勝本浦郷土史9
魏志倭人伝と原の辻󠄀遺跡
原の辻󠄀遺跡については弥生遺跡の項に、一支国(壱岐国の主都)であった事を公式に確認された事を記した。魏志倭人伝に登場する三〇ヶ国の国都が特定されたのは、全国でもトップニュースであり原の辻󠄀が初めてである。
近年、歴史的、観光的必要性や開発の必要から、遺跡の発掘調査が盛んに行われ、その中には邪馬台国のロマンを求めて、多くの候補地が挙げられた。前述しているので多くは記さないが、伊都国の王都であり邪馬台国の地であると、糸島郡前原町(現前原市)も発掘品から、邪馬台国の名乗りを挙げた。筆者も三度現地に行ったが、学者間の統一に至らなかった故か、今は埋められて公園化されているが軈ては、ここも伊都国の国都として確認されるであろう。
又佐賀県の吉野ヶ里遺跡も、邪馬台国と思われる古代遺跡が広大な範囲で、多くの貴重な遺跡が発掘されて、一時はベールをぬいだ邪馬台国に日本国中が湧き感動して、テレビ、新聞を見た時もあったが、その後総合的に研究の結果、邪馬台国以前のものであるとされて、邪馬台国論は影をひそめているが、当時の何処かの国の主都であり、国都であった事には違いはないであろう。発掘品の規模から国の史跡に指定され、施設化されて、観光地として大きく飛躍発展している。
このように邪馬台国の三〇ヶ国の一国の主都となる事も、容易な事ではないが、学者間で大した異論もなく決定した事については、それだけに根拠があるのである。他の国に比べて島国であり、国も小さく発掘規模も吉野ヶ里遺跡に比して大きく劣るが、現在壱岐に原の辻󠄀以外に、他に候補地らしいところはない。魏志倭人伝に壱支国には、卑狗と卑奴母里という統治者がいた事が記されている。これからの発掘品によって、一支国の王都であった事が実証されるであろう。
原の辻󠄀遺跡が魏志倭人伝三〇ヶ国の中の、最初に一支国の王都であったとの結論は、壱岐島民にとっては素晴らしい意義と希望を与えてくれる。今後この原の辻󠄀遺跡の解明は、幻の王国邪馬台国の実像に迫る意義をもっている。日本国中の邪馬台国に対する関心のある者にとっても、大きな関心事であり、壱岐国創始以来の最も大きな価値あるビックニュースでもある。壱岐でも最も大きな素晴らしい観光地として、浮上発展するであろう。
そうした意味で原の辻󠄀遺跡が弥生時代の壱岐の拠点集落王都であったとの意義づけられた事を、心からうれしく思うものである。
邪馬台国を求めて野生号勝本港に来る
世紀の快挙と騒がれた野生号の壮途は、日本中の大きな話題の中に、ロマンを求めて昭和五七年七月二九日、魏志倭人伝のコースに従って、午後三時十分勝本港内、五百余隻の漁船のフライ旗と、古代船を一目見ようと多くの島民が海岸通りを埋め尽くして、熱烈な歓迎の中に、両舷に十四丁の擢を揃えて、勇ましく勝本港内に入港した。三時二五分黒瀬公民館前の岸壁に接岸と同時に、祝意の花火が打ち上げられ、万歳と大きな拍手の中に、日焼した一行三〇余名は元気に上陸した。
野生号は船長一六・五メートル、幅二・二メートル、排水量十三トン、定員三〇名、漕ぎ手人数、韓国人十名、日本人二〇名、主に水産学校の生徒である。
対馬より三二・三哩を二日がかりで、母船より曳航もうけず、渡航を完遂しているので疲労はしていたが皆元気であった。野生号は倭人伝のコースに従って、巨済島(釜山の南岸)まで来るためには、天気のよい日だけを選んで、西岸から多海島を抜け、南岸の閑麗水道へと、浦や津を泊り継ぎ、長い船旅を経て、たどりつかねばならなかった。昔は海岸の島伝いに南し東し来たが、古代人は決して自然に逆うような無理は出来るだけ避けて、安全かつ確実な航海をしていた。櫓や帆で航海していた昔は、急いだ航海は出来なかったのである。巨済島から対馬に渡るには、可成りの準備と決心が必要であった。昔、勝本でも対馬に漁に出る事があったが、水盃をして出船していたそうである。海は街道といいながらも、海の街道には常に危険があった。そうした危険をおかして、当時の人はどんなにして航海をしていたのだろうか、それを追体験するのが、野生号の大きな目的であった。
出発して途中、幾多の困難に遭遇したが、八月五日、四六日振りに、最終地点である博多に、乗組員一同無事に到着した。
第五節 古代壱岐及び勝本の防備
壱岐、対馬、筑紫に防と烽をおく
西暦六六〇年唐は新羅と連合して百済を攻めた。百済は日本に扶けを求めたのである、百済と日本とは長年親しい関係にあったために、日本側も百済を救うために、六六三年に南朝鮮の白(しら)村(すきの)江(え)に戦ったが、唐と新羅の水軍のため大敗して、朝鮮半島から全面的に引揚げ、日本府を筑前太宰府に移した。こうなるといつ唐や新羅の軍が、日本に攻めて来るか判らない。白(しら)村(すきの)江(え)の敗戦に対する、大和朝廷の対応は素早く、翌年の六六四年には、壱岐、対馬、筑紫に防と烽をおき、筑紫には大堤を築いて、水を貯えて水城を造る。博多方面から太宰府に入る関門には、大きな土手を築き水を貯えたのである。当時の防とは現在の国全体の国防と異なり、国防の最先端に置かれる、防備監視の施設で「崎守り」先守りの意である。
烽は「とぶひ」といって、高い所に火を焚いて、夜は火の光により、昼は煙をあげて危急を知らせる施設であったから、遠見のできる範囲内の至近距離に、次々に焚き継いで、太宰府に至るものであった。
烽にも当時の烽と、西暦一六四一年若宮島武の辻󠄀におかれた、遠見番所の烽台とは、烽そのものには大して変わりはないが、規則等については年代的に相違のあることは当然の事である。若宮島の烽台の規則等、遠見番所については、本書の遠見番所と烽台のところに記しているので略するが、火や煙を挙げて危急を次々にリレー式に知らせる事には変わりはない。火や煙をあげるだけでは内容が判らないので、当時といえども、烽に対する規約はあったのである。
防人の制度は幾度か変化しているが、凡そ兵士の京に向かう事を衛士と名付け、崎辺を守る者を防人と名付けていたようである。
防人は筑前、肥前にもおかれていたが、主力は壱岐、対馬であった。当時の防人は現地の者でもなく、九州の者でもなく、壱岐、対馬、筑前に配備される防人は東国の国々の成人男子であった。しかし防人に選ばれた家族は、税金は免除されたが、弓矢、太刀等の武具をはじめ、往復の旅費や食糧まで自己負担しなければならず、その負担は大変なもので、防人一人を出すとその家は、潰れてしまうとまでいわれていた。
選ばれた防人達は、出身地の国毎に役人に連れられて大阪に集められ、大阪より船に乗り九州の太宰府に着くのである。太宰府にて防人としての訓練をうけ、任地に着くと防人達には、食用田が与えられ、田畑の耕作をすることによって、食料の自給をさせられていた。食用田は勤務先の近い土地が与えられたとあるが、良田が与えられたようでもなかった。
西暦六六四年に、壱岐、対馬、筑紫に防と烽をおいた事は、歴史に明らかであるが、防人が壱岐の何処におかれたか明らかではない。万葉集に防人に対する歌が沢山ある事は著名である、その歌の内容から串山の見る目浦の高地の説が強い。又壱岐の他の場所に当時の防がおかれた事は聞かない。山口麻太郎翁は壱岐国史に、地勢から見て外寇の実例から考えると、勝本であったであろう。賊は北方から来る、始めに勝本を狙うのが常識である。隠れ場所があり、逃げるに容易でなければならぬ、私は(山口翁)勝本の本浦の上の本浦城址(古城)が、それではないかと思う。附近に印鑰神社のある事が、それを証していると言ってもよい。
兵庫と共に防人司もそこにあったであろう。そしてそれ等官印の鍵が、印鑰神社に保管されたものであろうと思うと述べられている。
又烽にしても、烽山の地名が串山半島の少し離れた、東の高台(標高八六メートル)にある。烽のあったのは、この烽山ではとの説もある。こうして防人の地にしても、烽の場所にしても、何処に置かれていたという確証はない。
斯うした歴史的由緒をはっきりさせる事は、大切な事であるが、約一二五〇年を過ぎた今日、こうした事を明確にする事は、むずかしい事であるが、考古学、歴史学者が相寄って、シンポジウム等して解明する事はできると思う。
壱岐の歴史学の上からも、勝本の歴史的価値を高める上からも、解明に努力してもらいたいものである。斯くして東国の防人は、七〇数年続いたのであるが、天平二年(七三〇)に諸国の防人を停むとあり、しかしこれは防人の制を廃止したものではなかった。壱岐、対馬の防人はそのまま存置して、天平九年(七三九)九月には、東国の防人達をすべて本国に帰して、筑紫の兵をして、壱岐対馬を守らせる事にした。ところが筑紫の防人では、国防の最前線を守る事に問題があったのか、再び東国の防人が復活する、ところが天平宝字元年(七五七)、三度東国の防人が廃止され、西海道の兵士がこれに代わった。
二年後の天平宝字三年(七五九)、重ねて東国防人の復活を乞うているが許されていない。筑紫の兵士ではとても辺要の地の防衛ができないというのが、その理由であった。延暦十四年(七九五)防人の制度が行詰り、壱岐、対馬だけに防人を置き、それも現地の者を以てこれに充てたが、九世紀末になって、防人の制もついにその姿を消してしまっている。
壱岐、対馬、筑紫に防と烽を置いて、東国の防人をして守らせて以来、西暦七五〇年まで、約九〇余年遠く、辺境の壱岐の涯に来た防人の数は多くに及んでいる。三年間の勤務中に死去して、故郷に帰れなかった人も多くいたであろう。又妻子のいない者で、そのまま勝本の地に居ついて、この地の者となった者もいたであろうが、多くの者が父母、妻子のいる郷愁に、今と違って電話がある訳でなく、便りも十分届かなかった頃である。三年間の任期を無事につとめて、帰国して妻や子や両親に逢える事だけを、祈って勤務したであろう。哀別離苦悲慕の情は、千幾百年を隔てた今日も、防人の悲歌として、万葉集に多く記され、壱岐名勝図誌にも壱岐に関するものが多く摘出されて、我等の心を動かすものがあるが、都合にて省略する。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】