命も守らなければならない、敵が来襲してからでは遅い、敵の内状を探り出して、それに対拠する準備も必要である。
過去二度に亘る来襲に、何等の防備もなく、惨敗した事を反省して、自分達の島は自分達で守らなければとの、意識は強くなっていたであろう。こうした意識憂慮から発生した行動が、当時の勢いとして偵察や復讐を意図する、日本側の元寇襲来を考えずに倭寇は考えられないと記してある。むろん蒙古襲来によって、その後の倭寇の行動が、より活発になった事は前述のように否めない事実であろう。しかし倭寇の発生は、元寇の役以前から行われていたようである。むしろ高麗は元に対して、日本の海賊の難を告げて救援を求め、それを口実として、元は日本に対して服属を求めている。倭寇の発生については、いろいろな条件が重なった事を認めなければならない。
第一に日本の国内的事情、南北朝の内乱である。中央政情の乱れは当然地方にも影響する、日本の政治にも倭寇を取締るだけの治世が行われなかった事に原因がある。調べて見ると倭寇という言葉は、正しい交易にも使われているし、半商半賊の場合も倭寇と呼ばれ、広義に解された時代もあったようである。こうしたところに取締りのむずかしさがあったのではと思われる。第二に高麗の国状である。当時の高麗王朝は内政不備のため、外防にまで力が行き届かず、武力によって倭寇対策もできず、高麗王朝は倭寇のため滅亡したとされている。
第三に三島の倭寇といわれる位、壱岐、対馬、松浦は、倭寇の根拠地といわれる位、地理的に朝鮮大陸に最も近距離にあった。対馬は地勢上田畑が少なく、島民の食糧にも窮した。太宰府は筑前から米を船にて輸送させたが、海賊のため奪われる事が多く、壱岐の水田を対馬の食糧に宛てたが、輸送の困難は同じで、取りやめた事が記録に残されている。
食糧米の不足は対馬だけでなく、九州の南部の耕地の少ないところは、朝鮮半島に求める事となり、朝鮮半島ではこうした正しい交易者にも、倭寇と呼んでいたという。
勝本と倭寇
倭寇と勝本港の関係について、勝本港を基地として、どのような海賊行為が行われたかを記す事が目的であった。壱岐郷土史の多くを再度通読したが、壱岐、対馬、五島を中心とした倭寇がどんなものであったか、全体の活動はわかるが、勝本港を中心とした倭寇の動きについては、得る事が少なかった。古代より勝本は、壱岐の北の玄関として、博多、壱岐、対馬、朝鮮、中国大陸と、跳び石伝いの重要な港である。
勝本港が倭寇と関係がなかったという事は、その地理的条件からも、絶対に考えられない事である。壱岐が倭寇の基地であった事は、あらゆる書に記されている。又壱岐人の倭寇に関係した人物も多く登場するが、勝本港の地名は出てこない。ただ勝本に住んでいた早田藤九郎と、湯の本潟長江の長者、王子五郎と伝説が伝えられるに過ぎない。それは倭寇という性格上、記録にとどめる事を心よしとせず、残されなかったか、壱岐の諸氏の分割統治のために、戦国時代のような世代が長く続いたために、資料が分散したか、焼失された事も考えられる。
兎にかく縦横に、長い間活躍した倭寇である。勝本港も基地として利用された事は、間違いないと思っても差し支えはないであろう。
壱岐国史には倭寇と壱岐について、又勝本町史にも倭寇について記されているが、他に伝説として、新町の上の方の山に、古(ふる)城(しろ)という小高い雑種地があった。地方の人は藤(ふじ)城(しろ)ともいっている。むかし倭寇(海賊の頭目がこの城に住み、沖を通る船を襲ったともいわれる(現在みやま荘の住宅になっている)。
倭寇についての記録は、朝鮮や中国に記録が多い事も、倭寇によって如何に大きな被害を受けたか判るのである。筆者も若い頃、壱岐の先祖は流島人とか、海賊の末(まつ)裔(えい)であるとか、余り有難くない事も聞かされたが、別にそうした事を気にした事もない。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】