天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

勝本浦郷土史7

勝本浦郷土史7

 

古墳

 壱岐には数多くの古墳がある。自分達の子供の頃は、古墳という学名は教えられなかったようである。鬼の岩屋、鬼が住んでいた住家と大人もそう信じていたのであろうか、大正の終わり頃、この中に入ってた事を臆えている、蝙蝠が飛び交っていた、何か恐い感がした。

 壱岐は鬼ケ島といわれる程に、鬼に関係する事物が多い。

 現在では子供でも古墳を鬼の岩屋、鬼の住家であったと思う者はいない程に、古墳は歴史的に見直され、観光にも役立っている。

 とにかく壱岐には古墳が多い事は定説となっている。昔は壱岐に三百余基あったといわれているが、現在では半壊したものを含めて二五六基が残っているという。

 勝本地区には以前の可須区に二三基、新城区に十九基。本宮に八基、布気地区に二六基、立石に二五基、計百十一基があった。

 勝本の古墳は調査の結果、古墳時代の後期の六世紀から七世紀に築造されたものとされている。

 勝本町内の分布状態から考えて、山口麻太郎翁は壱岐島の北部の要港勝本港を擁して、一大勢力のあった事を示すものであるとの説もあるが、特に布気、立石地区に纏まった古墳郡のあることは、カラカミ遺跡を中心とした、その頃の壱岐の支配者、豪族の古墳ではなかろうかと思われる。全体的に古墳の多い割に、副葬品の少ないようであるが、平成元年七月、勝本町掛木古墳、笹塚古墳発掘調査が行われ、笹塚古墳は九州でも最大級の、上方下円墳ではないかと見られ、金胴馬具類、亀型節等から壱岐最大の豪族の墓ではないかと見られている。いづれにせよ百合畑、布気地区の古墳郡を中心に、県に於いても大きな施設が計画されている事から、古墳も新しい観点から捉えられる時代となっている。

 

第三節 壱岐の島名

 壱岐の島名については、調べる程に古来より、種々の文字で記されている。古い三世紀末頃の今より一、七〇〇年前頃の、魏志倭人伝には、一大国と記してあるが、これは一支国の誤りである事は、学者間でも一致している。

 その後四、五百年後の古事記には、伊岐島と記され、少し遅れて日本書記には壱岐島と記され、万葉集には由岐能麻、其の他由岐島、伊吉島、伊支、壱※1岐、以祇、一岐島、伊岐島、壱州等がある。

 古事記の大八州国づくりの一節に、伊岐の島を生み給いき、又の名を(あめ)()()()(ばしら)(天一柱)ともいう日本の国都制が布かれた時も、壱岐は国に準ずる扱いをうけ、国司がおかれた事等思うと、日本にとっての昔の壱岐の存在価値は、その地理的条件から、重要な地位にあった事が想像できる。多くある島名も一支国、伊岐、伊支、壱※1伎、以祇、一岐、壱州等は、壱岐に通じる、由岐能麻、由岐島も、ユとイの相違だけである。別けて考えても由岐は雪に通じる事から、雪の島と壱岐の島に大別する事が出来るのではなかろうか。壱岐の島を解釈するに、「辛国に渡るに、先ずここに船を止めて(やす)む故に、(いき)の島かといえり」とある。壱岐国史には郡郷考に、「この島に雪の白浜という地ありて、遠方より望めば雪の如く見ゆともあり。」こうした説に迷わされて、筒城浜を引合いに出したり、本宮の雪の島を以て、実証しようとする論議も出たりする。息の島でもない、雪の島でもない、往きの島であった。日本民族の発展展開の姿勢が、その活動の必要から指呼した名称であったと記されている。こうしてみると往きの島、乃ち大陸へ往きがけの島の意が、壱岐の島になった事が考えられる。現在では壱岐の島に統一されているが、島の人でも僅かであるが、壱州と呼ぶ人も見うける。雪の島と呼称する人はいないが、東京では壱岐人会でなく、雪州会と呼ばれている。壱岐人会よりも雪州会の方が、智識人、文化人の集まりであるような気がする。

※1人偏に壱

 

第四節 魏志倭人伝と壱岐

概要

 魏志倭人伝の邪馬台国については、平成元年二月佐賀県神埼郡の吉野ヶ里において、邪馬台国と思われる、古代遺跡が広大な範囲で、多数発掘され、毎日テレビ、新聞で放映、報道され、一般の人の関心も高くなった。それ以前、昭和五〇年七月、倭人伝のコースを追体験するため、野生号が勝本港に入港した関係もあり、又壱岐国と魏志倭人伝とは関係もあるので、ある程度詳しい研究に迫られ、その後、前原遺跡、吉野ヶ里遺跡等、現地に行って調査すればする程に、その内容は奥深く、ロマンを求めて種々の書をあさって研究するうちに、その虜となり、無能なる老の頭脳を酷使して調べる程、学者の諸説も一致せず、泥沼に足を突っこんだように、抜き足できぬ状態となり、纏まりがつかなく自分の能力の限界を越えた問題に、取り組んだ自分の悪さを顧みるのであるが、反面こうした大きな問題にふれる興味も多くあって、学ぶことの意義の大きさに感動をおぼえた。漸く文章に纏めたが、あまりにも大きなものとなり、浦史として大きく逸脱する事になるので整理し、九州説、畿内説、方位、里程等も多くの学者間に、一致していないので簡略に記したが物足りない気もする。

 

魏志倭人伝とは

 魏志倭人伝とは如何なる書であるのか、魏志倭人伝の魏とは、中国の漢がほろびて、魏、呉、蜀の三国時代となり、この三国の当時の歴史を纏めたものが三国誌であり、倭人伝とは唐の代以前から、中国が日本を指して呼んでいた呼称である。乃ち魏の三国誌時代の倭人(日本人)の伝記という事である。

 邪馬台国とはその時代、朝鮮の一部を含めて、九州のほとんどを含めた、三〇ヶ国の小国よりなる、女王卑弥呼の治める国で、今より一七五〇年前頃の事である。二世紀の後半倭国の大乱が治まり、邪馬台国の女王卑弥呼が、三〇の小国家を支配するようになって間もなく、倭国への使節となった一人の中国人がいた。魏の王朝前の後漢の時代の事である。倭国への使者は、倭国の国情や、邪馬台国への道筋を丹念に調べ、流暢な文章で纏めた、詳細な報告書をつくりあげた。魏が朝鮮半島に進出して、倭国との国交を開こうと試みた、西暦二三〇年代に、その報告書が多く写されて、魏の高官の間に拡がった。更にそれは「魏略」という歴史書となり、魏志倭人伝の編纂者、普の陳寿(二三二ー二九七)という学者は、魏の時代の歴史と、「魏略」の記事と、朝鮮帯方郡(京城)の役人の報告や、日本や魏からの使節の話を聞いて、有名な三国誌、六五巻のうち、魏志三十倭人の項、通称「魏志倭人伝」漢文にて約二千字によって、朝鮮の一部を含め、日本に邪馬台国のあった事を、記したものである。

 大部分は実際に、我が国を見た者の見聞を主として編纂されたものであり、かなり確実性が高いものと評価されている。徳川幕府の頃、新井白石や、本居宣長等に代表される学者、又明治、大正、昭和の我が国に代表される多くの考古学者、歴史学者、国文学者が、こぞって探求した邪馬台国、僅か二千字位であるが、多くの学者がこれと取組んで来たが、今日に至っても、なお解明されず、謎とロマンを求めて、学者間に異常なまで、大きなブームを巻き起こしているのである。魏志倭人伝には、女王卑弥呼が治めた、三〇ヶ国が挙げられ、それぞれに風俗、習慣、生活等が記されているが、このうちまだ多くの国が、今日どこであるのか、学者間でもまだ不明不一致のところが多い。女王卑弥呼の人物、環境、生活、死後の事等は省略して、朝鮮から、壱岐国まで、魏志倭人伝を読み下し文として記す。

 ()人は帯方の東南、大海の中に在り。山島に依りて、国邑を為す。

 もと百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所三〇国。

 郡より倭に至るには、海岸に(したが)いて水行して、韓国を()るに、(しばら)く南し(しばら)く東して、其の北岸()()(かん)(こく)に到る七千余里。

 初めて一海を(わた)る千余里対馬国に至る、其の大官を()()といい、副を()()()()という。居る所は絶島、方四百余里(ばか)り、土地は山(けわ)しく深林多し。

 道路は(きん)鹿(ろく)(こみち)の如し、千余戸あり、良田なく海物を食して自活し、船によりて南北に市(てき)す。

 又南に一海を(わた)る千余里、名づけて(かん)(かい)という、()()()()()()

 官をまた()()といい、副を()()()()という。方三百里(ばか)り。

 竹木(そう)(りん)多く、三千(ばか)りの家あり、やや田地あり。

 田を耕すも、なお食するに足らず、また南北に()(てき)す。

 

邪馬台国の中の壱岐

 ここで邪馬台国の中の壱岐を、魏志倭人伝の一支国から、今少し考えて見よう。原文には一大国とあるが、これは一支国の誤りである事は、ほとんどの学者が認めている。中国の史書にも、一支国と記されているからである。壱岐の事を書いた物としては、漢文で僅かに五〇数字であるが、日本にはまだ文字がなかった時代である。魏志倭人伝が日本の事を記した、最初の書とされているから、むろん壱岐の事を記した、最初の書でもある。

 西暦二七〇年、弥生時代の後期である。対馬の事についても、的確に居る所は絶島、土地は険しく深林多く、道路は(きん)鹿(ろく)の小径の如しと、今でも変わらぬ対馬の往時の事を記して、すべてが的確に記されている事に就いては、学者間に定評となっているとすれば、一七二〇年前の、壱岐の大体の事が推察できる。之を以てするならば、一七〇〇年前から、已に壱岐は朝鮮、中国からも一国と認められ、そこには国を治める者もいて、副官までいた統治国であった。又その頃已に、壱岐に三千許りの家があったとするならば、人口も一万数千人位いたものと推定される。またその頃は山林が多く、田畑は少なく、島民全部が自給するには足らず、対馬と同じように、南北に船によって、物と物との商いをしていた事も判る。古代の事については、残されている書がないため、教えられる事が多いが、釜山より対馬、対馬より壱岐まで五〇余キロメートルであるから、十二、三里に過ぎないのに、又南に渡る千余里とあるのには当初迷ったが、中国の当時の里数等丹念に調査し、又宮崎康平の邪馬台国論等によって、自分なりにいくらか解明することができた。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社