勝本浦郷土史8
女王卑弥呼
さて多くの考古学者、歴史学者間で長年探し求められる、当時三〇ヶ国を治めた女王卑弥呼は、何処に住んでいたのであろうかという事は、考古学的にも又観光的にも重要な事であり、今日まで多くの学者が探求しているが、結論は出されていない。今後結論が出るとすれば、大事に葬られているであろう女王卑弥呼の墓が、発掘されて確認された時であるが、確認するといっても一七五〇年前の事である。
卑弥呼は一体どんな人物であったか、魏志倭人伝の約二千字に及ぶ、終わり頃を読み易く解説して見る。
西暦一九〇年頃、今より約一八〇〇年前頃、倭の国大いに乱れて、戦いが絶えなかった。やがて一人の女王を共立して、その下に統一国家になった。これが強大な邪馬台国であり、女王卑弥呼が新しく統率者として登場するのである。
彼は鬼道に仕え、よく衆をまどわすとあるから、巫(み)女(こ)的な神がかりの占師であったのであろう。多く年をとっていたが、同伴の男はなく独身で、その弟が一人居て、政治を扶けていた。女王は宮殿の奥深くに住み、めったに姿を見せず、それでも自分の周囲には、千人の婢(しもべ)を待(はべ)らしていた。
女王卑弥呼の住む宮殿は、やぐらを組み柵をめぐらして、常に多くの兵によって守られていた。まさに階級社会の女王にふさわしい生活をしていた。又女王の政治力は宮殿の奥深くに住み、めったに姿を見せなかったというが、約六〇数年の間に、倭の三〇ヶ国を従えて来たばかりでなく、国際的にも非常に敏感であった事が判る。ほとんど弟が補佐して、国を治めていたと記されているが、外交識見には優れていたのであろう、難升米という使者を魏の国に派遣して、いろいろな貢物を献上して、魏の国との外交に努力していた。当時魏の国は世界一の強国といわれていた。魏王はこれに感じて、遠い所から使を遣わして貢献するは、これ汝の忠考我甚だ汝を賞む、今日からは卑弥呼を以て、魏の国に親しい倭王となし、金印紫(し)授(じゅ)を与え、貢物に対する答礼に、いろいろな品々を送ったと記されている。
こうして最も強国といわれた、魏の国王とは特に親しい国際関係をつくりあげたのである。卑弥呼は西暦二四〇年から、二四八年の間に死亡したとされている。経百余歩の塚をつくり、卑弥呼に従って殉葬した奴婢は、百余人といわれている。卑弥呼の死後男王を立てたが、国中が治まらず誅(ちゅう)殺(さつ)し合い、当時千余人が殺されたという。そこで卑弥呼の宗女、壱与年十三歳であったが女王となし、国中漸く治まったと記されている。
九州説と畿内説
邪馬台国について、最も関心が傾注されているのは、三〇ヶ国を治める女王卑弥呼の住んでいる所はどこであったかという事であるが、現在大きく分かれているのが、畿内説と九州説である。畿内大和説は、九州北岸から水路東へ、瀬戸内海、又は日本海に向かい、陸地を辿って奈良附近を、邪馬台国とする説である。九州説では多く名乗りをあげている、その重なるところを挙げると、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里においては、邪馬台国と思われる、古代遺跡が広大な範囲であらゆる遺跡が多数発掘され、一般の人々の関心も高まり、一時はベールをぬいだ邪馬台国に、国中が湧き感動したが、後に至って邪馬台国以前のものではないかとされている。
その外に糸島郡前原町、福岡県では甘木市、久留米の八女、瀬高町附近、長崎県の島原半島、大村一帯、大分県の宇佐、熊本県では菊池の玉名等の名がある。最内説の中にも、邪馬台国大和朝廷同一説、邪馬台国大和朝廷断続説とに分かれており、九州説にも邪馬台国大和朝廷独立並行説、邪馬台国と大和朝廷不連続、邪馬台国東遷説等に分かれ、それぞれに学説も異なっている。
ここに有名な学者の異なった学説を比較対照して見ると、参考になる事も多いが、専門的になり私如き者の多く記すところではないので簡単に記す。
江戸時代の有名な新井白石は、畿内説を考えていたが、邪馬台国を大和にすると、昔の天皇が中国に従属する事になり、皇室の尊厳を傷つけるとして、改めて邪馬台国を、筑後の山門郡に変更した。
本居宣長は邪馬台国は南方でなく、東方であるとして、邪馬台国畿内説に近い説をとった。宣長の考証に添った説では、卑弥呼は大和朝廷の「姫子」乃ち神功皇后となるが、宣長は立場上、天皇家の中国への朝貢を認めたくなかったので、偽階説に立ったものとされている。
本居宣長の後には、明治四三年白鳥庫吉が九州説を唱え、内藤虎次郎が畿内説を発表したのをきっかけにして、畿内説と九州説の学者間の論争が活発になった。大正、昭和の時代にも多くの興味深い発表がなされたにも拘らず、戦前の邪馬台国研究は、古代史の研究の主流になり得なかった。戦前は天皇中心説でなければ、万世一系の天皇歴承説を覆す事になり、学者間でも大びらに論及すること、避けた面も多くあったのである。それにしても両説については二つに分かれた。学者には国の学者とか、地方の学者など区別のある筈はないが、我田引水がないでもない。九州の学者は九州説唱える人が多く、他の学者は畿内説をとる人が多いようである。現在では畿内説と九州説を、学者間で統一する事は、学説であるだけに容易でないまでに、意見は真二つに分かれているといえる。
里程について
邪馬台国を知る上において不明なところが多くあるが、女王卑弥呼の存在した方位が判明すれば、不明とされている三〇ヶ国々も判明できるであろうと思われるが、その里程も論争の中心となっている。
魏志倭人伝を読んで一海を渡る千余里という事が多く記されている。普通読む者をして迷わしめる、朝鮮ー対馬ー壱岐間は五〇キロメートル位で、里数にして十二、三里で大差はないが、いづれも一海を渡る千余里と記してある。魏志倭人伝の里数の解釈については不明なだけに、異なった解釈が飛び出してくる。里程の解釈については、自分等の如き者の解明できる事ではないと思いながらも、自分なりの解釈もあって、多くの時をこれに費消した。国によって、又時代によって里数の距離が異なる事を知らされたのである。豊臣秀吉時代の天正年間に、それまで六町を以て一里であったが、三六町を以て一里とすることになった。
何の書で読んだか思い出さないが、自分の忘備録に雑令曰くとして、凡度地五尺為歩、三百歩為里、天正年間一里の行程を定め給う。地の三六禽を表わして一里とす、諸国一里塚をつかしむ、上古の一里は法定らず一町にもあれ、五町にもあれ、里(さと)より里(さと)までを一里という一里の義なり、然れ共大概六町なり、一歩は六尺、一反は六間、一町は六〇間、一里は六百間として、この坪数に六六を合わせて、今の三六町なり。
明治初年頃奧州には所によりて、六町一里のところありといえり。
鎌倉の七里ヶ浜も四二町なり、これ六町一里の割なり、海東諸国記にいう、道路用日本の里数その一里は、これらみな六町一里とせり。
ある説にいう、「国に上(よ)り(往古の事)今も三六町一里あり、又四八町一里、五〇町一里ありと」当壱岐州は三六町一里なりと。
豊臣秀吉時代の天正十四年、それまでの一里六町を三六町を以て一里とした事と、天正年間地の三六萬を表わして、三六町を一里とした点は時期的に一致している。
昭和五四年中国領事館を長崎県に誘致するため、初村県議長に先導されて、筆者も中国を訪れ万里の長城を見学する機会を得た。万里の長城は中国古代の偉大なる建造物で、今より二、七〇〇年前頃、中国の北辺に割拠した諸将が、近隣する勢力の侵攻を防ぐため、それぞれの領土内に城壁を構築したものであり、西紀前三世紀の時代の奏王朝時代に、中国が統一せられてから、ばらばらに築かれた城壁は、一つに繋ぎ合わされたものであるが、全長は一万二千華里、(一華里は中国の一里)日本の里数にして約六千キロ、里数にして約一千五百里位である。山の頂上に蜿蜿と連なる雄大さと、何千里の山上に車のない建設機器のない二、七〇〇年前に、あれだけの物資を運んで築城した中国人の偉大な労働力に驚いたのである。
当時は万里の長城であるから、素直にというより知らないままに、日本の里数の万里と考えていたのであった。今の日本の里数の約七分の一が中国の一里である。三国誌を記した魏の時代の一里とは、どの位の距離なのか中国人による邪馬台国論の、「孔子家語」の王言解には周制では、三百歩を一里とすると記してあり、明代の張自烈の撰した「正字通」には里路(ろ)程(てい)なり、三百六〇歩を以て一里とするとあり、顧炎武の記した「日知録」には、古の者三百歩を里とするも、今は三百六〇歩を以て里となすと記している。顧炎武は明末から清朝にかけての人で彼のいう今とは、明の時代を指している。魏はそれより遥かに以前であるから古い時代に属すべきである。斯くして当時の中国に於いても路程は一致していないようであるが、当時の一里は今の四一五ー四五〇メートルという長さになる。日本の一里は約四千メートルとされているから、日本の現在の九分の一が中国の一里となるようである。大体に於いて中国の一里と日本の一里を知ってもらえばよいと思う。他の中国の書にも魏の当時の一里は、日本の現在の四五〇メートルと記してある。こうした研究によって自分の里程の解釈が一歩前進した如くに感じていたが、これも自分の研究の課程に過ぎない。最近、宮崎康平著の邪馬台国論を読んで、それには倭人伝の里数は実数によるものでなく、一日分の行程を陸路で五〇里、海路で百五〇里に換算して、記録されているものであると記されている。魏志倭人伝の著者は、実測したり人から聞いて、実地を確かめて千余里と書いたものではない。それは朝鮮ー対馬ー壱岐ー松浦間は、それぞれに距離にいくらか差があるのに、それを実距離と関係なく、同じように一海を渡る千余里と記載されているからだと記されている。自分の調査した事と全く異なった見解である。何故に陸路の場合は五〇里、海路の場合は百五〇里が一日分の行程に相当するかの問題については、この附近の海は気象の変化が激しい海域である、航海には風待ち、お天気待ちというのが船旅をする者の常識である。特に追風の順天の日を選ばねばならない。帆船でも好天気の順風を選べば、巨済島から対馬まで朝早く発つと、その日の中に到着する事ができるのである。この事は今も昔も変わりはない。南東の風から南西の風、北西の風とおよそ一週間を周期として、この附近の海風は吹き変わるのである。安全でかつ確実な最良の船立ちを選ぶとすれば、一週間とはまさに適切な事であるというべきであると述べられている。要するに千余里とは、一週間のうち好天順風の一日を考慮しなければ、昔は安全な船旅はできなかったという意である。
また魏志倭人伝の中に、壱支国の場合方三百里とある。これも不可解であった。壱岐の周囲は約三五里余であるから壱岐の島一周陸行するのに二日間必要となるが、これも雨の日、風の日等を計算しての事であろう事が分かるのである。筆者も魏志倭人伝の里程の解釈が、宮崎康平の説が絶対間違いないとは信じていないが、当時の事を思うと正しい論理である。
一海を渡る千余里の解明に、多くの日数を費消した事を惜しいとは思わないが、矢張り古代の事を解明するには、むずかしい事が多くある事を改めて深く知らされると共に、魏志倭人伝の解釈のむずかしさを深く知らされて、古代の事を知るには多くの書を読まねばならない事を痛感したのである。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】